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第一章
11 わが恋は
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翌日。律は清水から指定された場所で、彼がやってくるのを待っていた。
大学の最寄り駅からふたつほど離れた駅の改札である。これは清水の提案だった。あまり大学の近辺で落ち合ってしまうと、また要らぬ邪魔が入りそうなのを心配したのだろう。
あの笹原なぎさでないとしても、ほかのサークルメンバーの目に留まらないとも限らない。そうなると何かと面倒だ。これは律も同意見だった。
清水は約束の時間ぴったりぐらいに現れた。
「ごめん、待った?」
「いえ、俺もひとつ前の電車だったので」
「そう。待たせてごめんね」
後期が始まったばかりの時期とはいえ、町に滞留する空気はまだなんとなく蒸し暑かった。都会は人が多いので、人いきれがひどいからでもあるかもしれないけれど。
そのまま、清水が予約してくれていた駅にほど近いカラオケ屋の個室に入った。
律は考えてみたこともなかったけれど、ここは案外、密談に向いている。室内は防犯カメラが作動しているだろうけれど、別に歌を歌っていないからといって注意されることもない。喫茶店なら、どうしても周囲の人たちの目や耳が気になってしまうから、これはいい考えだった。
ワンドリンクと適当につまむものを注文し、それが届くまでの間、清水はほんの申し訳程度に最近の流行歌を流した。だが、マイクには手をつけない。
「歌わないんですか?」
「あ、いや。遠慮するよ」
「……どうしてです?」
「うーん」
言って清水は鼻の脇をちょっと掻いた。
「素晴らしい歌人の前で不細工な歌を歌うだなんて、滅相もない気がして」
「……ふふ」
「滅相もない」だなんて。すっかりあの時代のことを思い出して、今ではこの人もかなり影響されてしまっているらしい。
「ん、なに?」
「あ、えっと」
先日のように、今度は座った姿勢からちょっと上体を傾けて顔を近づけられてしまい、律の心臓ははねあがった。慌てて顔をそらし、バックパックを探るふりをする。
「は、ハンカチ。ありがとうございました」
「ああ、うん」
ハンカチを手渡したタイミングで、店員が飲み物と食べ物を運んできた。
扉が閉じられ、お互いひと口ずつ飲んで喉をうるおす。
「……さて。ええと、それでなんだけど」
「はい」
「実朝さま……青柳くんは、前世のことってどれぐらい覚えているの?」
「前にも言いましたけど、わりと俺の記憶って穴だらけなんです。『吾妻鏡』で書かれていることも、知らないことがかなりあって」
「ああ。父上は鎌倉殿に何も言わずにあれこれやった部分も多かったですもんね」
「そうだったみたいですね」
「ええ。あんまりやることがひどいので、あの頃はしょっちゅう父と衝突していました、俺も」
彼が「父上」と呼ぶのは第二代執権義時のことだ。実朝の兄で第二代鎌倉将軍となった頼家を追いやり、彼の後ろだてとなっていた比企氏を皆殺しにした黒幕は彼だった……というのが例のドラマでの解釈だった。けれど、確かにそういうことをしかねない、底の知れない暗い瞳をした男だったように思う。あの天真爛漫で勇壮な気質の母、政子の弟だとはちょっと信じられないぐらいだ。
しかし母上はおっしゃっていた。「昔はあの子も、あんな風ではなかったのに」と。鎌倉という場所で始まった武家による権力の中枢で、いろんなことがもつれあい、はじかれあい、弱かった者、足をすくわれた者から滅ぼされていった。血のつながった者同士の間で起きたその血みどろの争いの中心に、かの執権は座っていたのだ。若いころから比べて人格がひどく変貌してしまったとしても無理はない。
彼はその後も、鎌倉幕府のためにともに戦ってきたのであろう戦友とも呼べる人を、次々にその手で死なせることになったのだし。
自分だって、あの争いに巻き込まれてしまった一人だ。
そうして最後には、自分の実の甥によって命を絶たれた──。
「あの、青柳君。……律くん。実朝さま?」
「えっ。あ、ごめんなさい。ぼうっとして」
「いや、いいんだけど。大丈夫かい? 真っ青だよ」
「だ……大丈夫です」
慌てて手元のアイスティーをごくごく飲んだ。
「ええとね、青柳くん」
「はい」
「ずっと考えていたんだけど。俺……いや、私はあなた様に、きちんと本当のことをお伝えすべきなんじゃないかと」
「えっ?」
「『吾妻鏡』は一応歴史書ではありますが、飽くまでも鎌倉幕府がのちの時代に編纂したもので……つまり、幕府にとって都合の悪いことはぼかしてあったり、肝心なことを敢えて書いていなかったりするものですから」
「あ、ああ……なるほど」
「実朝さまがお亡くなりになったあと、また生きておられた間にも、お耳に入らなかったことはたくさんあります。そういうことを、自分がわかる範囲ででもお知らせするのが筋ではないかと思いまして」
「うーん……」
この人は、またあっさりと昔のような話し方に戻ってしまって。
かつて、さばけた直衣姿でそこらを散策したり巻狩りをしたりしていたとき、またすがすがしい若武者姿であったときのこの人の姿が瞼の裏にありありとよみがえって、律の喉は急に苦しくなった。
わが恋は 夏野のすすき 繁けれど 穂にしあらねば 問ふ人もなし
『金槐和歌集』414
大学の最寄り駅からふたつほど離れた駅の改札である。これは清水の提案だった。あまり大学の近辺で落ち合ってしまうと、また要らぬ邪魔が入りそうなのを心配したのだろう。
あの笹原なぎさでないとしても、ほかのサークルメンバーの目に留まらないとも限らない。そうなると何かと面倒だ。これは律も同意見だった。
清水は約束の時間ぴったりぐらいに現れた。
「ごめん、待った?」
「いえ、俺もひとつ前の電車だったので」
「そう。待たせてごめんね」
後期が始まったばかりの時期とはいえ、町に滞留する空気はまだなんとなく蒸し暑かった。都会は人が多いので、人いきれがひどいからでもあるかもしれないけれど。
そのまま、清水が予約してくれていた駅にほど近いカラオケ屋の個室に入った。
律は考えてみたこともなかったけれど、ここは案外、密談に向いている。室内は防犯カメラが作動しているだろうけれど、別に歌を歌っていないからといって注意されることもない。喫茶店なら、どうしても周囲の人たちの目や耳が気になってしまうから、これはいい考えだった。
ワンドリンクと適当につまむものを注文し、それが届くまでの間、清水はほんの申し訳程度に最近の流行歌を流した。だが、マイクには手をつけない。
「歌わないんですか?」
「あ、いや。遠慮するよ」
「……どうしてです?」
「うーん」
言って清水は鼻の脇をちょっと掻いた。
「素晴らしい歌人の前で不細工な歌を歌うだなんて、滅相もない気がして」
「……ふふ」
「滅相もない」だなんて。すっかりあの時代のことを思い出して、今ではこの人もかなり影響されてしまっているらしい。
「ん、なに?」
「あ、えっと」
先日のように、今度は座った姿勢からちょっと上体を傾けて顔を近づけられてしまい、律の心臓ははねあがった。慌てて顔をそらし、バックパックを探るふりをする。
「は、ハンカチ。ありがとうございました」
「ああ、うん」
ハンカチを手渡したタイミングで、店員が飲み物と食べ物を運んできた。
扉が閉じられ、お互いひと口ずつ飲んで喉をうるおす。
「……さて。ええと、それでなんだけど」
「はい」
「実朝さま……青柳くんは、前世のことってどれぐらい覚えているの?」
「前にも言いましたけど、わりと俺の記憶って穴だらけなんです。『吾妻鏡』で書かれていることも、知らないことがかなりあって」
「ああ。父上は鎌倉殿に何も言わずにあれこれやった部分も多かったですもんね」
「そうだったみたいですね」
「ええ。あんまりやることがひどいので、あの頃はしょっちゅう父と衝突していました、俺も」
彼が「父上」と呼ぶのは第二代執権義時のことだ。実朝の兄で第二代鎌倉将軍となった頼家を追いやり、彼の後ろだてとなっていた比企氏を皆殺しにした黒幕は彼だった……というのが例のドラマでの解釈だった。けれど、確かにそういうことをしかねない、底の知れない暗い瞳をした男だったように思う。あの天真爛漫で勇壮な気質の母、政子の弟だとはちょっと信じられないぐらいだ。
しかし母上はおっしゃっていた。「昔はあの子も、あんな風ではなかったのに」と。鎌倉という場所で始まった武家による権力の中枢で、いろんなことがもつれあい、はじかれあい、弱かった者、足をすくわれた者から滅ぼされていった。血のつながった者同士の間で起きたその血みどろの争いの中心に、かの執権は座っていたのだ。若いころから比べて人格がひどく変貌してしまったとしても無理はない。
彼はその後も、鎌倉幕府のためにともに戦ってきたのであろう戦友とも呼べる人を、次々にその手で死なせることになったのだし。
自分だって、あの争いに巻き込まれてしまった一人だ。
そうして最後には、自分の実の甥によって命を絶たれた──。
「あの、青柳君。……律くん。実朝さま?」
「えっ。あ、ごめんなさい。ぼうっとして」
「いや、いいんだけど。大丈夫かい? 真っ青だよ」
「だ……大丈夫です」
慌てて手元のアイスティーをごくごく飲んだ。
「ええとね、青柳くん」
「はい」
「ずっと考えていたんだけど。俺……いや、私はあなた様に、きちんと本当のことをお伝えすべきなんじゃないかと」
「えっ?」
「『吾妻鏡』は一応歴史書ではありますが、飽くまでも鎌倉幕府がのちの時代に編纂したもので……つまり、幕府にとって都合の悪いことはぼかしてあったり、肝心なことを敢えて書いていなかったりするものですから」
「あ、ああ……なるほど」
「実朝さまがお亡くなりになったあと、また生きておられた間にも、お耳に入らなかったことはたくさんあります。そういうことを、自分がわかる範囲ででもお知らせするのが筋ではないかと思いまして」
「うーん……」
この人は、またあっさりと昔のような話し方に戻ってしまって。
かつて、さばけた直衣姿でそこらを散策したり巻狩りをしたりしていたとき、またすがすがしい若武者姿であったときのこの人の姿が瞼の裏にありありとよみがえって、律の喉は急に苦しくなった。
わが恋は 夏野のすすき 繁けれど 穂にしあらねば 問ふ人もなし
『金槐和歌集』414
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