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第二章
19 武庫の浦の
しおりを挟むしばらくの間そうやっていたが、ようやく少し律が落ち着いてきたところで、海斗は律の手を取って立ち上がらせた。
いい歳をして、めそめそ泣いてしまったことがあらためて恥ずかしい。身の置きどころもないような気がして、立ち上がっても律はなかなか目を上げることができなかった。
渡された歌を握りしめたままの手を、海斗の手がそっと握ってくる。
波と風の音、ときおり走り抜ける車の音だけが聞こえている。
「……よいのか。いや、いいんですか……本当に」
「そう思わねば、この歌をお渡しすることはございませんでした」
海斗の手に力がこもる。
おずおずと、やっとのことで顔を上げると、由比ヶ浜の波のように、激しさを秘めつつも日に輝き、それでいてどっしりと穏やかな海斗の瞳があった。
「……ほ、ほんとうに」
「はい」
「……く、悔やんだりしても知らないぞ」
「はい」
海斗がまた苦笑する。
「これでもあれやこれやと、相当に思い惑った挙げ句のことなのです。と申しますか、この旅の間もずっと、思い迷っておりました」
「そ、そうなのか?」
「はい。あまりにも逡巡する時間が長くなり……今はただ、斯様にまでお待たせしてしまったことを反省することしきりにございまする」
「……そう、か」
いや、本当にいいのだろうか。
昔はさほど後ろ指をさされるようなことではなかったけれど、今のこの国ではまだ、同性の恋愛はもろ手を挙げて受け入れられるような関係ではない。
自分には妹がいるけれど、海斗は清水家のひとり息子でもある。
彼の父は、こんな関係を果たして許してくれるのだろうか……?
だが、海斗は相変わらず静かな目でじっと律を見つめ、目と同様に穏やかな声で言った。
「……殿。いや、律くん」
「は、はい」
「もしも悩まれるというのなら、どうかそれは自分にも悩ませていただきたいのです。あなたと同様に。一緒にです」
「……か、海斗さん」
「どうか、この通り。お願い申し上げます」
律の手を握ったまま、海斗が深々と頭を下げた。
その頭がまた、新たにあふれてきたもので熱く歪んだ。
律は片手を拳に丸めて口をおさえ、漏れ出す嗚咽を抑えこんだ。そのまま少しうつむいたところで海斗の指が律の前髪に少し触れた。
「……さあ。もう泣かないでくださいませ。おつらい顔をさせたかったわけではありませぬ」
「うん。うん……」
海斗は一瞬だけちらりと周囲をうかがうと、律の前髪を少しかき分け、額にそっと唇を押し当てた。
◆
「長谷寺や高徳院へは、足をのばされますか」
「……いや。今日はいい」
先ほども見たとおり、あちらは一大観光名所だ。日本人だけでなく、海外からの観光客もごまんとやってくる有名な寺社。かつての自分にとって大切な寺社だったことは間違いないのだけれども、いまのこの気持ちでは、到底その人ごみに混ざりたいとは思われなかった。
触れられた額が、まだじんじんしている。体じゅうが火照ったようで、足元がふわふわと頼りない。
海斗は普段どおりの静かな目のまま「左様にございますか」と答えたのみだった。
そこからは、広々とした海原を右に見ながらふたりでゆっくりと由比ヶ浜の浜辺をずっと歩いた。ほとんど言葉も交わさずに、ゆっくりと。
江ノ電に乗るのもよかったのだが、今はただ歩きたかった。この海斗という男と。
浜辺を楽しむ家族連れやサーファーの姿を眺めつつ、車道脇の歩道をひたすらに歩く。そうするうち、この旅の目的地のひとつが次第に近づいてきた。
海斗がスマホの地図を見ながら「この道だと思います」と言ったのは、まことにそうなのかと疑うほど、細くて地味な車道だった。それが、ごく一般的な住宅街を貫いて江ノ電の「和田塚駅」までのびている。
左右を見渡しながら歩くうち、やがて右手に鬱蒼とした森のようなものが見えてきて、古めかしい石組みの壁が現れてきた。ごく近くに寄るまで、それが「そう」なのだとは気づかないぐらい、ひっそりと地味にそれは存在していた。
「和田塚」だった。
武庫の浦の 入江の洲鳥 朝なあさな つねに見まくの ほしき君かも
『金槐和歌集』511
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