オバケでバブルなエリコさん

つづれ しういち

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エピローグ

蝉の鳴く日に

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「さあっ、もう少しですよ。赤ちゃん、頑張ってますからね。お母さんもあとひと息、頑張って!」

 助産師さんのきりりとした頼もしい声が、分娩室に響いている。
 ミユが汗でびっしょりの髪を乱し、真っ赤な顔をして必死にいきむ。これがもう、何時間も続いている。
 僕もつい、彼女と一緒になって「ヒー、ヒー、フー!」なんて言いながら大汗をかいている。出産予定日のだいぶ前から、仕事の都合をつけては「プレママ・プレパパ講座」なんかにもできるだけ通ってきた。それでずいぶん、赤ん坊の扱い方や子育て中のママのサポートの仕方なんかを学んできたつもりの僕だったけど。いざとなったら正直、びびってしまう部分のほうがはるかに大きくて、何もできやしなかった。

 お母さんって、すごいんだ。
 僕の母もずっと昔、僕をこうやって生んでくれたんだな。
 ……なんて、悠長にノスタルジーにひたっている暇なんてまったくなかった。

「ミユ、しっかり。頑張って。ここにいるからね。大丈夫……!」

 陣痛がひどくなってきてからは、手を握ってあげていても腰をさすってあげていても、ミユはあまりの痛みに次第に目がつりあがってきて鬼気迫る形相になり、本当にそれどころではなくなった。しまいにとうとう「うるさい!」と言わんばかりに腰をさする手をはじき飛ばされてしまって、ちょっと途方に暮れたりした。こういう時、男って本当に役立たずだ。
 でももう、ここまで来たら引き返せない。
 中にはお産の途中で気を失うようなパパもいるらしいんだけど、僕はどうにかそんな失態は見せずに済んで、大事な最後の場面に居合わせることができた。

 最後の場面? 
 いや、違う。
 これは最初の大事な場面だ。
 ひとりの人がこの世に生まれてくる、いちばん大切なその瞬間なんだ。

「ミユ、ミユ……!」

 とうとう最後に、内臓まで飛び出そうな最後の大きな悲鳴があがって。
 
「生まれました!」
「はい、こっち!」
「お父さん、ほら。しっかりして」
「臍の緒、切りますよ」
「ここ、しっかり持って。いいですか?」
「え? ……え?」

 「お父さん」っていうのが自分のことなんだって理解するのに、まだ数秒かかってしまう。「プレパパ・プレママ」では何度もそう呼ばれていたけど、そういう自覚が育つのにはまだまだ時間がかかりそうな気配だ。

 僕は助産師さんや看護師さんたちに教えられた通り、慎重にと言うよりはおっかなびっくり、そのぶよぶよして切りにくいゴムみたいな紐をじょきりと切った。
 やがて産室に、高らかに明るく、新しい命の声が響き渡った。

「おめでとうございます。女の子さんですよ」

 周囲の看護師さんたちも口々にお祝いの言葉をかけてくれる。と、身体をきれいにされた赤ん坊がミユの隣に運ばれて来た。この病院では生まれてすぐ、赤ん坊を母親の胸のあたりにしばらく寝かせてくれることになっている。
 ミユは疲れ果ててはいたけれど、とうとうやり遂げたという嬉しさがその顔いっぱいにあふれていた。
 赤ん坊は、その名の通り赤くて少し黒っぽい、しわくちゃな顔をして、やたらに眠そうに見えた。出産は、赤ちゃんだって頑張っている。この世に生まれ出てこようとして、人生最初の挑戦をし、それに勝利して生まれてくるんだ。きっとこの子だって、疲れ果ててへとへとなんだろう。

「ありがとう、ミユ。頑張ってくれて」

 ミユはまさに疲労困憊こんぱいという顔で何も言えず、でも何度も嬉しそうにうなずいてくれた。笑いながらも、その目尻からぽろぽろと雫が落ちた。その顔を見たら、僕もあやうくちょっと泣けてきそうになった。

 やがて、産後の処置のためにミユが病室へ運ばれて行き、赤ん坊は透明なケースつきの小さなベッドに乗せられて、新生児室へ連れて行かれることになった。
 と、そばに居た看護師さんが「あっ。少し待っていてくださいね」とほんの少しその場を離れた。何か取りに行くらしい。すぐに戻ってくるだろう。

 清潔な寝床に寝かされた小さな人を、僕はプラスチックのケースの上からじっと見た。赤ん坊は眠っている。
 ミユは「男の子だったら、これ。女の子だったら、これがいいな」と、出産前からあれこれと子供の名前を考えていた。僕は相談には乗ったものの、基本的にほとんど口出しはせず、彼女の希望どおりにするつもりだった。

「……ふぐ」

 ふと、何かが聞こえた気がして、僕は思わず周囲を見回した。
 ここにいるのはもちろん僕と、生まれたばかりの小さな人だけ。

「……ム、クン」

(えっ……?)

 ケースに目を戻せば、たった今すやすや眠っていたはずの赤ん坊が、ぱちりと目を開いている。新生児が普通、こんなことをするものなんだろうか。
 赤ん坊はまっすぐに僕の顔を見つめていた。
 そこに理性の光を見たような気がして、僕は思わず息をのんだ。
 もうちゃんと見えているのかな。確か、生まれてすぐのうちはあまり物が見えないって聞いていたと思うんだけど。

 ぼくはそうっと顔を近づけて、赤ん坊の顔をのぞきこんだ。
 それに合わせて赤ん坊の瞳が動く。間違いなく、それは僕の顔を追っていた。
 確かに、何か言いたそうにしている。そんな気がする。けれど、やっぱり気のせいなのかもしれない。こんな生まれたての赤ん坊が、なにか意味のあることをしゃべるはずがないんだから。
 僕は気を取り直してにっこり笑うと、赤ん坊に話しかけた。

「こんにちは。顔を見るのは初めてだよね。お父さんだよ」

 おなかの中にいた時から何度か声を掛けていたので、「はじめまして」だとちょっとおかしい。そう思ってそう言ったんだけれど。
 赤ん坊はすう、と半分に目を細め、にやっと笑ったように見えた。
 その目は、ちょうどかまぼこの切り口みたいな形をしていた。

(え……?)

 僕の時間はぴたりと止まった。
 それは、ずっと昔に見たことのある、誰かの笑顔にそっくりだった。

 だれだったろう。
 とてもとても、大事な人。
 僕に向かってそんな目をしてにやにやと笑いながら、当時はクラスメイトだった今の僕の奥さんとのことを、あれこれとからかってくれた人──。

(ま、……まさか)

 と、ケースの中からはっきりとこう言う声がした。

「……ヨロシクネ。オサムクン」
「ひっ……!」

 がたっと情けない音をたててとびすさる。

(まさか……。そんな)

 僕の耳がおかしいのか? 
 でも、確かにいま、この赤ん坊の小さな口が動いて、僕の名前を呼んだような。
 と、先ほどの看護師さんが、慌てたように「すみません」と言いながらバタバタと戻ってきた。

「じゃ、移動しますね、お父さん」
「え? ……は、はい……?」

 呆然としている僕のことなどほとんど無視して、看護師さんは赤ん坊の寝ているケースの乗った台車をからからと押していく。そのまま新生児室に向かうのだろう。
 僕は夢でも見ているような気になって、ふらふらとそのあとをついて行った。
 新生児室に運び入れられ、あれこれと検査を受けている赤ん坊を部屋の外から眺めながら、僕は自分の心臓がいつもよりずっと早く鳴り続けていることに気づいていた。
 僕の脳裏には今や、小学生の夏の日に出会ったとある人の姿がくっきりと描き出されていた。

 長い黒髪。
 ちょっと奇抜なデザインの、真っ赤な色をしたスーツ。
 気が強くて、明るくて。
 でもとても優しかった「お姉さん」。

(うそ、……だろ……?)

 まじまじと赤ん坊を見る。
 でも、赤ん坊はもうぴったりと目を閉じて、すやすやと眠っているばかりだった。





 今年四歳になる僕の娘が、さっきから木陰でしゃがみこみ、しきりにごそごそやっている。

「パパ! パパ! ほらみて。むしさん、みて!」
「ん? 虫さん……?」

 夏の日差しに焼かれて真っ黒になった小さな娘が、髪を額にはりつかせて夢中になって駆けてくる。真夏の公園は、人も少ない。見れば、小さな手に薄茶色の抜け殻が大事に包まれていた。

「ああ、蝉の抜け殻だね。面白い形だよね」
「せみの、ぬけがら……」

 それがどんな生き物のもので、どんな風にそういう状態になったのかを簡単に説明すると、娘の目がきらきら輝いた。手のひらでそれをころころさせながら、張り詰めたきめの細かい頬をにこっと引き上げる。

「おもしろーい!」
「うん、そうだね。生き物はどんなものも面白い。それでみんな、一生懸命に生きている」

 あれ以来、娘は一度も僕におかしな態度を見せたことはない。
 あの人の面影をちらりと垣間見せたのは、本当にあの生まれた瞬間の、一度きりのことだった。
 その後、僕はあちこちでこのことを人に話した。
 ミユには勿論、今ではときどき会って酒なんか飲む仲になったハラダにも。
 でもみんなは、驚いたり笑ったりするだけで。「ちょっと疲れてるんじゃない?」とか、「何か見間違いをしたんだろ」とか言って、少しも取り合ってもらえなかった。

 と、マンションの方からつばの広い帽子をかぶったミユが、小さな赤ん坊を抱いてこちらへやってくるのが見えた。

「パパ。そろそろお昼ごはんにしましょ」
「ああ、うん」
「わーい! ごはんー!」

 この春、娘の下に生まれた赤ん坊は男の子だった。
 僕らの家族が、またひとり増えたんだ。
 黄色いひまわりのプリントがたくさんついたワンピースをひるがえし、娘が「おひるごはん、なにー?」と叫びながら、ぱたぱたとミユめがけて走っていく。
 その姿からは、ただただ命の輝きだけが感じられる。

 その後ろ姿をじっと見て、僕はこっそりとささやいた。


「幸せになろうね。エリコさん」


 きっとそれが、僕が君にできる最高のお返しだから。

 この世の春を謳歌する蝉のが、
 まるで天上から聞こえるように、
 しゃんしゃんと僕らの上に降りそそいでいた。


                  了
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