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第二部 四季姫進化の巻

第十六章 伝記顛覆 2

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 二
「綴さんが、萩を創った……?」
 響の話を聞き終えた榎は、よく分からないままに呟いていた。
 榎の考えが纏まる前に、響は続けて口を開いた。
「あの男には、そういう特殊な力が備わっているのだそうです。悪鬼の血を受け継いできた、伝師一族にしかできない荒業でしょう。過去にそんな事例があったかどうかは、分かりません。あの男が初めてやらかした、禁忌とも呼べる行為だ。人間が悪鬼を一から生み出すなんて、あってはならないし、恐ろしい」
 響は微かに身震いし、表情を苦痛に歪めた。本当に恐怖を覚えているのだと、伝わってきた。
 常識では在り得ない方法で、綴によって萩は創り出された。その事実を受け入れられたが、その行動そのものに恐ろしさや悪意があるとまでは、榎には思えなかった。
「でも、萩を生み出した出来事は、綴さんにとっても予期しなかった偶然かもしれない。突然だったから、何も分からずに、誤った対応をしてしまったのかも」
「想定外の出来事だったとしても、あの計算された冷静さと残酷な行動は、異常だ。伝師綴は、自らが生み出した何も持たない悪鬼に、滅茶苦茶な人格を与えて、その命さえもを弄んだ。許される行為ではありません。事故や悪ふざけなんて、生易しい言葉では片付けられない」
 榎の反論など歯牙にもかけず、響は綴の行為に嫌悪の感情をぶつけた。それ以上何も言い返せず、榎は圧されて黙り込んだ。
 今回の出来事や悪鬼についての知識は、響のほうが断然、詳しい。怒り任せに相手を責めている風でもなく、いたって冷静に事実を見据えて出した結論なのだと、伝わってきた。榎も、否定する要因が見つからなかった。
 だが、一連の綴の行動に、悪鬼に対する悪意があったとまでは、断定できない。
「どうして綴さんは、萩に秋姫なんて、具体的な設定を与えたんだろう。本当に、四季姫の覚醒を妨害したかったのか? だったら、なぜ……」
 どんな理由で、四季姫の躍進を邪魔しなければならなかったのだろう。
 全ての事情を把握しようと、榎は躍起になっていた。とにかく、想像力をフルに働かせて、綴の本心を探り出したかった。
 だが、榎の知る、四季姫の活躍を心配しながら応援してくれる綴と、四季姫の使命を陰から邪魔しようとする綴のイメージが、さっぱり重ならなかった。
 響は鼻を鳴らし、困っている榎に鋭い視線を向けた。
「理由なんて、いちいち訊いている余裕もありませんでしたよ。だが、あの男の性格から察するに、あなたたち四季姫に対して、何らかの干渉を行うためだったという可能性は、充分に考えられる。それも、良い動機だとは私には思えませんがね」
 榎の胸は嫌な予感を抱き、激しく高鳴った。
 響の考えは、概ね正しい気がする。
 萩は、偽の秋姫として、榎たちの前に現れた。四季姫の統率を乱し、分裂させようとした。挙句の果てには榎さえもを手に掛けようとした。
 その行動全てが萩の意志ではなく、綴が騙して命じたものだとしたら。綴の目的は、やっぱり――。
 嫌な想像に、意識が遠退きそうになった。
 その時、テントの中から悲鳴が聞こえ、かろうじて正気を保てた。
 我に返って目を向けると、テントの入り口から、萩の腕が突き出していた。酷く痙攣していた。
「お姫さまが、お目覚めだ」
 響は速足で、テントの中に滑り込んだ。榎に背を向けていて見えなかったが、中で萩を抱き寄せて、背中を擦っているらしい。
「記憶を、消さないで……。何でもするから」
 萩の悲痛な声が、外にまで漏れてくる。弱々しく、震えた声だった。
 何度も何度も、同じ台詞が繰り返される。耳の奥に入り込んでくるたびに、榎の心は締め付けられて、涙が出そうになった。
「大丈夫、あなたを苦しめたりしませんから。心配しないで」
「早く、戦わなくては。秋姫に、ならなくては……」
 長く譫言を呟いていたが、響が根気強く声を掛けて宥めると、やがて発作は治まり、萩は再び大人しくなった。
 萩を寝かせ直して外に出てきた響の表情は、疲れきっていた。
「完全な人間とは、何なのでしょうね。根拠のない希望にしがみついていなければ、この娘はもう、まともに生きていられないのでしょう」
 萩は、綴に見限られた今でも、秋姫として綴に命じられた使命を全うすれば、人間になれると信じている。
 悪鬼は、人になりすませても、完全な人にはなれない。榎でも理解できる事実が、萩には理解できないのだろう。
 この先、誰がどんな言動で否定しようとも、萩は決して、真実に耳を貸しはしない。
 萩の心が変わらなければ、萩は救えない気がする。
 絶望的な状況に、榎はいたたまれなくなった。
「どうするにしても、あまり時間がないので、私なりに最善を尽くしてみるつもりです」
 こんな最悪な状況でも、響はまだ、諦めていなかった。
 響の前向きな言葉に、榎の追い詰められた気持ちも、いくらか和らいだ。
 まだ、諦めずに足掻いている者がいるのだから、榎が一人で諦めて落胆している場合ではない。
「萩が無事に助かるように、あたしも協力する。助けになれそうなら、何でも言ってくれ」
 力になりたい。榎は嘆願を込めて気持ちを伝えた。
「あなたが萩に討たれれば、少なくとも萩は満足すると思いますけれど?」
 あっさりと解決策を述べられ、榎は息を詰まらせるしかできなかった。
 あくまで、今の萩の標的は、四季姫―?特に、榎なのだから。
 敵視されている人間にできる協力なんて、倒される以外にないのだろうか。
「まあ、結果的に何の解決にもならないんですけどね。あなたのお気持ちだけ、受け取っておきましょう。悪鬼の領域内では、人間の力なんて何の役にも立ちませんから」
 真剣に考え込む榎を見て、響は軽い調子で笑った。
 榎がまだ口を開こうとすると、テントの中から再び、呻き声が聞こえた。榎の声に反応しているのか、口を閉じると、萩の声も静まった。
「君が近くにいると、あのお姫さまは眠っていても落ち着かないらしい。今日のところは、お引き取り願えますかね」
 テントの奥を見つめながら、響は言った。
 話し合いは、お開きだ。
 テントの中から、萩の手が伸びてくる。響は優しく、その手を握った。萩の手は強く強く、響の手を握り返した。
 その手と手の繋がりが、とても強い絆なのだと、榎は実感した。
「……萩は、お前に心を許しているんだな」
 あの、誰に対しても残酷で、心の隙を見せなかった萩が、不思議と響にだけは懐いている。響に、救いを求めている。今までの立ち振る舞いを見てきた榎にしてみれば、信じられない光景だった。
「記憶を消すなんて、残酷なことを言ったのにね。それでもまだ、私に縋ってくれるらしい。弱っているところに、付け込んでしまったのかもしれませんね」
 響も本心は、榎と同じらしく、少し困惑していた。萩に接触して、関わり続けてきた今までの時間に、罪悪感さえ抱いている様子だった。だが、その優しさが、萩の凍った心を溶かしたのだと、榎は思う。
「響さんの親切が、萩にもちゃんと伝わっているんだよ」
 榎では、駄目だった。物事に深くとらわれず、温厚で懐の深い響だったからこそ、萩は素直に身を任せられた。榎の器の大きさは、響には到底、敵わなかった。
 少し寂しい気分でもあり、それでも萩に心の拠り所ができたのなら、嬉しかった。
「あたしの力では、萩の心を開くなんて、絶対に無理だった。あなただから、できたんだ」
「だと、嬉しいんですけれどね」
 素直に意見を述べると、響は少し照れ笑いを浮かべていた。
 萩を労わる響の姿は、気持ちや感情は、人間の持つものと何ら違いない。
 去り際に樫男が言っていった発言の意味が、分かった気がする。榎はやっと、悪鬼に対して大きな偏見を持っていたのだと気付いた。
 人には人の、悪鬼には悪鬼の価値観や考え方が存在する。それぞれの言い分を主張して、押し付ける真似はしてはいけない。人間同士にも言えることなのだから、相手が悪鬼なら、尚更だ。
 下手に口を挟まないほうが、いいかもしれない。萩の件は、全て響に任せようと思った。
「あなたはこれから、どうするつもりです?」
 帰ろうと踵を返した直後、響が背中に語りかけてきた。
 榎は立ち止まって、首を回して横目に響を見た。
「綴さんに、会いに行く。綴さんの口から、萩に秋姫の人格を与えた理由を、詳しく聞きたい」
 響から全ての話を聞いた結果、導き出された答だ。
「何が正しいのか、まだ、決められないんだ。あたしは、全てを見たわけじゃないから」
 勝手に憶測を並べ立てて悩んでいても意味がない。
 綴に直接尋ねる。真相を知る、一番確実な方法だ。
 榎の決断に、響は少し難色を示した。
「私は、あまりお勧めできませんがね。綴くんが、あなたにとってどんな存在であり、今までどんな接し方をしてきたのか知らないが、あなたの心酔っぷりを見ると、相当、紳士的な態度を見せてきたのでしょう」
 綴を語る時の響の表情は、いつも怒りや苛立ちに歪む。今もまた、嫌悪を露わにしていた。
 同時に、榎の身を案じてくれているらしく、不安の色も浮かべた。
「萩との接点が公(おおやけ)に知れた今、あの男の化けの皮が、徐々に剥がれつつある。あなたも、今までと変わらず接していると、寝首を掻かれるかもしれませんよ」
 脅しにも聞こえる。響が導き出した真実なのだろう。
 榎は無言で対応した。
 忠告は有り難いが、今はとにかく、あらゆる先入観を捨てて、綴と向き合いたい。話がしたい。ただその一点に尽きた。
 榎の決意が伝わったのか、響はそれ以上、止めようとはしてこなかった。
「全ての真実を知った時、あなたが壊れずにいられるよう、祈っておきましょう」
 いちおう、応援してくれるらしい。
 榎は短くお礼を言って、山を後にした。
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