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第一章
9 秋風に
しおりを挟む「あっ……青柳くん? 大丈夫?」
「……あ」
言われてやっと上げた自分の目から、勝手にはらはらと熱い雫が転がり落ちていることに気づいたのは、数秒後のことだった。
「あっ。ご、ごめんなさい。大事な本を」
「いや、それはいいんだけど」
開いたページに涙のしみでもついていたら大変だ。律は慌ててハードカバーの本を清水の手に戻した。恥ずかしくて、そのまましばらく片手で目元を覆ってうつむく。
(……だめだ。こんなんじゃ)
しかし、前世の自分が学び苦しみながらも大切に編み、あの偉大な歌の先生でもある藤原定家さまへ差し上げたものが、いま現代の印刷技術でもって活字となり、多くの人の目に留まるようになっているのを思い知るというのは、もう衝撃としか言いようがなかった。
おそらくは定家先生がまずは高くご評価くださり、その後あちらこちらで多く写本されていったのだろう。これはもう、さまざまな時代を経てもこの時代まで残してくださった多くの方々の尽力があってこそのものであろう。そう思うと、もうなにがどうなったのかと思うほどに涙腺が言うことをきかなくなったのだ。
清水は見かねたのか、青いチェックのハンカチを差し出してくれた。少しためらったのちそれを受け取り、目の雫をぬぐいつつ、律はしばらく声を殺してしゃくりあげていた。
やがて穏やかな彼の声が耳朶に届いた。
「さすがは実朝さまです。自分のような坂東の武辺者にはわずかにもわからぬことではありましたが、まことにすばらしいご歌集でしたものね」
「……ありがとう」
言ってしまってから「また、この人は言葉が戻ってる」と少しおかしくなった。まだ涙は止まらなかったが、くすくす笑ってしまう。清水は「あ」とだけ言い、変な顔になって頭を掻いたようだった。
と、建物のある方から突然、甲高い声がした。
「あっ。ここにいたんだ。探したじゃない!」
女の声とともに、軽い足音がリズムよく近づいてくる。清水が急に慌てたようだった。
「えっ。な、なんだよ。なんでここが」
「そこは女の勘よ。ほらこれ、大島くんが返しといてって」
さばさばした口調にふさわしく、肩までの癖のある茶色い髪と強い光を放つ瞳をもつ女性だ。涼しげなカットソーと軽快なパンツスタイル。「ああ、うん。ありがと」などと言いつつ授業のノートらしきものを受け取りながら、清水がなんともいえない気まずそうな表情になっている。
なぜか律の胸が、ちくりと音をたてた気がした。
(なんだよ……これ)
いやな予感がして、律はなんとなく、そして急に、このままこの女性と会話を続けるのが億劫になった。そもそも第一声からして、あまり律とそりの合わなそうな女子なのである。
昔から、律はこういう、気が強くて言葉も態度も強そうな女性が苦手だった。できればあまりお近づきにはなりたくないタイプの人だ。
いやな予感というのは当たるものである。
それからすぐ、律は気づいてしまったのだ。彼女がいま現在、清水の「彼女」つまり恋人である──という事実に。
それから簡単に清水が紹介してくれて、件の女性が笹原なぎさという名だということがわかった。清水と同じ二回生。
「ふーん、青柳くんね。……で、なあに? こんな所でコソコソと。サークルの新メンバーとか?」
「ちがうって」
「あら、じゃあなんなのよー」
「ちょっと大事な話をしてたんだよ。用が済んだなら、先いっててくれないかな」
「ふうん……?」
(えっ)
その瞬間。
一瞬だけ、ちらりとこちらを見た彼女の視線。
そのあまりの冷たさに、律の背中がびくんと凍った。
秋風に なびくすすきの 穂には出でず 心乱れて ものを思ふかな
『金槐和歌集』379
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