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第九章 最終決戦
23 深淵
しおりを挟む俺は口元をどうにか拭うと、もはや這うようにして子供のほうへ近づいた。
子供はもう、目の前にいる。
しゃくりあげ、ぼろぼろ涙をこぼして泣いているばかりだ。
「安心してくれ。……どうか、信じて。前と同じような目には、もう遭わせたりしないから」
たったそれだけ言うのにも、随分と体力を使ってしまう。抑えようと努力するのだが、どうしても呼吸が荒くなった。
俺はそのまま、じっと待った。そうするほか、もう何もできなかった。
たったの一秒が、何時間にも思えるほどの時間だった。
やがて、子供は恐るおそる目を上げた。
「どならないの……? ほんとう?」
「ああ」
「こわいこと、もうしない……?」
「ああ」
「もう、おなかの中にいるあいだにころしたりしない? ぜったい、しない……?」
「ああ、しない」
「ほんとうの、ほんとうに……?」
「ああ。約束する──」
言って俺はゆっくりと、本当にゆっくりと子供のほうに手をのばした。
相手を怖がらせないよう、できるだけ笑ってみせながら。本当は、もう相手の顔すらよく見えてはいなかったけれども。
「だから……おいで」
次第に薄れていく意識を励ましながら、俺は必死に腕をのばし続けた。
やがて子供が、ゆっくりとこちらへ向かって手を差し出した。それはまるで、野良犬がひどく用心深く人に近づく時のようだった。
お互いの指先が、ほんのわずかに触れ合う。
俺は、顔を歪めてべそをかいている小さな子供の手を握った。そのまま引き寄せ、ゆっくりと抱きしめる。
「……もう、いいんだ。泣かなくていい」
小さな手が、俺のボロボロになったマントの端を握りしめてくる。
「ほんとう……? ほんとうに、ほんとう、なの……?」
「ああ」
「ウソだったら……ゆるさないよ」
子供の目が、一瞬ぎらりと疑り深い光を湛えて俺をにらみ上げた。その目はどこまでも澄んでいる。俺の中にほんのわずかのごまかしでもあろうものなら、決して許さぬと言わんばかりだ。
「こんどこそ、ぜんぶ、ぜーんぶ、みんなころしちゃうよ? ぼくたち」
「ああ。もしも嘘だったなら、その時にはどうとでも、お前の好きにしたらいい」
子供はちょっと黙り込んで、俺のマントをもじもじと弄ぶようにした。
「ほんとに……パパになってくれるの? ぼくの、やさしい……パパとママになってくれる……?」
「ああ」
そうするうちにも、子供の中にいるのだろう無数の魂が、ひょいひょいと目の前で目まぐるしく入れ替わるのが分かった。
「あのね、あのね。ぐるんぐるーんってして、『たかいたかーい』ってしてくれる? あれ、だいすきだったの。……そのあと、すぐに死んじゃったけど」
今度は少女のような声。
「ママとケンカしない? こわいこえ、出さない?」
今度は少年の声だ。
「ママをたたかない? いじめない……?」
「ああ」
「うそじゃ……ないよね?」
「嘘じゃない。……それでも、もし万が一、俺が約束を守れなかったなら──」
俺はそこで、まっすぐに子供の顔を見た。
「俺の命はくれてやる。……約束する」
途端、子供の体ががくがくっと震えた。
「ひぐっ……」
喉になにかが詰まったように、ひきつった声が漏れてくる。大きな碧い瞳に大粒の雫が盛り上がって、一気に頬を滑り落ちていく。
「ひいいいっ……」
やがてその声が、遂にサイレンのような音に変わっていった。
「うえっ……うえっく……ふわあああんっ……」
子供の体がまばゆい光で耀きはじめる。
と、抱きしめていたはずのその体が、急にこれまでの質量をなくし、ぐにゃりと変形したのがわかった。
両手で抱えこめるほどの光の球になったそれを、俺はそうっと抱きしめた。
(温かい──)
不思議なことに、それはまるきり、幼子の体温のようだった。小さな生き物を抱いたときのようにほかほかしている。それは、なんとも幸せな温かさだった。
顔を寄せて耳を澄ますと、光の球はとくんとくんと、ちょうど心臓の鼓動のように息づいている。
それは、命そのものだった。
これから生まれ出ようとする命の集まり、そのものだった。
と、次の瞬間。
光の球が、ぱっと無数の光の粒になって霧散した。
(これは──)
──あはは……。
──うふふふ……。
輝く蛍の光のようになった粒のひとつひとつが、幼児が機嫌よくきゃっきゃと笑うような声をあげながら、次々に空へ舞い上がっていく。
《天網恢々》
天から轟くような声が響き渡った。
《重畳である。人の子よ》
古のドラゴンだった。
それは深い悟りに至った老爺が、ひだまりの中でさも愉快げに笑っているかのようだった。
俺は、もはやほとんど見えぬ目で、思念の流れてくる方を見上げた。
《伝説のドラゴン殿。どうか、お願いです。この者との先ほどのお約束を……お忘れなきよう。どうかそのお言葉を、決して違えられませぬよう。この者たちの行く末を、どうかなにとぞ──》
《無論である。懸念は無用》
温かくもどっしりとしたその思念は、俺をも温かく包み込み、無上の安堵をもたらすかのようだった。
俺は、跪いて上空を見上げたままの姿で目を閉じた。
ゆるく両手を広げる。
(良かった……)
これでいい。
これでもう、大丈夫だ。
これでもう、マリアと贋物の「創世神」によって、この地の人々の安寧が脅かされることはない──。
そう思った途端。
急に目の前がすっと暗くなり、上も下も分からなくなった。
「ヒュウガ……!」
あれは、ギーナだ。
そう思ったのを最後に、俺の意識は遠のいた。
そうして、まるで吸い込まれるようにして、真っ黒な深淵の果てなき奥底へと沈んでいった。
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