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1章 佐藤和心(さとうなごみ)
2.引っ越し
しおりを挟む「・・・・・・ちゃん、和心ちゃん」
母の声が聞こえる。
ここは天国か。
寝ぼけているようだった。けれど、すぐにおばさんと話していたことを思い出して飛び起きた。
あんなので死んでたまるか。
時刻は七時、どのくらい母はおばさんと話していたのだろう。私より長いのは言うまでもない。それなのに元気そうに夕食を作っている。バケモンだ。
私は寝て元気になったので、自分の部屋に向かおうとした。
「もうチョットでご飯できるよ」
後ろから声が聞こえた。もう自分の部屋に行っても意味がないと思い、私は席に座る。すると同時に、玄関の扉が開いた。父だった。
「オカエリ」
「ただいま」
父はそう言うと、スーツから着替えるために二階へ上がった。母とふたりきりというのが気まずい。
「最近、学校ドウ?」
母がそのように聞くと、私の中に少し怒りがわく。だれのせいでこんなことになっていると思ってるのか。
「いつも通り」
机に肘をつき、少し皮肉を込めてそっけなくつぶやく。そんな私を見て、母は悲しいそうな目を向けた。
それから会話もなく、沈黙の時間が流れた。母は夕食の準備で忙しくしている。
母が手際よく料理をテーブルの上に並べていく。ホウレンソウのお浸し、八宝菜、そして、みそ汁だった。
「冬野菜ばかりだな」
着替えを終え、キッチンに来た父がつぶやいた。
「ソウなの。原さんから譲ってもらった」
三人がそれぞれ席に座る。母と父は隣り合って、私はその向かい合わせだ。私はホウレンソウから手をつけた。母のことは嫌いだが、料理はおいしかった。
「パパさん、どうしたの?」
母が不思議そうに尋ねた。確かに父は箸を持ったままで料理にまったく手をつけようとはしていなかった。
「ちょっと、話さなければいけないことがあってな」
「話さなければイケナイこと?」
「あぁ、実はな、会社から、転勤するよう、言われたんだ」
私の手が一瞬止まる。ほんの一瞬だけだった。その後は、なにもなかったかのように手を動かす。
「テンキン? 引っ越しするの?」
「ああ、そうだ」
私は転校か、と心の中でつぶやく。だけど、うれしいともかなしいとも思わなかった。どこの中学校でも同じだから。
「ドコなの?」
「千葉県だ。それでふたりに意見を聞きたいんだ」
お父さんは眉毛をひそめながら隣の母から質問する。私からじゃないんだ。そう父のことを見た。父は私より母のことが好きなのかもしれない。
「ワタシは、いいよ」
「そうか」
父は喜んでいるのか悲しんでいるのかわからない表情を見せる。
「和心はどうだ?」
父は真顔で私のことを見た。転校と聞けば、友達と離れ離れになるから嫌、という意見が多いだろう。だけど、私にとってはそれがない。今の私の中で唯一いいことだろう。
「いいよ、別に」
「そうか」
父は表情を変えなかった。明らかに母との反応が違う。やっぱり私には愛情はないんだ。私はもうふたりから見放されているのだ。
三週間ほどの日にちがたち、引っ越しの日になった。最後の学校の日、私が転校するにあたってお別れ会のようなものをすることになったが、それはクラス委員から色紙を渡されるというたった少しの時間しかなかった。
色紙には、「また会いたい」や「がんばってね」という同じような文字が並ぶ。そんなこと思ってもないくせに。
学校を去る前、担任の先生と廊下を歩いた。当然のように会話はなかった。けれど、私が靴を履き替えて別れようとする間際、こんな言葉が聞こえてきた。
「あぁ、もうあんなめんどうな母親に関わらないで済む」
独り言のようだった。はっきりと聞こえたわけではない。
私は気のせいだと思い込み、何も思い出もないこの場所を足早に立ち去った。
時刻は昼ごろ、私は車の後部座席に乗っていた。父は運転席に座っている。千葉までということで長い移動になりそうだ。だけど、少しわくわくしている自分もいた。
母はというと、外で近所の人たちと仲良く話していた。
「アグネス、もう会えなくなるの。悲しいわ」
「また会いに来るネ」
後ろのほうから会話が聞こえる。何を話しているかは興味がなかったので聞き流そうとした。けれど、
「和心ちゃんも挨拶ドウ?」
という、お母さんの声が聞こえてきた。
「別にいい」
そう否定の言葉を告げる。近所の人たちに感謝していないわけではない。ただ、母の前にはあまり出たくなかった。
「キットさみしいのヨ」
「そうよね」
外から笑い声が聞こえた。耳をふさぎたくなる。勝手なこと言いやがって。
「なぁ、和心」
運転席から父の声が聞こえてきた。
「なに?」
「転勤の話をした日なんだが、その、すまなかった。先にお前から話を聞いておくべきだった」
一か月ほど前のことを謝られても。正直、忘れていた。
「別に」
私は窓の外の見慣れた景色を見ながらぶっきらぼうに答えた。
「少し言い訳をすると、僕はお母さんが頑張っている姿を何度も見ているんだ」
その言い方だと私が頑張っていないように聞こえる。これまでクラスメイトから毎日冷たい言葉を投げかけられて、それなのに一度も休んだことない私を褒めてくれてもいいのに。
私は父から目を離すため、窓の外の景色をながめた。父は懐かしむ口調で続けた。
「今話している、原さんも最初は仲が良くなかった。むしろ、追い返されたぐらいだよ」
「えっ」
気が付くと、私は助手席より前に体を乗り出していた。母があの人たちに追い返されていたなんて信じることができない。
目を丸くしていたが、父はそんな私に気付く様子もなかった。
「和心が生まれてからこの町に来たんだけど、最初、お母さんが近所に挨拶をしても煙たがれていたんだ。けれど、お母さんはそれでもあきらめずに挨拶に行った。そして、一年くらいたってようやく受け入れてもらえるようになったんだ」
父の言葉を素直に飲み込むことができない。だって、今、あんなに楽しそうに話しているのに、昔は確執があったなんて。
「僕が転勤の話をしたら、断られると思ってたんだ。今まで築いてきた人間関係が水の泡になるからね。でも、断られなかった。僕はその時、改めて思ったんだ。『この人はなんて強い人なんだろう』って」
私はなにも返せなかった。父が嘘を言っていないという保証はなかったけれど、その嘘を言う理由が見つからなかった。
父が私より母のほうが気にかかることに怒りを覚えた自分が恥ずかしかった。悪口を言われても、逃げる私とは違い、立ち向かっていく母のほうが頑張っている、と父にはそう映るだろう。
私はこの時から、母への気持ちが揺れ動いたのだ。
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