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6,傷心の血汐

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 その日、テーブルの上にはナイフしかいませんでした。

 フォークとナイフは、けんかをしてしまったのです。

「ナイフ、やっぱり魔法使いのところへ戻ろう」
「でも、ここでもっと働きたいよ。拾ってくれた人間に、まだまだ恩返しがしたいんだ」
「そんなにここにいたいなら、君だけここに残ればいいさ!」
「なんてひどい事をいうの!」
「でも、君だけじゃ無理だろうね」

 フォークは何かを思い出したように、くすくすと笑いました。

「どうして?」
「だって、切ることしかできないじゃないか。僕がいないと、使ってもらえないのさ」

 これにはナイフも黙っていません。

「そんなことないよ。僕一人だって、仕事できる。そんなに言うなら、このテーブルから降りて見てればいいよ!」

 ナイフはそっぽを向いてしまいます。

「ふーん、なら奥で見ててあげるさ。でも、君しかいないこの席には、誰も座らないよ!」

 フォークはそう言って、調理場の奥へ入ってしまいました。
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「龍樹、ちょっと散歩しない?」

 九月の上旬。夕食の予定もないのに、心音が呟いた。

「何か、食べに行くか?」

 彼女は何も言わずに、薄い上着を羽織って外に向かった。
 後に付いていくと、近所の小さな公園にたどり着く。
 夕焼けに照らされる紅葉が、風に揺れていた。さらさらと、軽やかな音が駆け抜けていく。
 彼女の後ろ髪も、風になびいていた。

「明日の夜さ、出て行くね」

 言葉の意味が理解できなかった。

「大事な物だけ持っていくから、残ったもの捨てていいよ」
「何……言ってるんだよ」
「また、私からになっちゃったね」
「どうして、どこに行くんだよ」
「少し離れた場所。それ以上は……教えない」

 俺は、夏に和食を食べたいと言っていたことを思い出す。

「やっぱり、遠慮して……いいんだ、心音の好きな物を食べに行こう。今からでも!」

 彼女の腕を掴むと、心音は俺の手を振り払った。

「そうじゃないの!」

 心音は沈んでいく夕日を見つめる。

「そうじゃなくてね、龍樹と食べる料理が……最近美味しくなくて」
「……え?」
「だって、料理なんて関係無しに、難しい顔してワインとにらめっこしてるだけなんだもん」
「それは、テイスティングの試験が近いから!」
「うん、分かってるよ。あんなに興味なさそうだったのに、今は本気なんだもんね。嬉しいよ、私」

 振り返った心音は、ぎこちない笑顔を浮かべていた。

「でもさ、美味しくない食事をしてると、絵本が書けないの。だから、ごめんね」

 どうにかして彼女を引き止めよう。そう思っても、言葉が出てこなかった。

 その後の事はよく覚えていない。
 翌日、仕事には出かけたと思う。どんなお客様が来店して、自分がギャルソンとして何を説明したのか、一つも覚えていなかった。

 どこか夢のように思っていた。
 昨日の事はただの夢で、家に帰れば心音が夕食を用意して待ってくれている気がした。

 鍵を回して、家に入る。
 靴や、書斎にあった仕事道具、服、保険証や免許証、心音の物が家からなくなっていた。
 当然、テーブルの上には何もない。

 崩れるように椅子に座り、一時間ほど天井を見上げていた。

 何かに動かされるように、ふらふらとキッチンに向かう。
 ワインセラーから適当にワインを取り出す。ルビーポートだった。
 ソムリエナイフのスクリューを回し、コルクを開ける。そのまま、ボトルを咥えるようにして、呼吸もせずに四分の一ほどの量を一気に飲み干した。
 咽るようにボトルを口から離す。
 目頭と頭の奥が急に熱を帯びて、破裂しそうなほど鼓動が速くなった。

 足から力が抜け、自立しない人形のように、後ろに倒れこんだ。
 食器棚に後頭部をぶつけると、心音と使っていたお揃いの食器が滑り落ちてきて、足元で弾けた。

 衝動的に、食器棚を拳で殴りつける。手の骨が砕けたのではないかと思うほど鈍い音が鳴った。
 心と胸が、押しつぶされたように苦しい。

 揺れた棚から飛び出したワイングラスが、割れた食器の上に落ちる。鼓膜をつんざくような衝撃が部屋に響く。ガラスの破片がキッチンに散らばった。

 爪の間から血が出ていた。
 俺はもう一度ルビーポートをラッパ飲みする。
 酒を流し込みながら視線を上げると、流しにステーキナイフが出たままになっていることに気が付いた。

 俺は流しにしがみつくようにして立ち上がる。
 ステーキナイフの刃には、やつれた表情で顔を真っ赤にしている自分が映った。

 視界が歪んで、意識が飛びそうになる。排水溝に顔を近づけると、生ゴミの臭いが漂ってきた。俺は嘔吐する。喉が焼き切れるように痛い。

 ステーキナイフを両手で握る。楽になりたかった。
 俺はシャツの上から、左胸にナイフを刺しこむ。
 これまで感じたことのない痛みが襲い、慌ててナイフを引き抜いてしまった。

 崩れるようにキッチンに仰向けになる。
 温かい液体が、胸から溢れ出していた。
 消毒しなくてはいけないという考えがよぎって、傷口にワインをぶちまけた。
 直火で胸を焼いているかのような熱に喘ぎながら、俺は目を閉じた。
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