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第一章
16 秋萩の
しおりを挟む「青柳くん、だっけ。一年生の。ちょっといい?」
許可を求めているのは言葉だけだ。なぜなら彼女はすでにその時点で、律の隣にしっかり座ってしまっている。律は慌てて端に寄り、彼女との距離をとった。その距離はそのまま心の距離でもある。
「このところ、頻繁に会ってるみたいだけど」
「え?」
「とぼけてもダメ。わかってるんだから」
「な……なにがでしょう」
「だからとぼけるなっつってんのよ」
「ひっ」
なぎさの声がどすんと一段低くなって、律は青ざめた。自分の血液がすごい速さで下方へ移動していくのがわかる。
怖い。いや怖いなんてものじゃない。
なんだろう、この女性の殺気は。昔の坂東武者たちが本気で殺気立ったときの恐ろしさとも、まったく遜色ないような気がするのだが。
震えたくなんかないのに、律の体は勝手にかたかたと小刻みのリズムを奏ではじめた。情けないことこの上もない。
なぎさはそんな律に気づかぬ風で、長い足をこれ見よがしにひょいと組んだ。
「このところ海斗、つきあい悪いのよ。悪いなんてもんじゃないわね、『最悪』よ」
「…………」
「バイトの掛け持ちで忙しいのは知ってるわよ。でも、それでも今まではちゃんと時間とってくれてたのにさ」
それはつまり「私のために」ということなのだろう。
時間はだれにも平等で、しかも限りのあるもの。それはもちろん海斗も同じ。律のために割いた時間があるのなら、必ずどこかにしわ寄せがいく。それは当然の話だ。そして海斗の場合、優先的に削ったのはこの女性とのデートの時間、ということなのだろう。
(最悪だ……)
ここは強気に「それがどうして自分に関係があるんですか」と言い返すべきなのだろうか。だが、なんだかそれは非常に悪手に思える。彼女の言いようと眼光からして、もうとっくに証拠は挙がっているのかもしれないからだ。
「ええと。笹原さんは海斗さんの彼女さん、なんですよね」
「なに? あなたもう『海斗』なんて呼んでるの? ずうずうしいわね。あっきれた」
「……す、すみません……」
いや謝る理由なんてないはずなのに。
だってこれは、海斗自身が「そう呼んで」と言ってくれたことなのだから。
理屈ではわかっているのに、どうしてもそんな風に言い返そうという気にならない。律は最初から、なぎさの怒りのオーラに飲み込まれたようなものだった。まるで今にもヘビに呑まれそうなカエルにでもなった心境だ。
「知り合ったの、ついこの間なんでしょ? 後期が始まってからよね」
「は、はい」
「なんで?」
「えっ」
「海斗って、人当たりはいいし優しいけど、そんなに簡単に他人を自分の内側に入れる人じゃないでしょ。慎重だし、バカじゃないし。なんであんたはそんなに簡単に、彼の中に入れたのって訊いてんの」
「いや、そう言われても……」
まさか前世の自分が源実朝で、彼が北条泰時だったからだなんて言えるわけがない。答えに窮して律は黙り込んだ。そんなに咄嗟にうまい言い訳なんて思いつけるはずがない。
なんだかくらくらしてきた。目の前がだんだん暗くなってきて、頭がふらつく。食べたばかりということもあってか、うっすらと吐き気までしてきた。そろそろ限界かもしれない。
「図書館で会ったんですってね。たまたま同じ趣味があったとかって聞いたわよ。どういう趣味なの」
「いや、あの……れ、歴史、とか」
「ふうん? 海斗にそんな趣味あった?」
「そう……聞いてます、けど」
これは紛れもない事実だ。実際それで、まったくの偶然に図書館で出会ったのだから。
それでもなぎさは疑り深い目でじいっと律をにらみつけている。これ以上、自分になにを言えというのか。もう勘弁してほしい。律は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「もしかしてあんた、狙ってたんじゃないでしょうね」
「ね、狙う……? なにをですか」
「だぁから。……あんた、要するにゲイなんでしょ? ちがうの?」
「ええっ?」
突然、頭上に爆弾でも落とされたようだった。
秋萩の 花野のすすき 露をおもみ おのれしをれて 穂にや出でなむ
『金槐和歌集』381
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