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第二部 四季姫進化の巻

第十八章 夏姫進化 3

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 三
 榎たちが、再び戦う姿勢を取り戻した直後。
 悪鬼の口から、激しい咆哮が放たれた。
 その声が、鬼閻のものなのか、響のものなのかは、分からない。
 ただ、苦しみを伴った、悲痛な叫び声に聞こえた。
 その声に、榎たち以上に反応した者がいた。
 ――萩だ。
 祭壇の端で、あらゆる刺激に耐えられなくなり、気を失っていたはずの萩が、突如として意識を取り戻した。
 よるめきながら立ち上がり、ゆらゆらと覚束ない足取りで、歩き出す。
 向かう先は、榎たちの正面――鬼閻の足元だ。
 萩の瞳は、濁りながらも真っ直ぐに鬼閻を見つめていた。
 口は微かに動き続け、小さな声で、延々と何かを呟いている。
 その唇の動きから、ずっと響の名前を呼び続けているのだと気付いた。
「萩、近付くな! そいつはもう、いつもの響さんじゃないんだ」
 鬼閻の力を制する本能は残っていても、おそらく理性までは残っていない。きっと、目の前の少女が萩だとは、理解できていないだろう。
 必死で守り抜こうとした萩の命を、響の手で奪うなんて、悲しすぎる。絶対にさせたくない。
 榎は慌てて、萩を引き止めた。だが、萩は榎の腕を振り払い、萩はまっすぐ、迷いもなく鬼閻の前に立ち塞がった。
 呆然とした瞳で、萩は鬼閻を見上げる。鬼閻も、虚無を湛えた漆黒の目で、萩を見下ろした。
 二人の悪鬼の視線が、ぶつかりあう。後を追いかけて萩の背後に駆け寄った榎だったが、威圧感に満たされた空間には近付けなかった。
 鬼閻は激しい唸り声を上げ、腕を振り上げた。
 鋭い爪は、確実に萩に狙いを定めている。頭上に翳された腕を見上げても、萩は微動だにしない。
 榎も、足が竦んだ。
「萩、逃げるんだ! 早く!」
 榎の声なんて、きっと届かない。わかっていても、叫ばずにはいられなかった。
 鬼閻の腕が、萩の頭上目掛けて振り下ろされた。
 反射的に、榎は目を閉じて顔を逸らした。萩の体が切り裂かれる想像の光景が脳裏に焼き付き、全身を震えさせた。
 鋭利な鬼閻の爪が、柔らかい肉に食い込む音が響く。
 だが、断末魔の悲鳴は、聞こえなかった。
 萩は、声一つ立てる余裕もなく、鬼閻の餌食になったのだろうか。
 呼吸を整え、瞼を開いた。
 榎の視界に、奇妙な光景が広がっていた。思わず、呼吸さえもを忘れた。
 鬼閻は、振り下ろした右腕を、左の腕で突き刺して、動きを止めていた。
 位置は、萩の頭上すれすれで止まっていた。
 突き刺した大きな傷口から、血が滴り落ちる。赤い雫は萩の顔を濡らした。
 鬼閻が、己の動きを自ら制止させるなんて。
 榎も、萩と同様に、呆然と立ち尽くすしかできなかった。いや、その場にいる、同じく奇妙な光景を目の当たりにした全ての人が、微動だにせず鬼閻の腕に釘付けになっていた。
「ニ……ゲロ。モウ、抑エキレナイ……」
 鬼閻の、耳元まで裂けた口から、弱々しい声が発せられた。
 かつて、榎を、四季姫たちを呪った、おぞましい鬼閻の声ではない。
 よく聞き慣れた、青年の声だった。
「鬼蛇か!? まだ、喋れるくらい意識を保っとるんか」
 柊が声を張り上げる。その場にいた、声を聞いたみんなが気付いた。
 声の主は、鬼蛇―?響であると。
 暴走する鬼閻の魂を、内側から押さえ付けて、動きを制している。
「心身を乗っ取られた状況で、すごい精神力どす」
 まだ、萩を認識して、逃がそうとしている。
 響が萩に向ける強い意志に、榎の心は強く打たれた。
 だが、次第に押さえ付ける腕の力が弱くなっていく。
 既に響の抑止力は、限界に達していた。鬼閻の力が強くなり過ぎている。
「萩……逃ゲロ」
 まるで遺言みたいに、弱々しく萩に語りかける。響の、最期の願いだ。
 響が全てをかけて守ろうとしている、萩の命。
 榎も、叶うなら萩だけでも救い出したい。
 だが、萩はその場から一歩も動こうとはしない。鬼閻から、目を反らそうともしない。
 逆に、萩の瞳に闘志の光が宿りはじめた。
「響、まだ、いる……。響、響、ひびき……」
 何度も名前を呼び続ける。だがもう、既に響の声は、返ってこない。
 意識が再び、鬼閻に支配されたのだろう、鬼閻は右腕に刺さった左腕を引き抜き、再び萩に向かって攻撃を繰り出した。
 その一撃を、萩はさらりとかわした。軽く地面を蹴り上げた。
 さらに振り下ろされた鬼閻の腕へ、肩へと身軽な動きで足をかけ、鬼閻の頭上にまで飛び上がった。
「萩!? いったい、どうするつもりだ!?」
 萩の動きの意味が読み取れず、榎は空を仰ぎながら目の前の光景を凝視するだけで精一杯だった。
「響を返せ!」
 萩は手に握った、折れた鎌を振りかざし、鬼閻の脳天めがけて振り下ろした。
 かなりの衝撃が加わったらしく、鬼閻は悲鳴を上げて、体制を崩す。
 その隙を逃さず、萩は素早い切り返しで連激を加えていく。
 だが、殺傷能力のほとんどを失った鎌では、強固な悪鬼の体には切り傷一つ付けられず、弾き返された。
「無茶やろ、あんな壊れた武器で」
「やめるんだ、萩! お前じゃ敵わない。命を張って助けてくれた響さんのためにも、逃げてくれ!」
 榎は、鬼閻が怯んでいる隙に、萩を引き離そうと駆け寄った。
「うるさい。軟弱な四季姫どもは、下がって指でも咥えていろ……」
 榎の言葉になど耳も貸さず、萩は体勢を整え直して、再び武器を構えた。
「響は、アタシを助けるために、奴らに騙された。アタシを庇って、あいつに食われた。悪鬼だろうが何だろうが、アタシの邪魔をする奴は許さない! 響を返せ!」
 萩の言葉に、榎は伸ばした腕を引いた。
 急に、恥ずかしさと情けなさが込み上げてくる。
 萩は、まだ諦めていない。響が助かると信じて、助けるのだと真剣に、悪鬼に立ち向かおうとしている。
 なのに榎は、もう響は元には戻らないものと勝手に諦めて、逃げる方法ばかり考えはじめていた。
 椿が戦えなくなり、時間を稼ぐ余裕がなくなったせいで、完全に心が折れかかっていた。
 諦めてはいけない。響を、萩を放っておくわけにはいかない。どんなに不利な状況であっても、絶対に、見捨てたくない。
 榎は剣を握り直し、萩の隣に立った。
 榎の姿を見て、何か文句を言おうとしてきた萩よりも先に、声を張り上げた。
「加勢する。響さんを助けるんだ。お前の手で!」
 萩は一瞬、茫然とした表情を固まらせていた。なぜ、榎が響を助けようとするのか、わかっていない様子だった。
 やがて、憤りの感情が勝ってきたのか、萩は怒りの形相で榎に怒鳴り付けた。
「――いまさら、何だ。同じ力を持っているわけでもない、同じ存在でもない。もう、理解している。アタシは、四季姫じゃないんだ! お前たちと戦う理由も意味も、最初からない! 馴れ馴れしく、アタシの隣に立つな!」
「四季姫とか悪鬼とか、関係ないだろう!? 今度こそ、目的が同じなんだから、力を合わせればいいんだ! 協力しなければ、響さんは救えない。お前のプライドと響さんの命と、どっちが大事なんだ!」
 榎も負けじと、怒鳴り返した。
 もう、以前みたいに萩の剣幕に臆しはしない。
 萩は仲間でも裏切り者でもない。ただの、ひとりの人間の弱い心が生み出した、強がりの権化だ。
 もう、怖れない。全てを受け入れる。
 榎が心から大切に思う、愛する人の分身だから。
 必ず、助けて見せる。
 今度は、萩が榎の勢いに圧されて、黙り込んだ。返す言葉が見つからないのか、動揺していた。榎の声に呼応して、三人の四季姫たちも、萩を取り囲んで鬼閻に向かい合った。
 柊が萩を横目に睨みつけながら、小さく舌を打つ。
「別に、そいつを助けるつもりなんかないで。鬼閻を完全に倒せんかった失敗を、清算するだけや」
 楸も柊の隣で、少し表情を歪めながらも微笑んだ。
「昔の私なら、秋姫を名乗り好き勝手してきたあなたを、許せんかったかもしれません。けど、今は事情が変わりましたからな」
「戦うなら、〝あなた〟として戦えばいいのよ。偽物の四季姫の力なんかに、頼らないで」
 榎の側で、椿も萩に向かって語りかけた。
 周囲から声をかけられ、萩は黙り込んで、俯いた。
 反論して、罵声を飛ばす真似は、もうしない。無意味だと気付いたのだろう。
「アタシは、秋姫なんかじゃない。もっと、別の存在――」
 一人、特別な四季姫なのだと、虚勢を張る必要はない。
 ありのままの姿でいればいい。
 萩はもう、ちゃんと分かっていた。
 表情にも、瞳にも、迷いはなかった。
「アタシは、響と同じだ。同じ、悪鬼なんだ!!」
 萩が萩自身の存在を受け入れた瞬間。
 漆黒の風が巻き起こり、萩の体を包み込んだ。
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