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第二部 四季姫進化の巻

十五章 Interval ~伝記完成~

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 綴が目を覚ますと、白い建物の天井が視界に入ってきた。
 呆然とする。
 なぜ、人工の建造物の中にいるのだろう。たしか、ほんの少し前まで、薄暗い森にいたはずなのに。
「お兄さま、お気付きになって?」
 妹の奏が、顔を覗き込んできた。
「僕は……いったい?」
「お兄さまは病院を抜け出して、山の中で気を失われたのですわ。今は病院に戻ってきております」
 意識がはっきりしてくると、奏の説明の意味も解り始めた。
 全てを把握した時、綴は一気に落胆した。
「病院……!? 最悪だな。結局、何もできずに、戻ってきてしまったのか」
 次に病院に戻ってくるまでには、悪鬼と何らかの決着をつけておきたかったのに。
 せめて、あの愚かな悪鬼を、始末してしまいたかったが、力が及ばなかった。
 それに、確か、予定外の妨害も割り込んできた。
 おぼろげに覚えている。綴の後を追いかけてきた榎の姿を思い出し、舌を打った。
「なにが最悪です! 戻ってこれなければ、お兄さまはどうなっていたか……。どうして、あんな無茶をなさったのですか」
 反省した態度を見せない綴に、奏は怒りを露にする。心配性の妹は、気を失った綴の容態が気が気でなかったのだろう。
 気持ちは有り難いが、安全な場所でぬくぬくと守られている余裕は、綴にはなかった。
「僕には、あと僅かしか、時間が残っていないんだ。全ての清算を、終えておくべきだったんだ」
「清算とは、何ですの? お兄さまと悪鬼との間に、何の関係があるのです!」
 怒られても歯牙にもかけない綴に、奏の我慢が限界に達したらしい。身を乗り出して、核心に迫る問いかけを突っ込んできた。
「僅かしか時間がないとは、どういう意味です? お兄さまはわたくしに、何を隠していらっしゃるのですか? お兄さまだけではありませんわ。お父さまも、お母さまも、わたくしに企業拡大の期待は懸けてくださっても、肝心の伝師一族の〝正体〟については、何一つ教えてくださいません。語でさえ、伝師の核心に繋がる、大事な任務を仰せつかっているというのに。まるで、わたくしだけが蚊帳の外で、全然関係ない仕事をさせられているみたいです」
 奏にとって、伝師の裏の一面を知らされていない現状は、非常に不服らしかった。以前は、表の会社で業績を上げる活動を続けているだけで、やりがいを感じて満足していたのに。
 四季姫たちと深く関わり過ぎたせいだ。奏は伝師の全体像について、気付き始めていた。
 奏は仲間外れにされていると感じて不満を零しているが、周囲が多くを語らない理由なんて、決まっている。
 知れば、後戻りができなくなる。奏は、一族の中で誰よりも大事にされている娘なのだから、取り返しのつかない場所に引っ張り込みたくないわけだ。
 誰よりも愛されていながら、不幸だと嘆ける境遇は、本当に羨ましい。
「お前は、一族の〝表の顔〟となる役目を担っているんだ。父親の血を、より強く受け継いだお前だからこそできる、大切な役割なんだよ。他の誰にも果たせない、重大な使命だ」
 綴は穏やかに、奏を諭した。
「母の血を多く受け継いだ僕や語は、〝裏の顔〟として一族を支えていく。表なくして、裏は存在しえないんだ。だから、お前にはしっかりしてもらわなくては」
 優しく話して聞かせると、奏は泣きそうな顔をしながらも、小さく頷いた。
「その通りだ、奏。他の何を差し置いても、お前は私のたった一人の娘だ。替えは利かないのだよ」
 病室の入り口から、声がした。視線を向けると、黒いスーツ姿の男が立っていた。
 伝師護。現在の、表の伝師を束ねる、実質的指導者。
 裏で陰陽師の力を使役する長とは異なる、伝師の支配者だ。
 綴はその男の姿を憎悪を込めて見つめ、目を細めた。
 護は、つかつかと歩み寄ってきて、奏の隣で綴を無表情に見下ろした。
 気に入らない男だ。その澄ました顔を見ているだけで、気分が悪くなる。
「小娘たちと遊ぶ時間は、もう終わりだ。この先どうするか、答は出たのか」
 淡々と、問いかけてくる。奏はよく分からないらしく、怪訝な表情だ。
 綴は眉を顰めて護を睨んだ後、呼吸を整えて口を開いた。
「もちろんです。僕の決意は変わらない。次の誕生日が来れば、僕は母さんのところに行く。母さんに変わり、裏の伝師を支える存在となる。――他の何人にも、この役目は譲らない」
 綴の言葉を聞くと、護は少し片眉を動かした。
「母さんには、語を通して既に伝えてありますよ。この決断は、たとえあなたの命令であっても、変えられない」
 綴は鼻で笑って見せる。
「……いいだろう。お前の好きにしろ」
 護は短く告げて、去っていった。
「お兄さまが、お母様に代わって、伝師の長になるのですね。わたくしの、お兄さまをお世話する役目は、終わるのですわね……」
 綴たちの話を聞きながら、奏は内容を察したらしい。少し寂し気に、呟いた。
「今まで、ありがとう。この先、進む道が違えても、僕らは兄妹だ。たった、三人の」
 綴は穏やかな気持ちで、妹に感謝の言葉を述べた。
 こんなに素直な言葉を吐き出したのは、初めてではなかっただろうか。
 綴自身、一番意外だった。

 * * *
 翌日の夕刻。
 綴は夢のなかで、現の光景を垣間見た。
 昨日、綴も足を踏み入れた、深い森の中。
 謎めいた悪鬼―?鬼蛇のいる、鬱蒼と茂る針葉樹林帯だ。
 その山道を、一人の少女が歩いていく姿を、ずっと見ていた。
 少女――榎の背中を見つめながら、次第に夢は覚め、綴は目を開いた。
「夏姫は再び、あの悪鬼の元に向かった、か……」
 きっと、綴が鬼蛇との間にどんな会話を繰り広げたのか、真相を確かめに行ったのだろう。
 鬼蛇――傘崎響が、榎に内容を隠す理由もない。全てを語り尽くすに違いない。
 やがて、真相を知った榎は、綴に疑いを持つ。
 綴の口からも真実を聞こうと、問い質しにやってくる――。
 もう、綴の行動の真意を、隠し立てはできない。
「そろそろ、潮時だな」
 護の言葉ではないが、四季姫たちと長々と遊んでいる時間は、なくなった。
 もう少し、時間を掛けて物語を練り込みたかったが、タイムアウトだ。
 綴はベッドの脇のチェストから、分厚い原稿用紙の束を掴んで、大きな茶封筒に入れて封をした。
 丁度良いタイミングで、奏がやってきた。
 綴は奏に、封筒を手渡した。
「奏。この原稿を燃やしてくれ。棄てるだけでは駄目だ、必ず焼却処分すること。絶対に、中身を読んではいけないよ。いいね」
 分厚い封筒を受け取った奏は、中身のおおよその見当がついたらしく、不思議そうに綴の顔を見ていた。
「榎さんをモデルにした、四季姫の物語でしょう? もう、完成なさっているのではないのですか? 燃やすだなんて……」
「その原稿は、没なんだよ。思い通りに書けなかったんだ。完成品は、ちゃんと別にあるから」
 綴はもう一つ、同じサイズの分厚い封筒を取り出して見せた。奏はまだ合点がいかない様子だったが、とりあえず納得して、処分を引き受けてくれた。
「この原稿は、榎ちゃんに、僕の手から渡したい。すぐに連絡を取りたいから、携帯を貸してくれるか」
「そんなにお急ぎにならなくても、次の金曜日にお渡しになったら」
「残念だが、時間切れだよ。金曜日まで待つ余裕はないんだ」
 綴が催促すると、奏は携帯を貸してくれた。登録されている、榎の番号にかける。
 その間に、奏は売店にでも行ったのか、部屋から去った。
 電話越しに、榎と話をする。明日、会いに来てもらえるように約束を取り付けた。
 電話を終えた後、綴は車椅子に移動して、窓辺に近寄った。
「僕の綴った物語を読めば、君は僕の本当の正体を知るだろう。僕は、君と出会ったせいで狂ってしまった運命を、清算しなければならないから。本来の正しい道を、歩み直さねばならないから。もう、善い人の演技はしていられないんだ」
 深く息を吐き、窓の向こう側に向かって囁いた。
「――最後の仕上げだ、楽しませてもらうよ、夏姫」
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