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第十章 帰還

4 拳骨

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 そこからは、俺の二重生活が始まった。
 こちらで寝ている七時間ほどは、あちらで「魔王ヒュウガ」としての政務に当たる。起きている間は、ひたすらリハビリ。その間、魔王の俺はあちらでずっと眠っていることになる。要するに、魔王としての俺は向こうで三週間ほどは眠りっぱなしということになるわけだ。
 その間の政務その他は、部下たちや四天王の皆の協力によって進められる。
 ちなみに、真野はあちらとこちらでの記憶の分断があったけれども、ドラゴンたちの配慮もあって、幸いそれは避けられている。使える魔力についても同様で、今でも俺は以前どおりの力をもったままだ。

 リハビリは順調だった。ギーナの言葉は真実だったからだ。それから俺は、医者が驚くほどの驚異的な回復を見せることになった。もちろん、彼女の魔法の助けによるところが大きい。だが、当然ながら自助努力は必要だった。
 人の体と地球の重力というのは、まことに驚くべきものだ。宇宙飛行士たちは、日々きついトレーニングを欠かさずにいても、少しの期間宇宙空間にいただけでろくに歩くこともできなくなる。筋肉というのは、使わずにいるだけで恐るべき早さで消えていくものなのだ。
 今回のことでは、俺もそれを自分の体で実感することになった。

 ギーナは毎日やって来たが、しばらくは俺の家族と鉢合わせをしないように気をつけているようだった。
 ついでに言うと、今どこに住んでいるのかとか、どうやって生活しているのかなどもなかなか教えてくれない。俺としては非常に気になって何度も訊ねたのだが、「そのうちわかるさ」と、上手くはぐらかされるばかりだった。

 そんなある日のこと。
 遂にギーナが、昼の面会時間中にひょいと病室にやって来た。

「ヒュウガ」

 それは、ちょうど孝信と良介が来ていた時だった。俺はベッドに腰かけており、二人はそばに立っている。
 彼女の声がした途端、二人はぱっと振り向いた。

「えっ……」

 ギーナの姿を見た途端、良介がぎょっとなって目を剥いた。ごくりと喉を鳴らしている。
 そういう反応になる理由については大方の予想がつく。口の中で、こそっと「レナたん?」と言ったのがはっきり聞こえたのだ。分かってはいたことだが、俺はやっぱりげんなりした。
 妖艶そのものといった美女の突然の登場に、普段はあまり物事に動じない孝信までもが目を白黒させている。ギーナはギーナで、一瞬「へ?」という顔になった。

「あ、そうか。ごめんごめん。ここにいるの、みーんな『ヒュウガ』なんだもんね?」

 今日のギーナは、やっぱり胸元の開いたひらひらしたカットソーに、フレアスカートといういで立ちだ。女性のファッションにはまったく詳しくないけれども、ちゃんとこちらの世界にふさわしいもののようだ。アクセサリーも全体に品よくまとめている。
 ギーナは軽く咳ばらいをすると、居住まいを正して二人に一礼した。

「初めまして、ギーナといいます。ヒュウガ……じゃなくってとは、ちょっと前にリハビリテーションセンターでお会いして」
「……そうでしたか。弟がお世話になっております」
 孝信がきりりと一礼し、良介も慌ててぺこりと頭を下げた。それぞれ、簡単に自己紹介する。ギーナが柔らかく微笑んだ。
「この間まで、知り合いがこちらにお世話になってて。あ、もう退院したんですけどね」
 澱みなくそれらしい理由を並べるギーナの姿は、まことに堂に入っている。ファッションのこともそうだけれども、リハビリテーションセンターとかなんとかいうこっちの世界の単語や知識は、一体どこから仕入れているのか。

「えーっと。それで、今はその──」
 と、そこでいきなり、ギーナはもじもじし始めた。少し頬を赤らめてちらっと俺を見、しきりに瞬きを繰り返す。
「ツ、ツグミチさんと……お、おおお付き合いを……させてもらってて」
「え──?」

 孝信と良介が凍り付いた。次の瞬間、バッと同時に俺を見つめる。
 完全に度肝を抜かれた顔だ。
 なんだと言うんだ、失礼な。

「ツっ、ツグ兄! レナたんと──?」
「誰が『レナたん』だ。失礼だぞ。この人はギーナさんだ」
 俺の声は地を這っている。
 彼女は断じて、お前の好きなゲームのキャラクターじゃない。
「あっ、う……。す、すんません……」
 慌ててギーナに謝る弟を後目しりめに、孝信がすっと目を細めて俺を見た。
「意外だな。お前、そんな手の早いタイプだったか?」 
「……いや、あのな」

 タカ兄まで、何を言う。俺は渋い顔になった。
 とは言え、説明には困るしかない。なにしろ俺はこれまでのところ、あの異世界での顛末なんて、彼らにまったく語っていない。どこから話せばいいものやら、そもそも信じてもらえるものやら、皆目わからなかったからだ。そして恐らくこれからも、話すことはないだろう。
 ギーナが「うふふ」と笑いながら、さりげなく俺と兄弟の間に割って入った。

「あたしのひと目惚れなの。それで猛アタックを掛けたわけ。だってツグミチさん、本当に素敵な方だから」
「うっそでしょ? ツグ兄が!?」
 良介が頓狂な声をあげる。
「めっちゃめちゃ朴念仁ッすよ?? 目、節穴なんじゃないッスか!? のどこがそんなに──ぐわ!」
 良介の頭頂部に、孝信の容赦ない拳骨が炸裂した。「痛ってええ!」と悲鳴を上げたところで、そのままがしっと頭を掴まれ、無理やりギーナに頭を下げさせられている。
「すみません。愚弟が大変失礼なことを」
「……いえ、大丈夫」
 ギーナは目尻に涙を滲ませて、必死に笑いをこらえている。
「心配しないで? そういうことも全部、わかってるから。あたしこそ、こんな年上のくせにごめんなさいね。あ、でも多分、お兄様よりは年下ですから安心して?」

 口元に手を当ててしなを作り、くすくす笑う姿は艶麗そのもの。
 ちなみに毎度のことなのだが、先ほどから同室の入院患者の男たちの視線も、完全に彼女にくぎ付けになっている。無理もない話だった。
 そうでなくても、男ばかりのむさ苦しい大部屋だ。ギーナの豊かな胸元といい、きゅっと締まった細腰といい、艶めいた立ち居振る舞いといい。とにかく、入院中の男どもの目の毒にならない要素がどこにもない。
 孝信と良介の顔が、鳩が豆鉄砲を食ったようなものから、どんどん不信げなものに変貌してゆく。
 ……分かるぞ、何を考えてるか。

(信じられん。だまされてるんじゃないのか、こいつ)
(うんうんうん! ぜってーだまされてるだろ、ツグ兄!)

 目配せをしあうな、目配せを。
 まったく、失礼な野郎どもだ。
 が、さらにその時、とんでもない独り言が聞こえてきた。

「そっかあ。合気道って、そんなモテるのかあ……。オレ、ちょ~っとやってみよっかな──」

 再びその頭頂部に、容赦ない制裁が炸裂した。
 もちろん、目を剥いた俺のかわりに孝信が振り下ろした拳骨だ。

「痛いってえええ──! おんなじとこーっっ!」

 良介の情けない悲鳴が、またもや病室に響き渡った。

 
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