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第八章 胎動
7 廊下
しおりを挟む「大丈夫かい……? ヒュウガ」
背後から小さな声が聞こえて、俺は振り向いた。自分の寝室の扉を少し開いて、夜着姿のギーナがこちらを見ていた。
「すまない。起こしてしまったか?」
「いや、目は覚めてたんだよ。ちょっと眠れなくてさ。そしたら、そっちから音がしたもんだから」
「……そうか」
するすると衣擦れの音をさせて、ギーナが静かに近寄ってくる。夜着の上から薄絹の羽織りものを掛けているだけの姿だ。
暗い灯火と窓から入ってくる月明かりに照らされて陰影のついた姿は、ひどく煽情的に見えた。
「どうかしたのかい? ヒュウガにしちゃあ、なんか少し、うなされてるみたいだったけど」
そうか。それも聞こえていたのか。
「いや……いいんだ。気にせず寝てくれ」
「でもさ……」
「本当に、大したことじゃない。そうでなくても、ギーナは今日、ヴァルーシャ帝との交信で疲れているんだし」
そう言ったら、ギーナはぴくりと片眉をあげた。
「水臭いじゃないか。そんなのはいいんだよ。昼間っからもう十分、休んだからね。これ以上寝たら浮腫んじまうよ。それより、変な夢でも見たんだろう?」
「いや……」
俺が話すのを渋っていると、ギーナの機嫌は見る間に下降したようだった。
次第に目が据わってくる。
「ふん。そりゃあまあ、あたしなんかにそんな話、したってしょうがないんだろうけどさ──」
やや口を尖らせた表情が、この女には珍しく、少し幼いものに見えた。
「いや……そんなつもりはない」
「じゃあなんなのさ。いいじゃないか、夢のことぐらい話してくれたって」
俺はしばらく考えた。が、遂に観念した。そして<青藍>を腰に差すと、ごく簡単に先ほどの夢のことを彼女に話した。
「うーん……」
聞いているうちに、ギーナの表情がだんだんと訝しげなものになっていく。豊かな胸の前で腕を組み合わせ、顎に片手を当てて考える顔だ。
「それ……本当に夢なのかねえ?」
「いや。多分、本当のことじゃないかと思う。つまり、あちら世界での現実だろうな。周囲が見えたわけじゃないから、はっきりしたことは言えないが」
「ふうん」
ギーナは少し首をかしげると、また一歩、俺に近づいた。
この女はいつも、不思議にいい匂いがする。何となく、あまり夜に嗅いでいい匂いではない気がして、俺は心持ち後ろにさがった。
「んね。ヒュウガの家族って何人いるの? 確か、弟がいるんだったよね」
「ああ。父と母と、兄と弟。五人家族だ」
「ふーん……三人兄弟か」
何を考えているのか、壁の灯火に照らされてギーナの桃色の瞳がきらきらしている。
「きっと、みんな心配してんだろうね。あんたのこと」
「まあ……そうなんだろうな」
「やっぱり、帰りたい? 帰りたいって思う? ヒュウガ──って、ああ、ごめんよ」
言ってしまってから、彼女は急に慌てたように言い足した。
「そんなの、訊くまでもないことだよねえ。バカなこと訊いてごめんよ?」
「……いや」
「ねえ、ヒュ──っくしゅ!」
言いかけて、ギーナがいきなり細い肩をはねあげた。くしゃみをしたのだ。見るからに寒そうな格好だ、そうなるのも道理だろう。
俺は自分の上着を脱いで、後ろから彼女の肩に着せかけようとした。春になったとは言っても、この地方の夜はまだまだ寒い。
「い、いいよ、ヒュウガ。そんな──」
「いいから。風邪なんかひいたら、それこそ今の『お役目』から引きずり降ろされるぞ? それでいいのか」
「そ、それは……イヤかな」
「だろう?」
なにしろ周りの魔力もちの文官連中ときたら、いつでも大喜びでギーナの「水晶操作」のお役目を引き継ぐ気満々なのだ。
彼女に聞かせたことこそないけれども、彼らは何かといえば「お妃様おひとりでは、このお役目は荷が勝ちすぎるというものでしょう」とか、「あまり魔力を使いすぎられますと、あのたぐいなき美貌にも障りがありましょうほどに」とか、もっともらしい理屈を並べ立てては、俺に阿ろうとする。
みんな、別に悪人でこそないのだが、俺はそういう宮中の文官どものあれやこれやにとっくに辟易しているのだった。
そればかりではない。名目上「正妃」ということにはなっているが、皆は俺とギーナが本当にそういう関係でないことなど百も承知だ。だから事情さえ許すなら、いつでも自分の親族の娘を側妃やなにかとして俺のもとへ送り込もうと、虎視眈々と狙っている。
まあ俺はそんなもの、即座にはねつける気満々なのだが。
「ほら」
俺は少し落とされたギーナの肩に、そのまま上着を着せかけた。
「あ、ありがと……」
見れば、明かりから顔をそむけるようにして小さく礼を言うその横顔が、ほんのり紅く染まっているような気がした。
──うつくしい人。
その時、俺の脳裏に、先日「いつかは言ってやりたい」と思ったその言葉が閃いた。
……今、言うべきだろうか。
この人に言ってやるべきか。
俺はもう、なんとなく分かっている。
初対面の時、あれほど高飛車で自信たっぷりにしか見えなかったこの女が、実はどうしようもない後ろめたさや傷ついた自尊心を抱えて生きている人であることを。
以前はそれでも、「生きていくためなんだから仕方ないだろ」とばかり、大いに開き直っていたのだろうこの人が、その日の糊口をしのぐためにしていた仕事のことを、今は後ろめたく思っているらしいことをだ。
その理由も、なんとなく分かる気がしている。
あのレティとライラをそばで見ていて、彼女がどう思っていたか。魔王だった真野との戦いの結果、魔王になった俺のそばに自分だけが残ることになったことを、どんなふうに考えていたのかも。
「ギーナ──」
と、言いかけたときだった。
廊下の向こうからぱたぱたと、複数の軽い足音が聞こえてきた。
「あ。やーっぱり、ヒュウガっちとギーナっちにゃ」
「どうなさったんですか? こんな夜更けに……」
夜着の上に上着を羽織ったレティとライラだった。さすが猫族だ。レティの耳は、小さな物音もしっかりと拾ってしまうということらしい。
が、彼女たちの姿を見た途端、ギーナはぴくりと体を固くしたように見えた。
すこし赤く染まって柔らかくなっていた表情も、こわばったものになっている。
「じゃ、じゃあ、あたしは部屋に戻るよ。これ、もういいや。ありがと。ヒュウガ」
言って、掛けたばかりの上着をするりと肩からおとして俺に返す。
「いや、ギーナ──」
「このところ、ばたばたしてて二人とゆっくり話す暇もなかっただろ? いい機会じゃないか。あたしは眠くなったから、戻って休むよ」
「にゃ、ギーナっち……?」
「あのっ、そんな──」
引き留めようとする皆の顔をもう見もしないで、ギーナはさっさと踵を返すと、自分の寝室に向かう廊下を歩いて行ってしまった。
呆然とその背中を見送っていたレティとライラが、ひどく申し訳なさそうに俺を見上げた。
「ご、ごめんにゃ、ヒュウガっち。なんか、めちゃめちゃお邪魔虫しちゃったみたいにゃ……?」
「すみません、ヒュウガさま……」
「あ、いや……」
そんなことはない、と言ってやっても良かったのだが。
どうもその時、俺はその台詞を二人に言うつもりになれなかった。
そうして、もう見えなくなった彼女の背中を探すように、長くて暗い廊下の先をそっと見やったのだった。
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