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第一章
25 春霞
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黙りこくってしまった律を前に、海斗もしばらく困り果てたように沈黙していた。
やがて、ついに意を決したように立ち上がると、ようやくソファの斜め向かいの場所に腰を下ろした。
顔を覆った指の間から、なんとなくその様子は見えていたものの、律はやっぱり顔から手を離すことができなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったらすぐにも潜りこみたかった。
「……驚いた、であろう? 気にしないでくれ。というか、忘れてほしい」
「忘れるわけがありませぬ」
「やすときっ……」
つい、以前の名前が口を突いて出てしまう。
「むしろ殿のお気持ちに気づきもしませず……朴念仁の極みにて。この身の情けなさが身に沁みまする」
不思議なことに、海斗の声はむしろ落ち着いて、淡々としているように聞こえた。
「無茶を言うな。あの時にはもう、そなたには愛する妻がいたであろうに」
「それをおっしゃるならば、実朝さまも」
「それを言わないでくれ」
「わかっておりますよ」
海斗は苦笑して見せた。
「当時のあなた様のお立場で、御台所を娶らぬという道はございませんでした。京の貴族の娘を求められたのも、理由は存じておりました」
「……そうか」
またしばしの沈黙のあと、海斗はそっと自分の鞄から本を取り出した。ほとんど音もたてなかった。
律は目を瞠った。
「金槐和歌集」だった。
「あれから自分も、何度かこちらの歌集を読み直しておりまして」
「そんな。やめてくれ……」
恥ずかしさがさらに加速する。
「いいえ。不勉強な自分などに何が言えるわけもないことは重々存じておりますが、まことに素晴らしい歌集にございます。かの藤原道長公が高く評価されたのも、なるほどとうなずけるほどのもの」
「…………」
「本来であれば、鎌倉殿としてのお立場さえなければ、あなた様はこちらの道をずっと極めてゆかれた方だったのでしょうに」
「いや、もういいって」
「よくありませぬ」
言って海斗はずい、と少しこちらに身を寄せた。そのぶん、無意識に律のほうが体を引いた。
「ずっと不思議に思っておりました。あなた様があの時、自分に見せてくださった歌。あれもこちらにございましたが」
「…………」
「ほかにも、まこと恋の歌が多くて。……鎌倉武士らしい勇壮なものもありながら、やはりこちらの歌が印象に残りますし」
「や、やめてってば」
海斗の手がハードカバーの本を開き、ぱらぱらとゆっくりページをめくっている。見ればあちこち、栞が挟まれていた。
「歌の世界に恋の歌が多いのは事実とは申せ……こちらの歌たちはもしや、自分を──」
「や、もういやだったら!」
そうだよ。
全部、そなたを思い描いて歌ったものだ。
やるせない恋、秘めた恋。だれにも言えずに墓までもっていくと決めた恋。
自分の恋はそういう類のものだった。
と、ページを繰る彼の手がぴたりと止まった。
「……この、『春霞』」
うっ、と息が詰まった。
まさか、彼が覚えていたとは。
しかもその本にはご丁寧にも、「初恋の心をよめる」という前書きまである。
「あの時は、自分に間違って見せてくださったものだとおっしゃった」
「…………」
こめかみのあたりに彼の強い視線を感じる。しかし律はもう目をあげることもできなかった。顔を隠したまま、肩の間に首を埋めこみ、ただただ真っ赤になっているだろう耳を彼の視界に晒していることしかできない。
「違ったのですね? 間違いではなかったのでしょう」
「…………」
「わたしに……自分に下さった歌だった。……ちがいますか」
ぎゅうっと、心の臓が絞られた。
春霞 たつたの山の さくら花 おぼつかなきを 知る人のなさ
『金槐和歌集』371
やがて、ついに意を決したように立ち上がると、ようやくソファの斜め向かいの場所に腰を下ろした。
顔を覆った指の間から、なんとなくその様子は見えていたものの、律はやっぱり顔から手を離すことができなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったらすぐにも潜りこみたかった。
「……驚いた、であろう? 気にしないでくれ。というか、忘れてほしい」
「忘れるわけがありませぬ」
「やすときっ……」
つい、以前の名前が口を突いて出てしまう。
「むしろ殿のお気持ちに気づきもしませず……朴念仁の極みにて。この身の情けなさが身に沁みまする」
不思議なことに、海斗の声はむしろ落ち着いて、淡々としているように聞こえた。
「無茶を言うな。あの時にはもう、そなたには愛する妻がいたであろうに」
「それをおっしゃるならば、実朝さまも」
「それを言わないでくれ」
「わかっておりますよ」
海斗は苦笑して見せた。
「当時のあなた様のお立場で、御台所を娶らぬという道はございませんでした。京の貴族の娘を求められたのも、理由は存じておりました」
「……そうか」
またしばしの沈黙のあと、海斗はそっと自分の鞄から本を取り出した。ほとんど音もたてなかった。
律は目を瞠った。
「金槐和歌集」だった。
「あれから自分も、何度かこちらの歌集を読み直しておりまして」
「そんな。やめてくれ……」
恥ずかしさがさらに加速する。
「いいえ。不勉強な自分などに何が言えるわけもないことは重々存じておりますが、まことに素晴らしい歌集にございます。かの藤原道長公が高く評価されたのも、なるほどとうなずけるほどのもの」
「…………」
「本来であれば、鎌倉殿としてのお立場さえなければ、あなた様はこちらの道をずっと極めてゆかれた方だったのでしょうに」
「いや、もういいって」
「よくありませぬ」
言って海斗はずい、と少しこちらに身を寄せた。そのぶん、無意識に律のほうが体を引いた。
「ずっと不思議に思っておりました。あなた様があの時、自分に見せてくださった歌。あれもこちらにございましたが」
「…………」
「ほかにも、まこと恋の歌が多くて。……鎌倉武士らしい勇壮なものもありながら、やはりこちらの歌が印象に残りますし」
「や、やめてってば」
海斗の手がハードカバーの本を開き、ぱらぱらとゆっくりページをめくっている。見ればあちこち、栞が挟まれていた。
「歌の世界に恋の歌が多いのは事実とは申せ……こちらの歌たちはもしや、自分を──」
「や、もういやだったら!」
そうだよ。
全部、そなたを思い描いて歌ったものだ。
やるせない恋、秘めた恋。だれにも言えずに墓までもっていくと決めた恋。
自分の恋はそういう類のものだった。
と、ページを繰る彼の手がぴたりと止まった。
「……この、『春霞』」
うっ、と息が詰まった。
まさか、彼が覚えていたとは。
しかもその本にはご丁寧にも、「初恋の心をよめる」という前書きまである。
「あの時は、自分に間違って見せてくださったものだとおっしゃった」
「…………」
こめかみのあたりに彼の強い視線を感じる。しかし律はもう目をあげることもできなかった。顔を隠したまま、肩の間に首を埋めこみ、ただただ真っ赤になっているだろう耳を彼の視界に晒していることしかできない。
「違ったのですね? 間違いではなかったのでしょう」
「…………」
「わたしに……自分に下さった歌だった。……ちがいますか」
ぎゅうっと、心の臓が絞られた。
春霞 たつたの山の さくら花 おぼつかなきを 知る人のなさ
『金槐和歌集』371
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