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第二章
17 たまくしげ
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ということで。
午後はそのままゆっくりと歩いて、江ノ島電鉄、略して江ノ電の鎌倉駅に至った。
映画やドラマ、そして有名なスポーツ漫画のアニメ化作品でもロケーションが多く使われている有名な電車のひとつだ。
そうしたものでよく見たことのある、濃い緑とクリーム色の小ぶりな車体。見たところ、観光客もさることながら、地元の人々にとっての通勤の足としても利用されているようだ。
律は海斗と二人で例の周遊チケットを使って江ノ電に乗った。
街中のごく狭い敷地を走る地元の電車である。ここへ実際に来るまでよく知らなかったのだが、一般的な鉄道ほど、線路と周辺をきちんと分ける柵などがないことに律は驚いた。この状態では、そばを歩いている子どもたちがひょいと入ってこられる感じなのである。要するに、いわゆる路面電車のような扱いなのだろう。
長谷駅まではすぐに着いた。
ここには観光名所として名高い長谷寺や、鎌倉大仏のある高徳寺があり、多くの観光客がぞろぞろと北へ向かって歩いていく。道そのものが狭いこともあるのだろうが、ほとんど遠足でもしているかのように見えた。いろいろな肌の色をした老若男女が列をなして歩いていくのは、なかなか壮観である。
だが海斗と律は、彼らとは正反対の方向へ向かった。そちらへ向かう観光客はほとんどおらず、ふたりだけになる。
足元には、清和源氏系統の家紋である笹竜胆紋が刻まれたマンホールが点々と並んでいる。比較的きれいなものを選んで、律はそのひとつをスマホのカメラに収めた。海斗も同様である。この家紋は、父、頼朝の墓につづく石段の柵にも使われていた。
ここを南に進めば海へ出る。
そう、あの由比ヶ浜である。
──由比ヶ浜。
あの時代、自分にとって多くのことが起こった場所であり、鎌倉へ来てこの海を見ないという選択肢はいっさいなかった。
広々と湾曲した海岸線は、昔の名残りを残しているように思われた。寒さも緩んできた季節でもあり、サーファーたちが波に乗る姿がいくつも見られた。ここは、現代では有名なサーフタウンとして生まれ変わっているのだ。
サーファーたちが波乗りを楽しんでいる地域から少し離れ、ぐるっと西側へ車道沿いの海岸線を歩いていく。海風は静かで、見晴らしもよく、歩くにはちょうどいいが、なにしろ人がいなかった。車道を走っていく車の姿は多くても、あまり人の姿がない。
「……ああ。あちらのようですね」
海斗が指さす先に、海岸を少し公園のように整備したような広場があった。とはいえ、それらしい遊具などはない、芝生を植えただけのような場所だった。
その海側に、ぽつんと小さな石碑がある。
「ここに来たかったんですか? 海斗さん」
「……ええ。ここまで閑散としているとは思っておりませんでしたが──」
「そうだなあ」
目の前の歌碑は、少し不思議な形をしていた。要するに、これは船の形なのだ。そこに、自分の歌が刻まれている。
その隣に説明の刻まれた碑も立てられていた。
「小倉百人一首 第九十三巻 鎌倉右大臣(源 実朝)歌碑」。
歌はこれだ。
世の中は つねにもかもな なきさこく あまのを船の つなてかなしも
船といえば、実朝にとっては苦い思い出のあるものだ。
宋の人、陳和卿が鎌倉へやってきて、どうやらその男、造船が巧みらしいというので、自分はついつい宋への出奔を夢見てしまった。
だが当時としては、これもさほど珍奇な希望というほどのことでもなかった。あの厩戸皇子も隋と交通をしていたことだし、寿福寺の僧正だって二度も宋への旅をして見聞を広げていたのだ。
正直、息のつまるような鎌倉将軍としての暮らしに嫌気がさしていたのは本当のところではあったけれど、船を造り、それをもってこの由比ヶ浜から自由の旅路へと夢を描いたのは、あのときの実朝にとって生涯一度の大きなわがままでもあったろう。
結局、その船はどこのつくりがまずかったものか、はたまた大反対していた幕府内のだれぞかによる陰謀か、できあがったところで海へ押し出すこと叶わず、ただ海辺で朽ち果てるに任されてしまったのだけれども。
歌碑を見つめて黙りこんだ律を、隣から海斗がじっと心配げな目で見つめている。それに気づいて、思わず苦笑してしまった。
「……ふふ。ついつい、恥ずかしい過去を顧みてしまって困るな。こういう場所は」
「申し訳ありませぬ。左様なつもりでは」
海斗がらしくもなく少し慌てて見えた。律はさらに笑いを深めた。
「気にしなくていい。見晴らしもよくて、よい場所ではないか」
「……左様にございますね」
西からの光に、遠い水平線がきらめいている。
その場所から、風が吹く。
空が開けてとても高い。風に髪がなぶられる。
過去も現在も未来もぜんぶ、この風には関係がないような気もした。
「あの……殿」
「ん?」
なんの気なしに振り向いて、律は停止した。
(えっ……?)
海斗の手が、半紙に包まれた歌札らしきものをこちらに差し出していた。
たまくしげ 箱根のみうみ けけれあれや 二国かけて なかにたゆたふ
『金槐和歌集』638
午後はそのままゆっくりと歩いて、江ノ島電鉄、略して江ノ電の鎌倉駅に至った。
映画やドラマ、そして有名なスポーツ漫画のアニメ化作品でもロケーションが多く使われている有名な電車のひとつだ。
そうしたものでよく見たことのある、濃い緑とクリーム色の小ぶりな車体。見たところ、観光客もさることながら、地元の人々にとっての通勤の足としても利用されているようだ。
律は海斗と二人で例の周遊チケットを使って江ノ電に乗った。
街中のごく狭い敷地を走る地元の電車である。ここへ実際に来るまでよく知らなかったのだが、一般的な鉄道ほど、線路と周辺をきちんと分ける柵などがないことに律は驚いた。この状態では、そばを歩いている子どもたちがひょいと入ってこられる感じなのである。要するに、いわゆる路面電車のような扱いなのだろう。
長谷駅まではすぐに着いた。
ここには観光名所として名高い長谷寺や、鎌倉大仏のある高徳寺があり、多くの観光客がぞろぞろと北へ向かって歩いていく。道そのものが狭いこともあるのだろうが、ほとんど遠足でもしているかのように見えた。いろいろな肌の色をした老若男女が列をなして歩いていくのは、なかなか壮観である。
だが海斗と律は、彼らとは正反対の方向へ向かった。そちらへ向かう観光客はほとんどおらず、ふたりだけになる。
足元には、清和源氏系統の家紋である笹竜胆紋が刻まれたマンホールが点々と並んでいる。比較的きれいなものを選んで、律はそのひとつをスマホのカメラに収めた。海斗も同様である。この家紋は、父、頼朝の墓につづく石段の柵にも使われていた。
ここを南に進めば海へ出る。
そう、あの由比ヶ浜である。
──由比ヶ浜。
あの時代、自分にとって多くのことが起こった場所であり、鎌倉へ来てこの海を見ないという選択肢はいっさいなかった。
広々と湾曲した海岸線は、昔の名残りを残しているように思われた。寒さも緩んできた季節でもあり、サーファーたちが波に乗る姿がいくつも見られた。ここは、現代では有名なサーフタウンとして生まれ変わっているのだ。
サーファーたちが波乗りを楽しんでいる地域から少し離れ、ぐるっと西側へ車道沿いの海岸線を歩いていく。海風は静かで、見晴らしもよく、歩くにはちょうどいいが、なにしろ人がいなかった。車道を走っていく車の姿は多くても、あまり人の姿がない。
「……ああ。あちらのようですね」
海斗が指さす先に、海岸を少し公園のように整備したような広場があった。とはいえ、それらしい遊具などはない、芝生を植えただけのような場所だった。
その海側に、ぽつんと小さな石碑がある。
「ここに来たかったんですか? 海斗さん」
「……ええ。ここまで閑散としているとは思っておりませんでしたが──」
「そうだなあ」
目の前の歌碑は、少し不思議な形をしていた。要するに、これは船の形なのだ。そこに、自分の歌が刻まれている。
その隣に説明の刻まれた碑も立てられていた。
「小倉百人一首 第九十三巻 鎌倉右大臣(源 実朝)歌碑」。
歌はこれだ。
世の中は つねにもかもな なきさこく あまのを船の つなてかなしも
船といえば、実朝にとっては苦い思い出のあるものだ。
宋の人、陳和卿が鎌倉へやってきて、どうやらその男、造船が巧みらしいというので、自分はついつい宋への出奔を夢見てしまった。
だが当時としては、これもさほど珍奇な希望というほどのことでもなかった。あの厩戸皇子も隋と交通をしていたことだし、寿福寺の僧正だって二度も宋への旅をして見聞を広げていたのだ。
正直、息のつまるような鎌倉将軍としての暮らしに嫌気がさしていたのは本当のところではあったけれど、船を造り、それをもってこの由比ヶ浜から自由の旅路へと夢を描いたのは、あのときの実朝にとって生涯一度の大きなわがままでもあったろう。
結局、その船はどこのつくりがまずかったものか、はたまた大反対していた幕府内のだれぞかによる陰謀か、できあがったところで海へ押し出すこと叶わず、ただ海辺で朽ち果てるに任されてしまったのだけれども。
歌碑を見つめて黙りこんだ律を、隣から海斗がじっと心配げな目で見つめている。それに気づいて、思わず苦笑してしまった。
「……ふふ。ついつい、恥ずかしい過去を顧みてしまって困るな。こういう場所は」
「申し訳ありませぬ。左様なつもりでは」
海斗がらしくもなく少し慌てて見えた。律はさらに笑いを深めた。
「気にしなくていい。見晴らしもよくて、よい場所ではないか」
「……左様にございますね」
西からの光に、遠い水平線がきらめいている。
その場所から、風が吹く。
空が開けてとても高い。風に髪がなぶられる。
過去も現在も未来もぜんぶ、この風には関係がないような気もした。
「あの……殿」
「ん?」
なんの気なしに振り向いて、律は停止した。
(えっ……?)
海斗の手が、半紙に包まれた歌札らしきものをこちらに差し出していた。
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