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第二章
4 わが恋は
しおりを挟む大学が後期試験の時期にはいると、何がどうというほどでもないのだが、ふたりともなんとなく忙しくなった。当然、海斗と会える日は少なくなってしまった。
基本的にというか、律とはちがって交友関係が広いタイプの学生たちは、以前同じ講義をとった友達や先輩との情報共有を怠りなくやるもののようだ。そうやってある意味万全の準備をして試験に臨むらしい。
前期試験のときにはそんな事情にはとんと疎く、ひとりこつこつとまじめに準備していた律にとって、今期は目から鱗が落ちることばかりだった。
海斗や鷲尾をはじめ、和歌愛好会のみんなとのつきあいが深まるにつれ、そちら方面の情報が自然と耳に入ってくるようになったのだ。
そのためなのか、後期の試験勉強は非常にスムーズに進んだ。なんだか信じられないほど簡単に。
「青柳くん、あの授業とってたよね?」
「あの先生、この単元から出題するのが好きみたいだよ。去年もその前もそうだったって」
「この語句の定義を訊ねられることが多いらしいから、しっかり覚えとくといいよ」
「先輩の〇〇さん、詳しいポイント解説ありのすごいノート、コピーさせてくれるみたいよ。お代はコーヒー三杯だってさ」
ざっと、こんな具合だった。
かつて人の上に立つ人間だったというのにすっかり忘れ去っていたのだが、現代に暮らす学生にとっても「先達はあらまほしきことなり」は真理であるらしい。
「ぷっ」
唐突に脳内に「徒然草」の吉田兼好が出てきて、思わず小さく吹きだしてしまった。
講義中だというのになんたることか。慌てて口もとを隠して下を向く。だが幸い、先生は正面に映しだしたパワーポイントの映像に目をやっていた。
「いかがなさいましたか」
ごく低い声が隣からささやいてくる。
この講義は珍しく、学年が上の海斗も受けているのだった。彼は今や、当然のように律の隣に座るようになっている。
律はぼそぼそと小声で答えた。
「あ、すみません。ちょっと思い出し笑いを」
「何を思い出されたのです」
「いえ、大したことでは──」
小声で答えつつも、まだ喉の奥ではくつくつと笑いのもとが滞留している。
海斗は目元を和らげてひとつうなずくと、何も言わずにまた前を向いた。
ごく自然な態度だ。近ごろでは、彼も緊張や尊敬や悲しみを湛えてばかりいた瞳をほんの少し柔らかいものに変えてきている気がする。それはなんとなく律も嬉しく感じている。
いや、単なる律の思い過ごしかもしれないけれど。
指が長くて爪がきれいに整えられた、律より少し大きな手のうえで、シャープペンシルがくるりと器用に回される。これもいつもの風景だ。
さわやかに秀でた明るい額。筆でまっすぐに「一」の文字を描いたように、すっくりとのびた素直な眉。
顔立ちはまったく違うはずなのに、いま、知的で鼻筋の通った海斗の横顔には、かつての泰時の面影が色濃くあらわれているような気がする。
器がどんなに違っていても、やはり人柄というものは見た目にも表れてしまうものなのだろうか。そうだとしたらなんとも不思議だ。そしてなにやら、厳かな気持ちにもなる。
(それなら……私は?)
自分は彼からどんな風に見えているのだろう。
右大臣となった実朝は、二十八で命を絶たれた。だが、実は二十八というのは、あの時代ならもう壮年と呼んでいい年齢だった。
今なら十分「青年」と描写されるような年だけれども、あの頃は「人生五十年」と言われていた時代だったのだから当然である。
いまの自分は彼から若く見えているのだろうか? それとも、疲れて年老いた弱々しい存在に見えるのだろうか。
前世が鎌倉将軍だったわりに、頼りなくて心もとないと思われているかもしれない。いや、おそらくそうだろう……。
つらつらとそんな仕様のないことを考えているうちに、今期最後の授業が終わり、ふたりは講義室を出た。
以前なら、すぐさま女の子たちが寄り集まってきたものだ。だが、なぜか最近はそれが少し落ち着いているような気がする。寄ってくる子がいないわけではないが、以前に比べるとだいぶおとなしいのだ。
海斗は、もちろん話しかけられれば以前と変わらずにこやかに応対する。それはそうなのだが、なんとなく彼と彼女たちとの間に、目には見えない線が一本引かれているような感じがあるのだ。
前の「陽キャで煮しめたような」サークルを離れたことが大きいのだろうか?
それとも、海斗自身が彼女たちに何かのアクションを起こしたということなのか……?
あれこれ考えあぐねているうちに、海斗はさっさと歩きだし──このところはもう、普通の男子と歩く速さに遜色はなくなっている──律をサークル棟へと連れていった。
わが恋は 深山の松に 這ふ蔦の 繁きを人の 問はずぞありける
『金槐和歌集』431
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