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第三章 武術会
1 出立
しおりを挟む「お婆さま、マール。これまで、まことに有難うございました」
その夜。
佐竹はあらためてマールの家で、彼女とその祖母に向かってこれまでの礼を言った。彼女らと向き合う形で正座をし、いつもの一礼をする。
こんな身元もよく分からない男を何日も泊めてもらったというだけでも、大いに感謝に値する。佐竹は丁寧にそう述べて、再び深く礼をした。
祖母のほうは静かに微笑んで頷いただけだったが、マールはその隣で座り込み、唇を噛み締めて下を向いているばかりだった。
「明日、夜明け前から、ガンツ、ケヴィンと共に隣村の武術会へ出かける予定です。やってみなければ分かりませんが、結果によってはもうそのまま、こちらへ戻らないということもあろうかと。それでひとまず、ご挨拶を」
「そうでしたか。武術会のことは村の者から聞いております。この村のために、貴方様のお手を煩わせることになりましたそうで。こちらこそ、まことに有難う存じます」
マールの祖母は目こそ見えなかったのだが、こんな辺境の村に住む人にしてはなかなかに教養のある人で、言葉遣いもきちんとしていた。
実をいうと、佐竹はこの老婆からも多くのことを学ばせてもらったのだ。
言語そのものはもちろんのこと、この国の歴史や文化、習俗、また伝説や神話に至るまで、老婆の知識は異世界の人間である佐竹にとって、なかなか参考になることが多かった。
昼間、マールがルツの前で主張していたように、彼女から教わった言葉も勿論多い。
だが佐竹はむしろ、正式な整った言葉遣いについてはかなりの部分、このマールの祖母から指南を受けた。もちろん高齢者の知識であるために、それはやや古風なものであるのかもしれない。しかし、ある程度難しいと思われる敬語の扱いや礼儀作法のありかたなど、この人から学べることは大いに意義があると感じたからだ。
なんでもそうだが、ただ何も知らずにいるのと、知っていて敢えて使わないことの間には、大きな違いが存在する。
その祖母とは対照的に、佐竹の挨拶に対して言葉少なに頷いただけのマールを見て、佐竹はちょっと怪訝な顔になった。だがそれ以上はもう何も言わず、二人に夜の挨拶をして、すぐに眠りについたのだった。
◇
翌朝、未明。
佐竹は前日に約束していた通り、簡単な旅支度をして村の入り口の木戸まで歩いていった。とはいえ、自分の持ち物などごくわずかだ。制服の靴と、あの木刀。あとは、シャツのポケットに入ったままになっていたスマホぐらいのものだ。もちろんスマホなど、ここではまったく使いようのない代物である。
空にはあの不気味な姿を晒した「兄星」が浮かんで、中途半端な暗さの夜空をいつものように明るくしていた。
マールはあれから結局一睡もできなかったようだったが、やはり何も言わずに佐竹の後ろからついてきた。
「兄星」。
この星との連星で、兄弟星であるあの星を、この国の人々はそう呼んでいる。
あちらが兄ということは、こちらが弟か妹ということなのだろう。なぜこちらが兄ではないのか、その辺りの理由はよくわからなかった。
二人が薄明るい夜道を歩いてゆくと、ガンツとケヴィンはもう木戸のところで待っていた。近づくと、巨大なものと、細身で小さな二つの影がこちらを向いた。二人とも佐竹の木刀のような、ただしもっと短い物を背中側で腰帯に差し、風呂敷のような布を袈裟懸けにしている。布の中身は旅の必需品なのであろう。
「お? マールも来たのかい? えらい早起きだな、今日は?」
にやにやとちょっとからかう様子で、ケヴィンがマールに声を掛けた。マールはじろっと青年を睨みつけたが、ぷいとそっぽを向いただけだった。そして、布で包んだ小さな包みをぐいっと佐竹の腹筋の辺りに押し付けてきた。
「お弁当っ。大したもんじゃないけど、途中で食べてね」
「ありがとう、マール。助かる」
佐竹はそれを受け取って、素直に礼を言った。
マールは敢えて佐竹の目を見ないようにしている様子だったが、木戸の前でちょっと足元の小石を蹴るような素振りをしながら、ぽつりと言った。
「気をつけてね。怪我とか……それから」
そこで、マールはちょっと沈黙した。
「ううん。なんでもない! ……とにかく、気をつけて!」
「分かった。色々、世話に──」
言いかけた途端、ぱっとマールが両手で自分の耳を塞いだ。
「そういうの、聞きたくないのっ! もう、さっさと行きなさいよ! すぐに日が昇ってきちゃうんだから!」
言い放ってくるりと振り向くと、そのまま全速力で家のほうへと走ってゆく。
ガンツとケヴィンが呆気に取られたようになってその背中を見送った。
「なんだあ? 一体、どーしたんだよ??」
呆けたケヴィンの声を聞きながら、佐竹も少し彼女を見送っていたが、やがて振り向き、村の外へと足を踏み出した。
恐らく、この村に戻ることはもうあるまい。
試合の成否に自信があるからと言うよりは、自分の目的を果たすためには、もうここにいる意味がないからだ。
これから向かうウルの村でもまた、ある程度の情報を得ることはできるだろう。が、その後は恐らく、まっすぐ王都を目指すことになるはずだ。
内藤を攫ったあの者たちは、この村人たちの知り得ない知識を豊富に持っているようだった。それはとりもなおさず、彼らがある種の権力者側に立つ者らだという事であろう。為政者だとまでは断言できないが、宗教的な上位者か、あるいは商人などの金銭的に裕福な者らである可能性もなくはない。
いずれにしても、それらは恐らく王都にいよう。実際そこにはいないまでも、手がかりは必ずそこにある。
「なに小難しい顔してんだよ? サタケ」
と、隣から声がして、佐竹の思考は中断した。見れば、長めの金髪を後ろで括った青年ケヴィンが、不思議そうな顔でこちらを覗きこんでいた。彼は見るからにひょろっとした小柄な男で、荒事には全く向かない感じがした。年のころは、二十歳を少し過ぎたぐらいに見受けられる。
一方のガンツは基本的には無口なタイプらしく、最前からずっと、ただ黙って二人の後ろから歩いてくるだけだった。その胸板といい二の腕といい、隆々とした筋肉は、夜目にも見事なものに見えた。年齢は、ケヴィンと同じだということだった。
「……いや。なんでもない」
佐竹は静かに答えた。
三人はすでに村からかなり離れて、いまは森の中の小道を、あの岩山とは逆の方向に向かって歩いている。道はなだらかな下り坂で、歩くにつれてミード村から次第に高度が下がってゆくのがわかった。こうして見るとあの村は、相当の山奥にあったらしい。
「なんかさあ。あんた、あっというまに達者になっちまったよな? ここの言葉」
ケヴィンは黙々と歩くことが性に合わないタイプらしく、ともかく誰かとの会話を求めているようだった。
「別にもう、俺がついてくる必要もねえほど上手くなってねえ? っていうか、とっくに俺より上手いかもよ!」
「…………」
さすがに、そんなことはあるまいが。佐竹は、ちらりと後ろのガンツを見やった。
道中、喋りたくて仕方のないらしいケヴィンに対し、ガンツは彼が何を言おうとわりと「馬耳東風」とばかりに聞き流している。どうやら彼は、ケヴィンの話し相手としては、全く当てにならないようだった。
佐竹はやむなく、しばらく彼の相手をすることにした。
「マールとマールのお婆さまが、相当、手助けをしてくれたからな」
「ん~。いや、それにしてもよ~……」
ケヴィンは顎に手を当てて、じっとまた佐竹の顔を覗きこんだ。そして。
「なー、あんた。実際、どこから来たわけよ?」
「…………」
もはや、直球としか言いようのない質問が飛んできた。
しかし、これについては佐竹のほうが聞きたいぐらいのものだった。それでやむなく、正直に答えてみた。
「『分からない』、と言うのが一番近い。なにしろ、こことは全く違う。空も、星も、太陽も、俺の住んでいた場所とここでは、まったく根本から異なっている」
そもそも「地球」だの「日本」だの言ったところで、その単語がこの青年にどんな意味があるというのだろう。
「へー! 星も、空も、太陽も違うって……?」
「信じられない」という感想をそのまま乗せた表情で、ケヴィンはぱかりと口を開けていた。
「んで? あんたは、なんでまたこっちへ来ちゃったのよ?」
後ろでガンツもこれらの会話に耳を澄ませているようだ。それは気だけで十分わかった。
「友人を、追ってきた」
佐竹はまた、ありのままを素直に答えた。この場で嘘をつく意味はあまりないと思ったからだ。
むしろ、ここである程度の事実を開示して、もし彼らに共感を持ってもらえるなら、今後の助けになってもらえる可能性もないではない。
もちろん、かれらがこの世界の為政者の側に立ち、自分を彼らに突き出すと言い出すことも考えられなくはないのだが。それはそれで、その「為政者」に近づくための方便と思えばいいことだろう。
それ以降は、ケヴィンがあれこれと興味の赴くままに質問するのに合わせ、佐竹はできるだけ彼らにわかりやすい言葉を選びつつ、これまでの経緯を説明していった。
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