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第一章
43 山遠み
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海斗は不思議に優しい目をして、しばらくじっと律を見つめた。その手は相変わらず、子どもにでもするようにしてそっと律の髪をなでている。
「お許しください。……ですが、これで少しはお分かりいただけたかと思っておりました。夢の中でも、ずっと」
「え。……なにをだ」
「遺されてしまう者の、不甲斐なさを。虚しさを」
「……!」
「まことに傲慢なことです。我執というものは、なかなか身を去るものではございませぬな。こんな転生をした身でも」
「な……なにを」
愕然として、絶句する。
「あの鶴岡八幡宮の石段で。あなたは近習の者たちにすら、ほとんど何もおっしゃることもなさらず逝っておしまいになられた」
「……無理を言うなよ。仕方がないだろう」
「左様ですね」
本当にわかっているのか、この男。
あの時は、本当にあっという間に斬殺されて、しかも首までとられたというのだから。
この男をどんなに恋しいと思っていたとしても、なんの言葉も残せなかったことを恨みに思われても困るというものだろう。無茶を言うな。
じっとこちらを見ている海斗の瞳が少しずつ潤んで赤くなっていくのに気づいて、律の体はじわじわと熱を持ちはじめた。
「なにも申し上げられなかった……。いろいろと思うところはあったというのに。あれこれと仕事にとりまぎれて──いや、今となっては故意に仕事が忙しいことにしたのだと思います。そうして悩みつつもごまかしているうちに……あなた様はあっという間に、私の手の届かぬところへ行っておしまいになった。……自分は、卑怯者にございました」
「や、やすとき……?」
なにが言いたいのだろう。なんだかいつもの海斗とはずいぶん違うように思える。こんな表情でこんな声で、自分に話しかけてくるこの人をはじめて見た。前世でも、今生でもだ。
髪に触れていた海斗の手がすっとおりて、枕元に置いた律の手を上から包んだ。律はその瞬間、子ネコのようにびくっと飛び上がってしまった。
「……退院しましたら、大切なお話があります」
「え」
「ここではさすがに。ですから、退院しましたら」
「う、……うん?」
言われてやっと気づいた。ここは四人部屋だ。カーテンが引かれているとはいっても、隣のベッドはほんの二歩ほどしか離れていない。もしも聞き耳を立てる人がいれば、隣の会話なんて筒抜けの状態なのだ。
さすがにこんなところで大事な話はできないだろう。
「ですから。どうかお約束を」
「え、……あ、うん……」
「どうか、お逃げにならないでくださいませ。実朝さま」
「う……うっ?」
手の甲をぐっと握られて、背筋にビリッと電気が走った。
「お約束を」
「うううっ……」
海斗の真摯な瞳がまっすぐに自分を射抜いている。
律は自分の顔がすでに朱に染まっていることを自覚しつつ、こくこくこく、と何度もうなずいた。それでも手は放してもらえない。
それでついに律は言った。
「これでも、もと武家の頭領ぞ。家人との約束をたがえることなどせぬわ。……放せ」
「……はい」
海斗が優しい目のままふっと微笑んだ。
それでようやく、律の手は解放された。
「約束したからね。律くん」
「ううううーっ」
ずるい。さんざん「殿」だの「実朝さま」だのと呼んでおいて、急にまた「清水海斗」に戻り、こちらを「青柳律」に戻す。ケガ人の分際で、どれだけ人を振り回せば気が済むんだ。
(それにしても──)
カーテンがこの色でよかった。
律はむうっと唇をとがらせながら海斗をにらんだ。
赤面しきった自分の顔が、少しでもましな色に見えていることを願いながら。
山遠み 雲居に雁の 越えて去なば われのみひとり 音にや泣きなむ
『金槐和歌集』630
「お許しください。……ですが、これで少しはお分かりいただけたかと思っておりました。夢の中でも、ずっと」
「え。……なにをだ」
「遺されてしまう者の、不甲斐なさを。虚しさを」
「……!」
「まことに傲慢なことです。我執というものは、なかなか身を去るものではございませぬな。こんな転生をした身でも」
「な……なにを」
愕然として、絶句する。
「あの鶴岡八幡宮の石段で。あなたは近習の者たちにすら、ほとんど何もおっしゃることもなさらず逝っておしまいになられた」
「……無理を言うなよ。仕方がないだろう」
「左様ですね」
本当にわかっているのか、この男。
あの時は、本当にあっという間に斬殺されて、しかも首までとられたというのだから。
この男をどんなに恋しいと思っていたとしても、なんの言葉も残せなかったことを恨みに思われても困るというものだろう。無茶を言うな。
じっとこちらを見ている海斗の瞳が少しずつ潤んで赤くなっていくのに気づいて、律の体はじわじわと熱を持ちはじめた。
「なにも申し上げられなかった……。いろいろと思うところはあったというのに。あれこれと仕事にとりまぎれて──いや、今となっては故意に仕事が忙しいことにしたのだと思います。そうして悩みつつもごまかしているうちに……あなた様はあっという間に、私の手の届かぬところへ行っておしまいになった。……自分は、卑怯者にございました」
「や、やすとき……?」
なにが言いたいのだろう。なんだかいつもの海斗とはずいぶん違うように思える。こんな表情でこんな声で、自分に話しかけてくるこの人をはじめて見た。前世でも、今生でもだ。
髪に触れていた海斗の手がすっとおりて、枕元に置いた律の手を上から包んだ。律はその瞬間、子ネコのようにびくっと飛び上がってしまった。
「……退院しましたら、大切なお話があります」
「え」
「ここではさすがに。ですから、退院しましたら」
「う、……うん?」
言われてやっと気づいた。ここは四人部屋だ。カーテンが引かれているとはいっても、隣のベッドはほんの二歩ほどしか離れていない。もしも聞き耳を立てる人がいれば、隣の会話なんて筒抜けの状態なのだ。
さすがにこんなところで大事な話はできないだろう。
「ですから。どうかお約束を」
「え、……あ、うん……」
「どうか、お逃げにならないでくださいませ。実朝さま」
「う……うっ?」
手の甲をぐっと握られて、背筋にビリッと電気が走った。
「お約束を」
「うううっ……」
海斗の真摯な瞳がまっすぐに自分を射抜いている。
律は自分の顔がすでに朱に染まっていることを自覚しつつ、こくこくこく、と何度もうなずいた。それでも手は放してもらえない。
それでついに律は言った。
「これでも、もと武家の頭領ぞ。家人との約束をたがえることなどせぬわ。……放せ」
「……はい」
海斗が優しい目のままふっと微笑んだ。
それでようやく、律の手は解放された。
「約束したからね。律くん」
「ううううーっ」
ずるい。さんざん「殿」だの「実朝さま」だのと呼んでおいて、急にまた「清水海斗」に戻り、こちらを「青柳律」に戻す。ケガ人の分際で、どれだけ人を振り回せば気が済むんだ。
(それにしても──)
カーテンがこの色でよかった。
律はむうっと唇をとがらせながら海斗をにらんだ。
赤面しきった自分の顔が、少しでもましな色に見えていることを願いながら。
山遠み 雲居に雁の 越えて去なば われのみひとり 音にや泣きなむ
『金槐和歌集』630
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