金槐の君へ

つづれ しういち

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第一章

30 天の原

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 厳しい表情になった海斗を前に、律は一瞬だけたじろいだが、どうにか気持ちを立て直した。

「いいんですってば。それに……負担です。んです、もう。あの人ともう一度、わざわざ会うなんて」

 それは本心だった。「しんどい」という言葉を聞いて、海斗はきつくなっていた表情筋を少しゆるめたようだった。困ったように視線をさまよわせている。律はここぞとばかりに畳みかけた。

「それに、笹原さんには悪意はなかったのでしょう? 酒の上でのことだとも聞きましたし。本人は酔ってしまっていて、自分が何を言ってしまったかもよく覚えてないんでしょう?」
「ええ。しかし」
「だったらもういいじゃないですか。これ以上、彼女を傷つけたくありません」
「しかしっ」
「しかしじゃないっ」

 思わず怒鳴りかけて、駅の構内を行く人々の視線に気づき、律は声を落とした。

「酒の上での失敗なんて、坂東武者たちはさんざんやっていたじゃないですか。それも、いい歳をしたたちがですよ。今さら、若い女性の酒の過ちのひとつやふたつ、見過ごさないでどうするんです」
「……そ、それは──」

 海斗の視線がますます戸惑ったものになった。なんだか昔を思い出す。将軍として、彼の上司である者として彼をいさめる立場だったことを。
 実際には実朝が本気でこの男を叱責することなどなかったわけだが、もしもそれがあったならば、泰時が従順に耳を傾けないことなどあるはずがなかったのだ。

「ですから。この話はここまでとしましょう。……今日はありがとうございました。海斗さんのおかげで、大学でも普通に過ごせました。お昼も一緒に食堂にいってもらったりして。感謝しています、本当に」
「……いいえ。自分はなにも」
「でも、どうか無理はしないでください。海斗さんには海斗さんの生活があるんですから。バイトだって忙しいんだし、ずうっと俺にくっついているわけにもいかないでしょう」
「それは……わかっております」

(本当かなあ)

 冗談ぬきで、この男なら平気で留年してでも律のそばに居つづけそうな気がして空恐ろしくなる。それだけ、過去の右大臣実朝にしてやれなかったことを悔いているのはわかるけれど。それにしたってやりすぎなのだ。
 海斗はしばらく考えているようだったが、ようやく顔を上げて言った。

「さねともさ……律くんのご意向の通りにいたします。ですが、これだけはお許しを」
「なんでしょうか」
「笹原なぎさの友人の件です。彼女の話を聞いて、あなた様のあらぬ噂を吹聴ふいちょうした張本人の女性については、自分に対処をお任せいただきたい」
「……そっちもですか」

 なんだか溜め息が出た。ものすごい執念だ。昔から義理がたくて、そのぶん自分の身内に加えられた攻撃については容赦しないところもあったけれど。いやもちろん、そうでなくてはあの権力争いの厳しかった鎌倉の地で生き残ることは難しかったわけだが。

「お願いです。その者の件だけはお任せくださりたく」
「わかりました。わかりましたよ……」

 律はなだめるようにして顔の前で両手をふった。
 確かに、そういうプライベートな噂を無責任に広めるのは褒められた行為ではない。今や「律の友人」となった海斗が立腹して苦言を呈しにいくとしても、さほど不自然なことはないだろう。それに、大学であれほど人気のある海斗から苦言を呈されれば、その女子学生だってそうそう変な行動には出ないはず。ここは任せるのが吉であるようだ。

「では……そちらはお任せします」
「承りました」

 またもや時代劇調の話し方になって、海斗がきりりと頭を下げる。周囲の通行人たちがちらりと不審そうな目を向けてくるのに気づいて、律は慌てた。

「も、もうっ。そういうのはやめてくださいったら! 普通にしてくださいっ、普通に!」
「失礼をつかまつりました」
「ちっとも変わってないし!」
「…………」

 一瞬、海斗が顔をあげた。きょとんとした目で律を見つめてくる。
 どきん、と心音が強くはねた。少しばかり、顔の距離が近すぎる気がする。
 耳や首がじわじわと熱くなってきたなと思ったタイミングで、いきなり海斗が吹きだした。

「なっ、なにを──」
「……申し訳ありません。そうですね、確かに滑稽ですよね」
「こ、滑稽だとまでは言いませんけど……」

 いや、やはり滑稽なのだ。何百年も昔のしがらみにいまだに囚われて、こうして鎌倉将軍とその御家人という立場のままに話をしつづけるなんて。

「でも、よかったです。律くんが自分を友人にすることを許してくださって」
「ゆ、許すとか許さないとかじゃないでしょう」
「はい。でも……うれしかったのです」

 きれいに澄んだ黒い瞳に見つめられて、さらに胸の音がうるさくなった。
 うれしかった。本当に?
 自分はきっと、その何倍も何十倍もうれしかったという自信があるけれど。

「あれからずっと、律くんの……実朝さまのことばかり考えてしまうのです。昼といわず、夜といわず」
「え……」

 海斗が? いや、泰時が?
 自分のことをそんなにも考えてくれているだって……?
 どくん、どくんと心臓の音がうるさい。
 律はふいと視線をそらした。

「……だから。そんなに過去に縛られちゃダメだって言ってるのに」
「いいえ。いいのです」
 海斗は意外にもきっぱりと言った。やっぱりその目はまっすぐに律の目を見返している。
「こうすることで、ようやくみそぎが済むのかもしれません。北条泰時は、前世で思い残したことが重すぎた。……とりわけ、あなた様に対してはできなかったこと、果たせなかったこと、そして悔やむことが多すぎたのですから」
「やす、とき……」
 律はつい、彼の前世での名を口走ったことに気づいていなかった。それは勝手に口をついて出てしまったようだった。
「ですから、これは僥倖ぎょうこうだと考えております。……こちらこそ、ありがとう存じます。こんな自分に、あのときの思い残しを晴らす機会をお与えくださって」
「泰時……」

 しんとした、深い悲しみが襲ってきた。
 喉の奥に熱いものがこみあげてきて、鼻の奥に痛みが走った。

「……そなたの気が、こんなことで晴れるならばそれでよい」

 海斗がハッと顔をあげ、それからゆるやかに微笑んだ。

「はい。ありがとう存じます」

 都会の雑踏の喧騒が、そのときだけは不思議なほどに遠く、まるで古い無声映画をゆっくりと回したように、ふたりの周囲を流れていった。


あまはら 風にうきたる 浮雲の ゆくへ定めぬ 恋もするかな
                      『金槐和歌集』404
  
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