ラベンダーの恋

乾燥果実

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第一章

恋とは脅迫 (上)

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私は死体になりました。
ただの骨を肉で固めただけの体です。
死体である私に見える世界は、どこまでもどこまでも真っ暗でした。
それは物理的にではなく、心情的なもの。
私の心はあの瞬間息を引き取ったのです。
貴方がいたから私は私であったのに。
貴方がいなくなって、私は私ではなくなりました。
あの日貴方と離れたとき、本当に死ねればよかったのに、けれど体はそう簡単に死んではくれませんでした。
だから私はあの日から生きた死体となったのです。


  *  *  *


「おはよーございまーす」
「おはよー」
次々と辺りから告げられる挨拶たち。
高校教諭である僕は、生徒たちからの挨拶の的であった。それはもう次々と言葉の矢を飛ばされること飛ばされること。
これだけ言うとなんだか僕が生徒にとって人気者のように聞こえるかもしれないが、全くもってそういうことではない。
挨拶は最強の会話だ。それがこの学校の方針で、生徒も教諭もたまに来る保護者も、挨拶だけはなにがなんでもこの学校においては必須事項なのである。
挨拶週間なんてものもあり、それに当たったクラス班は一週間七時半登校を義務付けられ、おはようパネルを所持し、後から登校してくる者たちに挨拶をしなければならないという、一部の生徒からは非難される校風もあった。
正直いってしまえば教員からしても面倒な校風であると思う。
挨拶週間の当番になってしまった者達に合掌するのはもう完全に癖であった。
「おはようございます足立先生」
「あぁひいらぎ、今日も元気いいな。おはよう」
数多く飛び交う挨拶の中、とても聞き慣れた声の方に振り返れば、果たして自らが受け持つクラスの男子生徒、柊進ひいらぎすすむであった。
僕が挨拶を返せば、彼はぱぁっと効果音がつきそうな笑顔を振りまいた。
ふわっふわの癖っ毛な髪と高校男子の割には小柄な体が相まって、さながら小型犬のようである。
幻覚でブンブン振ってる尻尾が見えそうだと内心笑っていれば、柊が訝しげに僕を見た。
「どうかしたの?」
「……いやいや、なんともないなんともない」
「ホントかなぁ」
じっと一心にこちらへ向けられる視線が、昨日の出来事を思い起こさせる。
昨日の出来事とは、もちろん東雲塔子からの突発的求婚事件の事だ。
東雲塔子の黒曜石のような瞳から受けるまっすぐな視線を思いだし、なんだか下半身がむずむずした。朝っぱらから生徒の視線を感じて何を想像してるんだ僕は‼
嫌な汗をかきながらも柊にホントホントと苦笑いしながら告げれば、彼は疑わしげにしながらもふーんと唇を尖らせるにとどまった。
なぜかなつかれているんだよなぁ、僕。
「心配してくれるのはありがたいけど、お前は次のテストの心配した方がいいんじゃないか?」
意地悪でそう言えば、柊はうぇぇっと顔をしかめた。
勉強は学生の本分だろうに。と笑えば、言わないでー!と彼は自分の教室へと走って行ってしまった。
「廊下走るなよー」
小さくなっていく柊の背中を見ながら、僕も職員室へと足を急がせた。


「足立先生、あの話聞きました?」
そう声をかけられたのは昼休みの時だった。
声の主である同じ教師の御手洗艶子みたらいつやこを見やれば、彼女はなんだか楽しそうであった。
内心同僚であっても女性に声をかけられたことにびびっていたが、彼女に対する慣れから比較的すぐに動揺は収まる。
「あの話?」
僕が知らないのが分かると彼女はますます楽しくなったようで、声音がどんどん喜色ばんでいった。
「あの子ですよ。足立先生のクラスの市島明里いつしまあかり!」
その名前を聞いて、市島の家庭事情を思い出す。
彼女の家には父親が存在しない。俗に言うシングルマザーと言う奴である。
その影響かどうかは分からないが、市島はこの学校内で素行の荒い生徒に分類されていた。
三日くらい前にスカートの丈が短すぎるのを注意したら、ウッセェ童貞野郎‼と言われて間違っていないだけにだいぶ悲しくなったことも思い出す。
「市島がどうかしたんですか?」
「私も今日聞いた話なんですけどね。どうやら彼女、援交してるらしいんですよ!」
御手洗先生はまるで囁くようにそう告げたが、内容は驚くほど大きな事柄であった。
しかしそんな爆弾を投下した当の御手洗先生は、何が楽しいのかニコニコしている。
入社当時からであったが、本当に彼女は人のスキャンダルが大好きなのだなと呆れた。
彼女もそこそこ美人であるのに、結婚出来ないのはきっとこの性格のせいに違いない。
心底楽しいと言った表情で色々なところから仕入れたと言う噂を話す御手洗先生に、僕は深くため息をついた。


童貞を卒業したいならソープにでもいけばいいじゃないかって?
チッチッチ。それはあまりに浅はかだ。
初めては初めての人と。それが僕のちんけな夢であった。
つまり何が言いたいのかと問われれば、僕は発展場だとかネオン街だとか、そういったものへの免疫が全くなかった。ホントのホントにこれっぽっちもだ。
だと言うのに、なぜそんな場違いなところに今僕がいるのかと尋ねられたら、それは昨日御手洗先生から聞いた噂が気になったからだった。
火のないところに煙はたたないとは言うが、何て事ないことが勘違いから広まるとういうのは噂話では良くあることだ。
例えば親戚のおじさんと話していたところを見られて、素行の悪さからそんな風に勘違いされた可能性だって捨てきれないのである。
そう思いながらも今日このネオン街を夜回りしているのは、市島が学校を休んだからであった。
あんな噂を聞いた直後であっただけに、なんだか居ても立ってもいられなくなったのである。
ここをうろうろし始めて早三時間程経つが、やはりと言うべきか人が多い。
酔っぱらい。露出の多い女性。香水や化粧、汗やげろの淀んだ臭い。熱気。喧騒。目に痛い眩しいネオン。
一杯だって飲んでやしないのに、なんだかこの空間に酔いそうだ。もちろんいい気分の方ではなく、車酔いみたいな感じの方で。
気持ち悪さからもう帰ろうかと考えていたその時、人々の波と喧騒の中僕は見た。
スーツを着た、頭が散らかっているデブと腕を組んで歩く、灰色がかった金髪の少女の姿を。
「市島‼」
そう僕が大声で叫べば、その声が届いたのか彼女はこちらに振り返った。
その顔は間違いなく自分の受け持つクラスの生徒である、市島明里であった。
「動くな!今そこにいく!」
そう宣言して人をかき分けながら近付こうとするが、彼女はデブを連れ、人の波へと消えてしまう。
「くっそ‼」
ぎりっと奥歯を噛み締める。
あれが親戚のおじさんかもしれない?バカ言え!親戚のおじさんとまずネオン街なんぞいること自体が不味いだろうが!
もうどこかのホテルにでも入ってしまったのか。いくら探しても市島の姿は見付からない。
「足立さん」
不意に背後からかけられた声に反射で振り向けば、そこに立っていたのは紫のドレスを着た東雲塔子であった。

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