金槐の君へ

つづれ しういち

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第一章

35 沢辺より

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「今の自分の趣味は、ご存じのとおり鎌倉時代の歴史のことや和歌のことです。理系の勉強も面白くて好きですけどね。でも、どっちにしても鷲尾さんにそんな趣味、ないじゃないですか」
「それはそうですね」
 ちなみに鷲尾は教育学部所属である。社会科の教師になりたいらしい。
「逆に、鷲尾さんにどんな趣味があるかなんて、俺もよく知りませんし」
「そう、ですか」
「…………」

 何とも言えない気まずい沈黙がやってきた。
 だんだんこらえ切れなくなってきて、ついに律は開いていた本を閉じ、海斗に向き直った。

「どうしたんですか? 海斗さん。なにが訊きたいんですか、俺に」
「…………」
「鷲尾さんと俺が話をしていたら、なにかマズいことでも?」
「…………」

 ずっと沈黙されたままでは、なにもわからない。海斗はさっきから、口元を手で軽く隠すようにしてひたすら黙っているだけだ。
 マンションの窓の外からは、夕刻を告げているらしいカラスの声が聞こえてくる。思わずそちらに目をやって戻したその一瞬で、海斗はまたもや床にぺたりと平身低頭の状態になっていた。

「ちょ、ちょっと──」
「……申し訳ありません。愚かなことを申しました。どうかお許しを」
「愚かってなんです。わけがわからないんですけど」
「はい。申し訳もなきことです」
「謝らなくていいって言ってるのに!」

 ついに憤慨して、律はテーブルの上をばちんと叩いた。

「ちゃんと説明してください。鷲尾さんと話すとなにかマズいことがあるっていうなら知っておきたいし」
「……そういうことでは、ありません……」

 非常に歯切れの悪い言い方だった。まったく海斗らしくない。

「さっき『許してください』って言いましたけど。許すとか許さないとか、そういう次元の話にすらなってないでしょう? そもそも今の俺は、あなたの上司ではないんですし。むしろ後輩ですよ? 何かを許す立場じゃないんですから」
「はい」
「だから、教えてください。何がそんなに気になったんです」
「…………」

 まただんまりだ。

「海斗さんってば!」
 ついつい声が大きくなった。
「いいから頭を上げてくださいっ。それじゃまともに話もできないっ!」
「も、申し訳──」
「あ、や、ま、る、なあああっ!」

 とうとうブチ切れて、律は叫んでしまった。
 体をびくっとすくませて、海斗が出来の悪いロボットのようにぎこちないリズムで頭をあげる。その顔には困惑がみっしりと張り付いていた。ほんの少しだが、青ざめているようにも見える。

「……ほんとうに、自分でもよくわからず。先日から思い惑っておりまして……申し訳もなきことにございます」
「だからいいっていうのに」
 律はつい、タメ口で言い放って溜め息をついた。
「ちゃんと話してください。何が気になっているのか」

 ふたたびの沈黙。

「……わらって、おられて」
「は?」
 律の顎がかくんと下がる。
「実は先日、あなたがアキと一緒に昼食をとっておられたのを……物陰から拝見しまして」
「はあ」
「さねともさ……律くんが、笑ってらして」
「はあ」
「た……楽しそうで。ひどく」
「……はあ」

 そりゃ人間だもの。笑うぐらいはするだろう。
 いったいこの男、人をなんだと思っているのだろう。
 しかも相手はあの話が巧みで付き合いやすい鷲尾なのだし。

「わ、私とおられる時にはあんな風に……お笑いになることはなかったではありませぬか……」

 またもや海斗が時代錯誤なしゃべり方に戻っているが、もう無視する。

「それがどうしたって言うんです? 楽しくおしゃべりしていただけじゃないですか。鷲尾さんとはうまくやってほしいんじゃないんですか? あなたの友達で、いい人だからってあながが紹介してくださったんですよ? せっかく俺のことを守ってくださっている大事な人ですし」
「はい。おっしゃる通りです」
「じゃあなに。喧嘩でもしていたほうがよかったとでも?」
「そ……うでは、ありません」
「だったらなんなの」
「……わかりません」

 海斗はもう両手で顔を覆ってしまっている。困り果てているのだろう。
 北条泰時であったときにも、こんな彼を見たことはなかった。

「なんですか? つまり俺が、あなたと一緒にいるときにも同じように笑っていればよいと? それなら満足なんですか」
「……よく、わかりません」
「ええいもう、まったく!」

 律はすっかり業を煮やした。
 ばっと立ち上がると、床に座っている海斗にずいと近づき、片膝をつく。

「きちんと申してみよ。私はちゃんと聞くから。──泰時」



沢辺さはべより 雲居くもゐに通ふ 葦鶴あしたづも きことあれや のみ鳴くらむ
                      『金槐和歌集』606
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