金槐の君へ

つづれ しういち

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第二章

12 木のもとに

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「お疲れになったでしょう。ご入浴はいかがされますか」

 ホテルの部屋に入るなり、海斗は律があれこれ心配していたことをさらりと訊いてきた。いともあっさりと。

「え、え……と? どうする、というと」
「こちらのユニットバスも使えますが、大浴場もございますので。どちらにお入りになりたいかと」

 海斗の表情はいつもどおりだ。なにも読み取れない。読み取れなさすぎて非常に困る。

「どっち……? ええと」思わず腕組みをして考え込んでしまった。「いや。別にどっちでも構わないけど……」
「そうですか? 銭湯などは抵抗があるという方もいらっしゃいますが」
「いや、特には。それより海斗さんはどうなんですか? まず、海斗さんが好きな方に入ってください」
「いえ。律くんからどうぞ」

 ここでまた、あまり意味をなさない押し問答が少しあったが、結局は律が「じゃあユニットバスにします」と言ったことで決着がついた。実は今日一日、人の多い場所を移動してきたので、これ以上他人のいる場所にはあまり行きたくないというのが本音だったのだ。昔も今も、自分は人疲れをしやすいたちであるらしい。
 ところで、どうやら海斗は最初から、律とは違う方の風呂へ入ると決めていたらしかった。「でしたら自分は大浴場へ行ってまいります」と、さっさと入浴の荷物をまとめて部屋から出ていってしまったからだ。

(……な、なんなんだよ……)

 ひとりになった瞬間、全身から力が抜けた。思わずへたっと片方のベッドに座り込んでしまう。
 まったく、彼が何を考えているのかさっぱり見当もつかない。
 ともあれぼんやりしているわけにも行かないので、律も慌ててユニットバスに湯を張りはじめ、自分の荷物から着替えや歯ブラシなどを引っぱり出した。


 ◆


「しまった。こちらにはドライヤーがありませんでしたね」

 大浴場から戻ってきた海斗は、まだ濡れている律の髪を見るなりそう言った。ホテルが準備してくれた作務衣のような紺の部屋着に身をつつんでいても、風呂上りの海斗は相当に色気を放散しているように見えた。
 同じ格好になっているのに、律ばかりがおどおどしてしまってまともに海斗を見ることもできない。

「乾かしましょう。お風邪を召します」
「いや。こんなのはすぐに乾くし。暑いぐらいなんだから大丈夫」
「それでも、もう少し乾かさないと」

 言って海斗は律をベッドに座らせると、背後に座って勝手にバスタオルで律の髪を拭きはじめてしまった。
 どうぞ、と渡されたテレビのリモコンで、仕方なくスイッチを入れる。全国共通の国営放送を選んで、ニュースや明日の天気予報をぼんやり眺めるふりをしながらも、律の心臓は口から飛び出そうになっていた。
 タオルごしの海斗の手がひどく優しいものに思われる。無理にごしごしこするのではなく、髪の束を少しとっては丁寧にタオルで挟んでおさえるように乾かしてくれているようだ。前世ではともかく、今生では一人っ子のはずなのに、この面倒見のよさはなんなのだろう。
 心臓の音だけでなく、きっと耳やら首やらが赤く染まっているにちがいない。そう思うと、ますます律は落ち着かなくなってしまった。

「も、もういいですよ。十分です。ありがとうございました」
「いいえ」

 ベッドサイドの時計を見ると、すでに十時になっている。明日はたくさんの場所を回る予定なので、そろそろ寝たほうがいい。そういうことになって、ふたりは交代で洗面所を使い、歯磨きなどをしてからベッドに入った。もちろん、別々のベッドにだ。
 
(……うーん。眠れない)

 そんなことは旅行に出る前から予想できたことだったので、別段おどろきはしなかった。ツインの部屋をとることになった段階で、十分覚悟もしていたことだった。しかし。
 こうして本当に、隣のベッドに海斗が寝ている状態になってみると落ち着かない。こんなもの、そもそも眠れるわけがないのである。

 ホテルの部屋というのは、全部の電灯を消したとしても真っ暗にはならないようになっている。薄暗がりの中で、どこの部屋からか泊まり客が立てるごとごという音や大きな話し声が聞こえてくる。体は疲れていて眠りを欲しているのに、そんなあれこれのために余計に目が冴え、どんどん眠りにくくなっていく。
 布団にもぐりこんだようなふりをしてそっと寝返りをうち、海斗のほうを盗み見ると、彼はいびきなどもかかず、静かな寝息をたてているだけに見えた。

(あああ……寝なくちゃ。明日に響く。寝なくては……!)

 意を決して目をぎゅっとつぶったところで、隣から低い声がした。

「眠れませんか」
「──え」

 ぱっと目を開けると、海斗が目を開いて、じっとこちらを見つめていた。



のもとに 宿りをすれば かたしきの わが衣手ころもでに 花は散りつつ
                      『金槐和歌集』53
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