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第二章
22 雁のゐる
しおりを挟む律はこころもち下がって、なりゆきを見守る形になった。なんといっても、女性たちの目的は海斗ただひとりなのだ。自分の出る幕ではない。
海斗は先ほどから困った顔で、何度かやんわりと断りを入れているのだが、女性たちはあきらめてくれなかった。「女の子だけだとちょっと不安だし~」などと、都合のいい言葉を並べて、どうにかして彼に「うん」と言わせようとしている。
律はますますうんざりしてきた。
そして、理屈のよくわからない醜い感情が腹の底からふつふつと湧きあがってくるのを覚えた。
(私の……泰時なのに)
と、そう思ったのか「俺の海斗さんなのに」と思ったのか、それはさだかではなかった。気が付くと、律の指はいつのまにか海斗のコートの袖の端をそっと握っていた。
海斗はさりげなくそちらに目をやると、きっぱりと姿勢を正して女性たちに向きなおった。
「申し訳ありません」
直立不動から、きりりと頭を下げる。なんとなく、警察官や自衛官を思わせるような折り目正しい礼だった。
「どうかお許しください。私たちにとってこの旅は、非常に大切なもの、何にも替えがたいものなのです」
「え? それって」
リーダー格の女性が呆気にとられて言いかけたが、海斗はそれを珍しく遮って言った。
「どうか、お願い致します」
女性たちがたじろいだように固まった。張りつめた空気が流れる。律の胸だけがやたらとどきどきしている。その音ばかりが、ひどくやかましく聞こえる気がした。
「……ねえ」
「うん」
「や、やめとこっか?」
女性たちが互いに目配せしあい、やがてリーダーの女性が眉を八の字にして肩をすくめた。
「……そう。ごめんなさいね? お邪魔しちゃって」
相変わらず悪びれる風もない。海斗はまだ頭を下げたままだった。
「いいえ。ご了解いただき、まことにありがとうございます」
女性たちのみならず、なんとなく成りゆきを見守っていた周囲の観光客たちまでが、少し驚いた目で海斗を見つめていた。
◆
ようやく彼女たちから離れ、小町通から細い脇道へと入ってから、律はやっと海斗に言った。
「あの……ありがとうございました」
「礼などおっしゃる謂れはございませぬ」
「でも」
「個人的に、私が嫌だったまでのことです」
「そ、そうなのか……?」
ええ、と言ってから海斗がやや怪訝そうな目で律を見た。
「もしかして、律くんが彼女たちと同道したかったのでしたら、勝手なことをいたしました」
「そっ、そんなことないよっ!」
そんなわけがないだろう。何を言いだすんだ、と逆に腹が立つ。
しかし、海斗は珍しく不快げに眉を顰めていた。
「お気づきになりませんでしたか」
「は? なにを……?」
「あの者らの後ろに立っていた女性。ずっとあなた様を見つめておりましたぞ」
「……はい?」
目をぱちくりさせている律を「まったくこの方は」と言わんばかりの目で海斗が見下ろした。
「大学でもそうでしたが。あなた様は、ご自分に向けられる好意にあまりにも鈍くてあらせられるようですぞ」
「……はいぃ?」
これぞ「青天の霹靂」だった。
「そっ、そんなわけないだろう!」
「いいえ」
「いや、そんなわけないってば! みんなみんな、海斗さん狙いに決まってるでしょう!」
「いいえ」
言い募る律に、海斗はひたすらそれを繰り返して首を横にふるばかりだった。
「あなたがお気づきでなかっただけです。これでも結構、苦労していたのです。入院中はしかたなく鷲尾に頼んではいましたが──」
「は?」
「ですから。『悪い虫がつかぬように』、です」
「え、えええっ?」
「まあ、あれはあれで『木乃伊とりが木乃伊』になりかかっていて参りましたが」
「はあああ??」
海斗はやや恥ずかしげに見える。先ほどから視線が合わない。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。ということは、その……」
もしかして本当なのだろうか。こんな自分を気に入って、近づこうとしていた女性がいたと? 彼は大学で、そういう女性が律に近づけないように、あれこれしていたというのだろうか。本当に?
海斗が律の心をすっかり読んだような目をして、ひとつ溜め息をついた。
ひょいと手を引かれ、物陰に引き入れられる。
そのまま前からぎゅっと抱きしめられて、律の時が止まった。
「……もう少し、ご自覚いただきたいものです」
「やっ、ややや、やすときっ……」
慌てて周囲を見回したが、そこはさすがの海斗だった。いまの自分たちは完全に死角に入ってしまって、誰の目にも留まっていない。
「どうかお気をつけを。こんなに可愛いのですから」
(うわあああああっ)
完全に我が耳を疑った。
雁のゐる 羽風にさわぐ 秋の田の 思ひ乱れて 穂にぞ出でぬる
『金槐和歌集』383
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