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第二章 新参者
8 牙狗(きばいぬ)
しおりを挟むルツの家を飛び出て随分走ってきてしまってから、マールはようやく立ち止まった。
もう、村の外れまで来てしまっていた。家のある方角とは反対の、サタケを最初に見つけた側の村はずれである。気がつけば、村を囲む獣避けの柵の外まで、つい走り出てしまっていた。
たった一人でこんな所まで来たのは初めてだった。
(やっぱり……)
そこからは、なんとなくあのサタケを初めて見つけた木の方へ向かって、とぼとぼと歩いた。そうやって歩きながら、マールは考えていた。
やっぱり、サタケは行ってしまうのだ。
ルツ婆がサタケに仕合ってみよと言ったガンツという若者のことは、マールもよく知っている。最初にあの木の下でサタケを見つけた時に、彼を担いで運んでくれたのも彼だった。
とても気質の優しい青年だが、体格は頑丈で、背丈もサタケより頭ひとつ分も大きくて逞しい。腕力だけで言うなら、多分ガンツのほうがサタケよりも優れているだろう。もしこの勝負が腕相撲のようなものだとしたら、勝つのは恐らくガンツのほうだ。
(だけど……)
マールには、二人を戦わせるまでもなく分かったのだ。
この勝負、必ずサタケが勝つ。
普段の、あの彼の武術の稽古をみていれば分かる。あの体捌きは、明らかに常人のそれとは違う。本当に武術を会得して、それに練達した人でなければ出来ない動きだ。こんな子供で、素人のマールにでさえも分かるぐらいなのだから、その技術は相当なものであるに違いない。
あのサタケが、本気であの剣で戦ったら。
こんな牧歌的な田舎で、普段せいぜい野犬を追い払うぐらいのことで、誰と戦うこともなく農作業など力仕事をしているだけのガンツに、勝てる目などあるだろうか。
他の村の力自慢の青年たちにしてもそうだ。彼らだってガンツと同じ、田舎の暮らしに慣れた、平和な顔をした若者たちに過ぎない。マールもあの「武術会」を見に行ったことがあるので、大体どんな顔ぶれの青年たちが参加するのかは分かっている。
その中の誰が、あのサタケに勝てるだろうか……?
「…………」
マールは唇を噛み締めた。
このままでは、サタケはガンツばかりでなく、あの武術会でも、あっさりと優勝してしまうことだろう。
(でも……!)
マールは、ぶんぶんと首を横に振った。
(そうなったら……)
サタケは間違いなく、王都に行ってしまう。
彼には、大事な目的があるからだ。それがいったい何なのかはマールにはわからない。けれど、とても大事な目的なのだということだけは分かっていた。
時々、眉間に皺を刻んで夜空の「兄星」を見つめているサタケの静かな横顔にはいつも、その決意がはっきりと見て取れたから。
サタケは、行ってしまう。
きっとこんな村など振り向きもしないで、まっしぐらに行ってしまうのだ。
そしてきっと、こんな小さな村娘のことなんて、すぐに忘れてしまうだろう。
周囲の景色がぼやけて霞んで、マールはもう何も見えなくなっていた。
あの楡の木の下に立ち尽くして、気がつけば、ただもうぼろぼろ涙をこぼしていた。
「……だ、いやだああ……」
両手でスカートをぎゅっと握り締めたまま、しゃくりあげる声も我慢できずに、マールは泣き続けた。拭っても拭っても、涙は溢れ続けて止まってはくれなかった。
(……行かないで)
(行っちゃ、いやだ……!)
たった十日だ。
たったそれだけの時間なのに、彼は自分の心に住みついてしまった。
マールはそれが、恨めしかった。
できることなら、今すぐ十日前の自分に戻りたかった。
……だから。
マールが周囲のことに気付くのは、一歩も二歩も遅れてしまった。
彼女の知らないうちに、その周囲に、次第に野生の生き物たちが近づいてきていたことに。
◇
マールの悲鳴が聞こえた時、佐竹は村の入り口にいた。村の中をあちこち探した挙げ句、彼女の姿がどこにも見えないため、仕方なくこちら側を探しに来たところだった。
「………!」
悲鳴はその坂の下、小道を下ったあたりから聞こえてきた。何か、野犬の唸り声のようなものも聞こえる。
佐竹は咄嗟に、村を囲む柵から棒を一本、力任せに引き抜いた。そのまま、それを手にして声のした方へと猛然と駆け下りた。
「マール!!」
彼女は、あの楡の木の下にいた。真っ青な顔色で、木の幹を背にして立ちすくんでいる。その周りを、野犬のような姿をした生き物が、四、五匹ばかりで囲んでいた。
生き物は、確かに犬に良く似ていた。ただ、その体は通常の犬より二周りばかり大きかった。体毛はやや長めの黒色で、その牙が妙に大きく、それがだらりと下がった口唇から飛び出ていた。
佐竹はそれが、村人たちがよく話題にする「牙狗」であろうと見当をつけた。勿論、森に棲む獣どものひとつである。
牙狗たちは今にもマールに飛びかかろうとしていたようだったが、佐竹の叫び声と足音に反応して、びくりとこちらを窺った。
佐竹は目の前の一匹の頭を容赦なく殴りつけて目の前からどかせると、一足飛びにマールを背にして、獣どもの前に立ちはだかった。殴られた一匹は、ぎゃうん、と本当に犬のように鳴きわめいて少し離れた。
他の四匹は、まだ何ひとつ諦めるつもりはないらしく、こちらをじろじろと窺う様子だった。じりじりと木の周囲を回り、低く唸りながらこちらを眺めている。だらしなく開いた口唇から、だらだらと唾液が滴っていた。
「サ、サタ……」
震えながら背後で言いかけるマールを片手で制して、佐竹は沈黙したまま、獣どもを睨み据えた。
静かに、呼吸を整える。
(……やるのか?)
彼らに、心の中で問いかけた。
それは、言葉とは少し違うものだ。
(やるというなら、容赦はしない)
言うなれば、気の圧力とでもいったものか。
だが、それは気は気でも、いわゆる「殺気」というものだろう。
すうっと手にした棒きれを下げ、下段の構えになって静まり返る。
この時点ですでに佐竹の脳裏には、彼らがどう飛び掛って来ようとも、どこに打ち込み、薙ぎ払い、叩きのめすかの未来が冴え冴えと見えていた。
彼らが掛かってきたが最後、それは彼らの死を意味した。
再び、彼らに心で語りかける。
(……それでも、やるのか?)
「…………」
勝負は、それで終了した。
牙狗たちは、あっという間に尾を股の間に巻き込んで、そそくさとその場を去っていった。
あとはまるで何事もなかったかのように、平和なそよ風が楡の小枝をさやさやと揺らしているばかりだった。
「…………」
マールは、愕然とした目で佐竹の背中を見上げた。一体なにが起こったのか、まだまったく分からずにいた。
佐竹は静かに振り向くと、マールを見下ろした。それはもう、いつもの静かな黒い目だった。
そしてひと言、こう言った。
「一人でこんな所へ来るな。父上、母上が悲しむぞ」
「…………」
「ああ、勿論、お婆さまもな」
マールは何も言えなかった。足ががくがく震えて、両手を握り合わせ、体もぶるぶると痙攣したようになって、ただびっくりしたような目で佐竹を見ているしかできなかった。
佐竹はそんなマールを見て、ちょっと困ったような顔になったが、振り向いて地面に片膝をつき、マールの肩に手を置いた。
「落ち着け。……もう大丈夫だ」
「………!」
途端、マールの目に涙が盛り上がった。
次の瞬間、その細い腕がいきなり首に巻きついてきて、佐竹は一瞬、虚を衝かれた。
物凄い力だった。そのまま、マールはもう、身も世もないような大声でわんわん泣き出した。
佐竹は相変わらず、ちょっと困った顔のまま、しばらくそこにじっとしていた。
が、とうとう諦めたかのように、彼の首っ玉にかじりついたまま、まるで赤ん坊のように泣き続けている彼女を抱え上げ、ゆっくりと村のほうへと戻っていった。
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