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第一章
54 春秋は
しおりを挟む「ちょっ……いきなり何を言ってるんですか、海斗さんっ」
慌てた律を、控えめな仕草で海斗が制する。友森が、黒縁の厚い眼鏡の真ん中を押し上げた。
「ふむ。実朝ですか」
さすが、和歌愛好会の会長なだけあって詳しいらしい。だが律はそれよりも、いきなり自分の名が呼び捨てにされたことについていけずに絶句した。さすがに目の前でこう呼ばれることには慣れていない。
周囲の会員たちは特に詳しくないのか、きょとんとした顔の人が多かった。
「万葉調の歌人として有名な方ですよね。本歌取りが多いこともあって評価は分かれるところのようですが……ぼくは好きですよ」
「そうなのですか」
海斗はまったく動じる風も見せなかった。にこやかな顔は崩さないまま、ゆったりと椅子の背に体を預けているだけだ。
「アララギ派の斎藤茂吉は、著作である『源実朝』の中で彼の歌を絶賛していますよね。本歌取りは当時の歌の作り方としては普通のもので、実朝が幼少期からそのように教育されたのは当たり前の話だと。本歌取りだって、もとの歌のすばらしさを見抜く眼力があってこそのものだと。それをもとにして、自分らしい歌をしっかりと詠めるのは大いなる才能があってこそのことだ……ともね」
「そうですね。おっしゃる通りです」
「それに、特に『金槐』は実朝の二十二歳までの歌を集めたものです。僕らとさほど変わらない年齢です。……そう考えたら、それはもう素晴らしい才能としか思われないですよ。ぼくは尊敬するし、彼の歌は個人的に好きですね」
「なるほど」
(なんてことだ……)
律は茫然と友森の言葉を聞いていた。その斎藤茂吉とかいう人のことは、過去、中学や高校の国語の授業の中で聞いたことがある。でも、まさか自分の歌のことについてそんなにも評価してくださった歌人だなんて、今の今まで知らなかった。
「そもそも歌というのは、紀貫之の言葉の通りだとぼくは思っています」
「貫之どのの」
ついぽろりとそう言ってしまってから、ハッとして律は黙った。これは現代の若者が言うにはかなり奇怪なセリフに違いない。
が、一瞬妙な顔になった友森は気を取り直してまた海斗を見た。
「『心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる』。これは『古今集』の仮名序にある貫之の言葉です。人生の中で、見るもの、聞くものにつけては心に湧きおこったものを三十一文字にあらわすものだと」
そうだ。かつて鎌倉殿であったとき、人から贈られてむさぼるように読んだ「古今集」。そのときのことを今、律はありありと思い出していた。庭に面した自分の部屋で、または濡れ縁で。夢中になって素晴らしい歌の数々を読ませてもらったものだ。
「実朝もまちがいなく、その流れをくむ人だった。彼の歌は素直で、繊細でありながらときにダイナミックで、ぼくはとても魅力的だと思っていますよ」
「そうなんですね。わかりました。ありがとうございます」
海斗がにっこり笑うと、そっと隣の律を見てきた。その時になってはじめて、律は自分の目ににじんだものの存在に気づいた。
なんという奇跡なのだろう。
数百年の時を経て、こうして現代の若者に、自分の歌が届いているとは──。
こちらを見ている海斗の瞳がひどく優しい。
ついくしゃっと歪んでしまいそうになる顔をなんとか立て直して、律も笑い返した。
「入会については、もう少し考える時間をいただいても構いませんか」
「もちろんだよ。ゆっくり考えて」
友森はあっさりそういうと、海斗とコミュニケーションアプリの情報を交換し、「断るときはこれで一言流してくれたらいいからね」と言った。「入るならともかく、断るとなると言いにくいものでしょう」と笑う彼を見て、律は本能的に思った。
きっと自分は、こちらの愛好会のお世話になるのだろうな、と。
春秋は 代りゆけども わたつうみの 中なる島の 松ぞ久しき
『金槐和歌集』585
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