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第十章 帰還
2 再会
しおりを挟む「……ヒュウガ。大丈夫?」
ギーナだった。
「ギ──」
言いかけるが、口も体も思ったようには動かない。分かっていたことだったが、ひどくもどかしかった。仕方なく、じっと彼女を見上げる。
ゆるやかにアップにした紫の髪に、桃色の瞳。小麦色の肌。やや肩口の開いた紺色のワンピースは完全にこちらの世界のものだし、尖っていた耳も自然な丸い形になっているが、それはやっぱり、どう見てもあのギーナだった。
彼女はするりとベッド脇に滑り込んでくると、すぐに俺の頬に手を当てた。手のひらの温かさが伝わってくる。
「大変なんだね、こっちでは。体がすぐには動かないんだろ?」
「…………」
「しょうがないよね。ずっと寝たきりだったんだし──」
優しく頬を撫でられ、母親のような目で見つめられて、なんだか情けない気持ちになる。
今の俺は、あちら世界での姿からすれば、さぞや見る影もないだろう。すっかり筋肉もそげ落ち、痩せこけて、肌艶も悪くなっているに違いない。家族のみんなは俺に嫌な思いをさせまいと、今までどおりの態度でいてくれたのだろうけれど、そのぐらいのことは容易に想像がつく。
「大丈夫」
ギーナがにっこりと微笑んだ。それはまるで、俺の思念を読み取ったかのように見えた。
「安心して、ヒュウガ。だって、あたしがいるんだからさ」
「……ど」
「どういうことだ」と訊こうとしたのだったが、やっぱりうまくはいかなかった。が、次の瞬間、彼女が無造作に豊かな胸元の間から取り出したものを見て驚いた。ギーナの手には、彼女の愛用していたあの魔法の煙管が握られている。
ギーナは指の先で、それをくるりと一回転させてにこりと笑った。
「実は、ドラゴン父さんのお計らいでさ。あたしは赤ん坊から始めるんじゃなく、このまんまの姿でこっちの世界に連れてきてもらったんだよ。てっきり、魔法は取り上げられるもんだと思ってたんだけどさ。だってこっちにゃ、そんなもんは無いっていうし」
「…………」
「でも、ヒュウガのことがあったから。なんとかちょっとでも使えるようにってお願いしてみたのさ。そしたら軽~く、『別によかろう』ってなもんでさあ。あたしもびっくりしちゃったよ」
そうだったのか。
「さっすが、古のドラゴン様だよねえ。まことに素敵なご采配。って言ってももちろん、『あまり目立つ真似はせず、周囲に迷惑をかけぬように』って、しっかり釘は刺されちゃったんだけどさ」
そこまで言って、ギーナは急に少し申し訳なさそうな顔になった。
「でも、ごめんよ? いきなり全快にするとかは無理なんだ。<魔術師>のあたしじゃあ、<治癒者>ほどの働きはできないからね。こんな所で、あんまり目立つわけにもいかないし。だけどそれでも、普通にやるよりゃ絶対にマシにしてみせるからさ。ね?」
言うなり、ギーナは口の中で滑らかに呪文を唱え始めた。煙管の先が魔法独特の薄紫の光を発して、ぽうっと明るくなっていく。ギーナはそれを、俺の額のあたりでぴたりと止めた。
ごく低い声で呪文がつむがれていくにつれ、体全体があたたかくなり、爽やかな香りがあたりを満たしていく。それと共に、次第に体が軽くなっていくのが分かった。
(不思議だ……)
体幹に、見るみる力が横溢してくるのが分かる。
気が戻ってきているのだ。
そうなってみて初めて、俺は自分の中からいかに大切な気が削がれてしまっていたかを認識した。
やがて詠唱が静かに終わると、ふっとその香りが途切れ、光も消えた。だが、そのときにはすでに自分の筋肉に少し力が戻り、体を動かしやすくなっていることに気が付いた。
「あ……りがとう、ギーナ」
先ほどよりは、ずっと口も動かしやすくなっている。俺は片手をゆっくり上げて、枕元に置かれたギーナの手を握った。
ギーナはふわりと微笑んでそれを握り返すと、そうっとかがみこんで俺の枕に頭を乗せた。頬に軽く、唇が触れられた感触がした。
「これを、何度かに分けてやるんだ。そうすれば目立たない。安心して。ちゃんとうまくやるから」
「……うん」
「大丈夫。あたしがついてる。すぐに良くなるからね。ヒュウガ……」
そのまま、首元に顔を押し付けられて抱きしめられた。
俺はほんの少し目を閉じて、ギーナにされるままになっていた。
「そうだ。ギーナ」
「うん……?」
「あれから、あっちの世界のみんなはどうなった? トロルやオーガは」
「ああ……。うん、大丈夫だよ」
「レティやライラは? ほかのみんなは」
「まあ、慌てなくても大丈夫。すぐに分かるさ」
「え?」
なんだ、その謎だらけの台詞は。
不思議に思って見返すと、ギーナは長い睫毛に覆われた目を片方だけつぶって見せた。
「ま、それは今夜のお楽しみってことで」
「え?」
「じゃ、また夜にね。ヒュウガ」
「いや、ちょっと待て、ギ──」
だが、ギーナは俺の言葉など待たず、風のように病室から出ていってしまった。
(夜……? どういうことだ)
が、その理由はすぐに分かることになった。
消灯時間が来て、俺はベッドに横になったまま目を閉じていた。しばらくは覚醒していたものの、やっと意識が遠のいていく。
「ああ、眠るんだな」と思った、次の瞬間。
(えっ?)
奇妙な違和感を覚えて、俺はぱっと目を開けた。
(なに……?)
そこは、もとの魔王としての俺の、すでに見慣れた寝室だった。天蓋付きの寝台。豪奢な織り地の天蓋布を、灯火のぼんやりとした光が照らし出している。
(どうなってるんだ、これは)
思わず自分の体に触れて、あちこちを確認してみる。向こうとは違って、どこも傷んでいないし、自由に動いた。
いや、よく考えてみればそれもおかしい。そもそもマリアとの対決であれほどの重傷を負ったはずの体だ。頭に手をやってみれば、折れ砕けたはずの牡牛のような角も健在だった。
とは言え、こちらの世界には魔法がある。恐らくはあれからすぐに<蘇生>や<治癒>の魔法が施されたのだろう。
天蓋つきの寝台からおりて大きな姿見の前に行ってみると、そこにはやっぱり以前どおりの「魔王ヒュウガ」が、夜着の姿で映っていた。黒い長髪に、青い肌。金色に光る爬虫類のような目。
鏡の中の男が不思議そうに首をかしげる。
(いったい……?)
と、その時だった。
部屋の外から「お目ざめになりましたか」と声がかかり、身の回りの世話を担当していた女官たちがしずしずと入って来た。そのまま、すっと床に片膝をついて頭を垂れる。
「よくぞお戻り下さいました、陛下」
「皆さま、ずっとお待ちかねでいらっしゃいました。もちろんわたくしどももです」
「え? それは……」
「この二十日間ほどというものは、ずっとお眠りあそばされていましたので。わたくしどもも、まさかとは思いながらも案じ申し上げておりました」
「さ。まずはどうぞ、お召し替えを」
「みなにも召集を掛けてございますので」
「いや、待ってくれ。これは一体──」
が、女たちは俺の言葉など待たず、口元に優しい微笑みを浮かべたまま、手早く俺の支度を整え始めた。
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