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第一章
50 思ひ出でて
しおりを挟む美味しいですか、と訊くのはどうしても気が引けたので黙っていたが、律は無意識に、スプーンを口に運ぶ海斗を凝視していたらしい。あとで気が付いたことだが、これでは海斗もさぞや食べにくかったことだろう。
手を合わせて「ご馳走になりまする」と言ったあと、海斗はゆっくりとひと口目を味わってにこりと笑った。だが、それは多分に「苦笑」と呼ばれるものを含んだ笑顔だった。
「たいへん美味しゅうございます、殿」
「……そ、そうか。よかった──じゃなくて! ルウは市販のものなんだから大丈夫だと言ったであろうっ!」
「申し訳ありませぬ。左様にご心配げな目でご覧になっていたもので、つい」
くす、とわずかに笑声をもらしたのを、律は聞き逃さなかった。
「わっ、笑うなあっ!」
人生で二度目に作ったカレーなのだ。他人に食べさせるためと限定するなら、正真正銘、生まれて初めて作ったものだ。心配になるのは当たり前だろうに!
「まことに申し訳ありませぬ。本当に美味しゅうございます。お忙しい中、まことにありがとう存じます」
「もうっ、いいから! 冷めないうちにさっさと食べよう」
「はい」
にこにこしながら、海斗がふた口目を口にするのを見てから、ようやく律も自分のスプーンを握り直した。
「……ん。ちょっと薄めかなあ」
何度も味見はしたのに、やっぱりどこか物足りない味のような気がして仕方がない。麻沙子が作るカレーにはチョコレートやらインスタントコーヒーなどのかくし味が入っているそうなのだが、今回はそれには挑戦しなかったのだ。
「大丈夫にございます。一日おけば、またさらにこくが出ることでしょう」
「う、うん……」
「カレーは二日目以降がおいしいのよ」と、麻沙子も言っていたのを思い出す。普段から料理を作っている海斗には、そんなことはきっと自明なのだろう。
そんなこんなで食事が終わり、「手伝います」としつこい海斗を半ば無理やりにもソファに押し込めて後片付けをしているうちに、もう九時近くになっていた。
洗い物を終えて手を拭くと、律はそっと自分の鞄を取り上げた。
そろそろ義之が帰ってくるだろう。渡せるとしたら、今しかない。
海斗は鷲尾たちから渡された今日の講義のプリントやノートに目を落としている。
「……あの」
「はい? あ、後片付けまでありがとうございました」
「そんなのは当たり前だ。……それより、これっ」
言ってずい、と突き出したのは、和歌などを書きつけるための細長い色紙だった。
海斗がぴたりと動きを止める。
「すまない。墨とか硯とか筆とか……色々さがしていて、思った以上に時間がかかってしまった」
これは本当だった。
昔とは違って、今は本当にいろんな商品が世の中にあるのだ。
子どものころに学校で使っていた書道セットは残っていたけれど、扱いが悪くて筆は使い物にならなくなっていたし、硯も安価なプラスチック製のものだった。墨をするなんていう作業は割愛されていて、現代では墨汁なるものを使うのが当たり前になっている。
実朝としての記憶を思い出す前なら平気だったことが、今の律にはなんとなく我慢できなくなっていたのだ。
それで、近くの文具店やらネットの通販やらをいろいろと探しているうちに、思った以上に時間を取られることになった。
海斗は目を丸くして、細長い色紙を見つめている。
「との──」
「約束していただろう? 『春霞』。……受け取ってくれ」
「との!」
言って海斗がギプスのはまった足のまま床に平服しようとしたので、律は慌てた。
「やっ、やめてください! 座ったままでいいですから。無理しないで!」
「は……はい。申し訳もなきことで」
「いいから。早く受け取って」
「……はい」
ソファに座った状態で、ひどく恐縮しながらも、海斗は恭しく小さな色紙を押し頂いてくれた。
じっとその文面に目を落とす。その目が急に、懐かしいものを見た人のものになった。
「……ああ。殿の筆跡ですね。お懐かしゅうございます」
「わかったから。早くしまって。義之さんに見られたらはずかしいから」
静かに夜が更けてゆく。
かつてやんわりと押し返された自分の歌が、いま、彼の胸に抱かれるようにしてそこにある。
その事実を、律はひたすらじんわりと、ほのかな甘みをもって受け止めていた。
思い出でて むかしを偲ぶ 袖のうへに ありしにもあらぬ 月ぞ宿れる
『金槐和歌集』561
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