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第三章 ヴァルーシャ宮
6 逃げる方法
しおりを挟む「お邪魔してもいい?」
ぎょっとして振り向くと、そこには先ほどの女たちと同様の格好をしたギーナが一人で立っていた。
いや、いいわけがない。俺はすぐにまた目線をそらして窓の外を見るふりをした。
「よくない。後にしてくれないか」
「あらつれない。……でもヒュウガ、ここはあたしたちの共用風呂よ? あなた一人で占領しちゃって、奴隷女には風呂を使わせないつもり? とんだ意地悪ご主人様だわね」
言いながら、するすると衣擦れの音をさせている。やがて背後で、ちゃぷりと音をたてて湯が揺れた。
「あのキャンキャン娘たちがいたんじゃ、ゆっくりお風呂も楽しめないしさ。いいじゃない? あんたの邪魔はしないからさ」
そんなことを言いつつも、どうやらギーナは俺のすぐ隣に入ってきたらしい。「いや掛け湯ぐらいしろ」と思わず頭の中だけで突っ込んでみる。俺はどこまで行っても日本人なのだ。
こちらも腰のあたりを布で隠しているわけでもなし、いきなり立ち上がってこの女の前にすべてを晒して出て行くのも憚られる。忌々しいことに、困り果てて座ったまま、あらぬ方を見ているしかできないという体たらくだ。
「あ~あ、いい気持ち。ほっとするわね。あたしたちはああいう店にいるから、お客とお風呂を使えないこともないんだけどさ。それでも、ここに比べたら犬小屋みたいなお風呂だし。庶民がなかなかここまでぜいたくにお湯は使えないから」
ちゃぷちゃぷと水音を立てながら、ギーナが甘ったるい声で言う。
「……そうなのか」
「そう。もうよくご存じでしょうけど、ここでの身分差は絶対よ。まあ勇者様だけは、どんな出自であろうが皇帝陛下にお目通りまでできる上、場合によっては指図することもできるんだそうだけど」
思った以上にその声が近い。彼女の吐息が耳に掛かりそうなほどに思える。俺は湯舟の中でさりげなく腰をずらして距離を取った。
「だから、『勇者の奴隷』になるのはこの上もない栄誉、ってことになってるわけね。あたしは別に、嬉しくもなんともなかったけどさ」
「…………」
そこまで聞いて、俺はふと、ずっと疑問に思っていたことを訊いてみることにした。もちろん、目は明後日のほうをを向いたままで。
「ライラやレティは地元の『シスター』からお告げを聞いたと言っていたが。あんたもそうだったな?」
「ええ、そうよ」
「嬉しくないなら、わざわざ出てこなくても良かったんじゃないのか。あのままあの子を引き取って、素知らぬふりをして戻っていれば」
「……そうよねえ。実はそのつもりだったのよね、あたしも。さすがヒュウガ、鋭いわあ」
「では、なぜ?」
それならなぜ、わざわざ出てきて俺に会い、あの子の家に連れて行ったりしたのだろう。マリアもギーナをわざわざ引き留める様子ではなかったし、あのまま知らん顔をしていれば、俺たちに彼女の正体は分かるはずがなかったのだ。
そこから、少しの沈黙があった。ギーナが湯を自分の体に掛けているのか、その間はしばらく、ちゃぷりちゃぷりと静かな湯の音がするだけだった。
やがて、少しもの憂げなギーナの声が流れてきた。
「……奴隷はさ。勇者の奴隷に決まっちゃったら、もともと逃げられっこないもんなのよ。まあ、ひとつだけ方法はあるんだけど──」
「え? そうなのか」
思わず振り向きたくなったけれども、俺はどうにかそれを堪えた。ギーナは声の調子は変えないまま、世間話をするぐらいの軽さで言った。
「川に飛び込むとか、崖から飛び降りるとか。あとは喉をナイフで突くとか猛毒をあおるとか。……まあ、そういう選択肢ならないことはない、って意味だけどね」
「…………」
絶句した。
俺は遂に、何も考えずに振り返り、ギーナの顔を凝視してしまった。
幸い彼女は手で胸元を隠している。その桃色の宝石を思わせる瞳が思った以上に暗くて静かなもので、俺は胸を衝かれた。
「惚れぬいた恋人がいるだとか、ダンナや子供がいるだとかって子は、そういうことをしちゃうこともある。それだけは奴隷の自由になるからね。すでに決まった相手がいるのに、一年我慢すりゃあいいってもんじゃない。そうでしょう?」
「…………」
「でも、それをしてしまったら、もう二度と大事な人たちには会えなくなる。恋人や、家族が泣くことだってわかってる。そうとわかってて、それでもそうする子は間違いなくいる。……女がみんな、『奴隷』になったら言うこと聞くなんて思って欲しくないってことよ。そんな簡単だと思ってもらっちゃ困るって話よね」
俺は彼女から外した視線を自分の膝のあたりに落とした。
「それは……当然だと思う」
そう言ったら、背後で女がふっと笑った気配がした。
「……ねえ、ヒュウガ。あなた、決まった人はいたの? その、もとの世界にさ」
その声がまた、すうっと近づいてきた気がして、俺はまた微妙に体をずらして声のする方から距離をとった。
「いや。そんなものはいなかった。そもそも女性と、ほとんど接点もなかったしな」
「あは、やっぱりね。そうだろうとは思ってたけどさ。ヒュウガ、ほんと硬そうだもん。でも、じゃあ……好きな人がいたとか、そういうこと? そこまであたしたちのこと、必死で遠ざけようっていうのはさぁ」
するっと何かが肩に触れた。ギーナの手だ。
「そんなにイヤ? あたしたち、そんなに汚いって見えるわけ」
「……いや。そういうことじゃない」
「嘘だね」
ギーナの声は笑っていたが、そこに密かに毒が流し込まれた感じがあった。
「あんたは、汚いって思ってる。『創世神』に無理やりあんたの『奴隷』にさせられて、夜の面倒まで喜んで見るような女なんて、バカにして見下してるのさ」
「そんなつもりはない」
俺はまだ自分の肩にかかっている細い手を邪険にならないように気づかいながらそっと離した。
「いま、あんたが言った通りだ。あんたたちは自分の意思とは関係なしに『勇者』に好意を持つように仕向けられているだけだ。一年経てば夢から醒めたようになって、俺のことも、自分のことも汚らわしいと思って厭い、憎むことになるのは目に見えている」
「……それはまあ、そうかもね」
「そうなるに決まっている。もちろん無傷でいられるはずもないが、せめて……せめても、その傷が浅くて済むならいいと思ってる」
「…………」
ギーナがふと、黙り込んだ。
先ほどまでしていた湯の音すらしない。しかし、じっと俺を見つめている、その視線ははっきり感じた。
「……だから触れない。それだけだ」
俺はそう言うと、胸の宝玉に手を触れた。
低く「装着」とつぶやく。
「っあ……!」
突然立ち上がり、鎧姿になった俺を見て、ギーナが小さく声を上げた。
俺は彼女の方は見ないまま、湯舟から上がって大股に外へ出た。
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