金槐の君へ

つづれ しういち

文字の大きさ
上 下
40 / 93
第一章

38 塔を組み

しおりを挟む

 律の記憶はそこからとても曖昧だ。
 ずっと泥の中をもがいているような、ほとんど息も吸えないような、ねっとりとした重い息苦しさが続いていた。それぐらいしか憶えていない。
 だれかに何かを訊かれて受け答えをしたりうなずいたりはしたような気もする。だが、なにをどう答えたのかはまったく記憶になかった。警察官の恰好をした人がいたように思うけれど、それすらなんだか自信がない。だれかに「それは君の夢だよ、勘違いだよ」と言われたら、すぐに信じてしまうかもしれないぐらいだ。
 気がつけば律は、自分のバックパックを胸に抱えてぽつねんと病院の待合室の片隅に座りこんでいた。

(……あれ。なんだろう)

 ここはどこだ。
 見覚えのない病院。待合室の入口の向こうでは、医師や看護師たちがせかせかとあちこち行き来している。だれかの手術を待ってでもいるのか、家族づれがひと組、隅のテーブル席に座ってひそひそと話している。
 陽はすっかり落ちてしまったらしい。時計を見ると、薄いカーテンをすかして橙色だいだいいろの光がそっと今日の最後の仕事をしおわったのはずいぶん前のことだったようだ。病院というのは、昼間でも部屋の明かりがついたままのことが多い。今ではもう、陽の光が室内の人工灯の明かりに静かにとって代わられていた。その変化を、律はだまってぼんやりと見ていた。
 目の下から顎にかけて、肌がぱりぱりになってつっぱっている。涙が乾いた跡だ。喉はもうがさがさで、口の中はからからだった。彼の名前をひたすらに叫びすぎたために。

(やす、とき……)

 たとえ針先ほどすらあのときのイメージを思い出したくなくて、律はぎゅうっとバックパックを抱きしめ、うずくまるようにした。
 
(やすとき、やすとき……っ)

 自分のせいだ。自分があんまりぼうっとしていて、まだ信号の変わりきっていない横断歩道へ飛び出そうとしたところを、彼が必死で後ろから止めてくれた。その反動で彼自身が車道へ放り出される形になったのだ。運悪く、そこへ車が突っ込んできた。
 
(どうしよう)

 このまま泰時が……なんていうことになったら。
 そんなこと、信じない。信じたくない。きっと助かると信じてる。
 でも、もしも万が一、そんなことになってしまったら。
 私はいったい、どうしたらいいんだ。
 一体どうやって責任を取ればいい?
 
 律はバッグを抱えたままで靴を脱ぎ、椅子に両足を上げて小さく丸まり、ずっとゆらゆらと体を揺すり続けている。

南無なむ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ──)

 無意識に浮かんできた祈りの言葉に、思わず苦笑してしまう。
 なんという皮肉だろう。
 その八幡宮の社前の石段下で死にからめとられた自分が、一体いまさら、なにを菩薩に願うというのだろうか。

 しかし、今はどんなものにでも祈りたい気持ちだった。
 どうか、どうか。
 どうか泰時を、海斗を連れ去らないでくださいませ。
 あの時、自分は置いてきぼりにしてしまった側だった。だから、今回は置いてきぼりにされる側になるのもしょうがないのかもしれない。むしろそれこそが「運命だ」と言えてしまうのかもしれない。

(でも……いやだ)

 そんなことになるのは耐えられない……!
 ぎゅっと目を閉じたまま、どのぐらい時間が過ぎた頃か。軽い衣擦れと靴音が近づいてきた。大股の、男性の足音だった。
 ほかの家族はさきほど、看護師に呼ばれて移動したあとである。部屋にはいま、律しかいない。
 足音は部屋の入口近くで一度止まって、ためらうようにそっとこちらに近づいてくると、律から少し離れた場所で止まった。

「……あの。青柳くんですか」

 律はのろのろと目を上げた。
 サラリーマン風の中年の男性が立っている。黒縁の眼鏡に、着古した感じのグレーの背広とベージュのコート。やせ型で背が高い。短めの髪にはちらほらと白いものが混じっている。
 男の見覚えのある目元を見て、律はハッとした。

「……あ。あの……海斗さんの?」
 男性はほっとしたような表情になってうなずいた。
「はい。海斗の父です」
「あ、……ああっ」

 律は転がるように椅子から飛びおりると、バックパックを放り出して男性の前に座り込んだ。そのままぴたりと土下座する。「えっ」という仰天したような声が降ってきた。

「もうしわけありませんっ! ごめんなさい、ごめんなさいいっ……!」
「あ、青柳くん? ちょっと待って」

 男性が必死に止める声は聞こえていたが、律はまたもや泣きじゃくりながら、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返し、床に額をこすりつけた。



たふを組み だうをつくるも 人の嘆き 懺悔ざんげにまさる 功徳くどくやはある
                      『金槐和歌集』616
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

王様のナミダ

白雨あめ
BL
全寮制男子高校、箱夢学園。 そこで風紀副委員長を努める桜庭篠は、ある夜久しぶりの夢をみた。 端正に整った顔を歪め、大粒の涙を流す綺麗な男。俺様生徒会長が泣いていたのだ。 驚くまもなく、学園に転入してくる王道転校生。彼のはた迷惑な行動から、俺様会長と風紀副委員長の距離は近づいていく。 ※会長受けです。 駄文でも大丈夫と言ってくれる方、楽しんでいただけたら嬉しいです。

異世界に転移したショタは森でスローライフ中

ミクリ21
BL
異世界に転移した小学生のヤマト。 ヤマトに一目惚れした森の主のハーメルンは、ヤマトを溺愛して求愛しての毎日です。 仲良しの二人のほのぼのストーリーです。

王道学園のモブ

四季織
BL
王道学園に転生した俺が出会ったのは、寡黙書記の先輩だった。 私立白鳳学園。山の上のこの学園は、政財界、文化界を担う子息達が通う超名門校で、特に、有名なのは生徒会だった。 そう、俺、小坂威(おさかたける)は王道学園BLゲームの世界に転生してしまったんだ。もちろんゲームに登場しない、名前も見た目も平凡なモブとして。

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

僕の王子様

くるむ
BL
鹿倉歩(かぐらあゆむ)は、クリスマスイブに出合った礼人のことが忘れられずに彼と同じ高校を受けることを決意。 無事に受かり礼人と同じ高校に通うことが出来たのだが、校内での礼人の人気があまりにもすさまじいことを知り、自分から近づけずにいた。 そんな中、やたらイケメンばかりがそろっている『読書同好会』の存在を知り、そこに礼人が在籍していることを聞きつけて……。 見た目が派手で性格も明るく、反面人の心の機微にも敏感で一目置かれる存在でもあるくせに、実は騒がれることが嫌いで他人が傍にいるだけで眠ることも出来ない神経質な礼人と、大人しくて素直なワンコのお話。 元々は、神経質なイケメンがただ一人のワンコに甘える話が書きたくて考えたお話です。 ※『近くにいるのに君が遠い』のスピンオフになっています。未読の方は読んでいただけたらより礼人のことが分かるかと思います。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

悪役令嬢と同じ名前だけど、僕は男です。

みあき
BL
名前はティータイムがテーマ。主人公と婚約者の王子がいちゃいちゃする話。 男女共に子どもを産める世界です。容姿についての描写は敢えてしていません。 メインカプが男性同士のためBLジャンルに設定していますが、周辺は異性のカプも多いです。 奇数話が主人公視点、偶数話が婚約者の王子視点です。 pixivでは既に最終回まで投稿しています。

処理中です...