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第二部 四季姫進化の巻
十四章 Interval~変化した理~
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『醜き化け物よ。お前の命は伝師が貰い受けた。伝師に付き従い、伝師のために力を振るい、伝師を守って死ぬのだ』
千年前。
朝は幼い頃から陰陽師に囚われて暮らしてきた。伝師一族は悪鬼の力を利用して力を手中に収め、繁栄を築いてきた一族だ。だが決して、悪鬼に平伏すでもなく、心を許すでもなく、表向きは友好的に接しながらも、裏ではあくまで思うが儘に操っているという態度を維持していた。
そのため、万が一、悪鬼が敵に回った時に、悪鬼と戦うための力が必要だった。
どんなに強い神通力を持とうとも、人間に悪鬼を倒す力はなかった。
唯一、その力を有していた存在が、朝だった。朝は一族の最後の切り札として、伝師一族に飼われていた。
母親を殺され、弟を人質にとられながらも、怒りや憎しみの感情さえ押さえ込まれて、生き続けてきた。
切り札だからと言って、丁重に扱われるわけでもない。背中から生えた、鷺を思わせる白い翼、不気味なほどに真っ白い髪の色。周囲の人間から化け物と迫害を受けて当然の容姿だった。
人として扱われもせず、ただ、戦いの道具として悪鬼の殺し方だけを教え込まれた。
その待遇に反発する選択肢などなかった。外から見れば狂った環境も、朝にとっては刷り込まれた常識以外の何でもなかった。
全て、この世で定められている理。変える術もない、拒む意志そのものが禁忌だった。
化け物は化け物らしく、忌み嫌われながら生きていくだけ。化け物の定義は、人間が定めたものを鵜呑みにするだけ。
人間の持つ偏見を押し付けられながら、朝は化け物と呼ばれながら成長した。
それでも朝は、道を誤らずに生き続けてこられた。四季姫たちが、側にいてくれたお陰で。
朝や宵を、人として扱ってくれる人たちだった。
四季姫たちの慈悲と支えがあったお陰で、朝は息苦しい箱庭に閉じ込められ、卑下されながらも、人の心を保ってこられた。育んでこられた。
本物の、化け物にならずに済んだ。
四季姫たちから受けた恩は、言葉では感謝しきれないものだった。
いつか、四季姫たちが朝の悪鬼殺しの力を必要としてくれたときには。
力も命も、全てを差し出そうと誓った。
だから、最恐の悪鬼――鬼閻を封印するための人柱にも、喜んで名乗りを上げた。
四季姫たちから力を分け与えられ、身に宿る全ての生命力をもって、鬼閻を封じた。
封印の中で、鬼閻の魂を抑え込み、じわじわと弱らせていく。
その行いは同時に、朝の魂を削った。
どちらが先に力尽きるか。永く静かな戦いが際限なく続いた。
* * *
どのくらいの時間が経ったのか、封印の中からでは、分からなかった。だが、鬼閻の強靭な生命力は、いつまで経っても朽ちる気配さえ見せなかった。まだまだ永い時を、この化け物と過ごさなければならないのだと悟った時、初めて絶望を感じた。
思わず、外の世界に助けを求めてしまったほどに。
無駄だとは分かっていた。恐らくもう、封印を施した四季姫たちは、この世にいない。朝の声を聞きとれる者など、存在しない。
だが、不思議と、その心の叫びは外に届いた。
『大丈夫よ。すぐに、助けてあげるからね』
封印の外から、誰かの声が頻繁に聞こえてきた。
可愛らしく優しい、少女の声だった。
なぜか、その少女とだけは意識が通じ合い、互いの声を聞き合えた。
励ましてくれる少女の言葉が、絶望の淵に在った朝の心を支えてくれた。少女のお陰で、消えかけていた気力を取り戻せた。
やがて朝は、千年後の時代に解放された。生まれ変わった四季姫に、助けられた。
最初は、鬼閻が再び世に解き放たれる危機感しかなかった。再度、朝を鬼閻と共に封印するようにと四季姫に請うたが、拒まれた。
四季姫の魂を受け継ぐ四人の少女たちは、元凶となった悪鬼を倒して、全ての脅威を取り払おうとしていた。さらに、朝さえもを、救うつもりでいた。
朝は、四季姫たちの強い意志に惹かれた。根拠は何もなかったが、この少女たちなら、悪鬼さえも亡き者にできるのではないかと、直感的に悟った。
鬼閻を倒すために、封印前に四季姫たちから与えてもらった退魔の力を返した。朝自身も、宵の力を借りて悪鬼殺しの力を振り絞り、共に立ち向かった。
戦いの末、鬼閻は闇に葬られた。
だが、その反動で、朝は多くの力を失い、理性を保てなくなった。
意志による制御ができなくなり、朝の中に流れる悪鬼の血が、暴れ始めた。
こんな場所で暴走すれば、四季姫たちや宵まで巻き込む。命を助けてくれた恩人たちを、危険に晒す結果になる。
何としても、阻止したい。朝は、自ら命を絶とうとした。
もともと、封印の中で尽きるはずだった命だ。最後に、自由を与えてくれた、弟に会わせてくれた、救いをもたらしてくれた人々を守るために、使い切りたいと思った。
ところが、朝の意思とは反して、四季姫たちは、さらに朝の命を救ってくれた。
悪鬼と妖怪の力を封じることによって、暴走を抑え込んだ。
力を封じられ、朝と宵は、人間になった。
朝にとっては、信じられない出来事だった。
化け物は、永久に化け物である。望んだところで、求めたところで、人間としての生活など手に入らない。
ずっと、その理を信じて生き続けてきた。
なのに、目の前にいる四季姫たちは、そんな理をいとも容易く、ひっくり返してしまった。
現代は、妖怪にとって、住み辛い世界。だから、人として平穏に暮らせばいい。
人の血が流れる朝たちには、その生活が可能だと言ってくれた。
朝たちの存在を、人として、受け入れてくれた。
朝の中で、小さな世界を形成していた歪んだ常識の壁が、音を立てて崩れた。
理に縛られなくてもいい、思いの侭に生きればいいのだと、この時代で最初に学んだ。現代は、そんな自由な生き方ができる時代なのだと、理解した。
凝り固まった概念から解放された朝の眼窩には、優しく微笑んでくる、長く黒い髪の小柄な少女の姿が、しっかりと焼き付いていた。
少女は、朝を死の淵から救ってくれた。朝が自由を得るために尽力してくれた。一生懸命、体を張って守ってくれた。
新しい時代に生かされた、朝の命。本来なら、とっくに潰えていたはずの、魂の灯。
叶うなら、この少女を守って、最後まで燃やし尽くしたい。全てを使い果たして、一生を終えたい。
この命を、少女――春姫に捧げる。
朝の中で、強い決意が固まった。
* * *
傷が癒え、朝の、人間としての生活が始まった。
右も左も分からない、千年も後の時代。宵みたいに、簡単に周りの環境に順応していけない朝は、要領が悪くても、少しずつ新しい暮らしに慣れていった。
生活環境や風習や言葉遣いまでもが変わりつつあるこの世界で、一から全てを学んでいく。非常にやりがいのある日々だった。
世話をしてくれる了封寺の人たち。常に気に懸けてくれる四季姫たち。感謝してもしきれない好環境に恵まれた。
この時代の四季姫たちも、慈悲深く、親切な人ばかりだった。
榎はいつも明るく元気で、時々ふさぎ込んでいる朝を、励ましてくれた。調子が悪い時には、凄い洞察力で瞬時に気付いて、気遣ってくれた。
柊は家事が得意で、不器用な朝のために時々、料理の作り方を教えてくれた。上達する度に「ええ嫁さんになれるで」と褒めてくれた。
楸はこの時代で暮らすために必要な、あらゆる学問を教えてくれた。一緒に並んで勉強に励んでいると、宵の嫉妬の目が突き刺さってきたが、丁寧に教えてもらえて、とても助かった。
椿は―?。何をするでもなく、気付けばいつも側にいてくれた。他の四季姫たちみたいに、秀でた何かを持っているわけでもなかった。至って平凡で、少しそそっかしいところもあるくらいだった。
でも、充分だった。近くにいて、笑いかけてくれるだけで、心が安らいだ。椿のお陰で、今の朝には居場所があるのだと、実感できた。
平穏な生活の中で、椿のために何かできないかと、常に考えた。了海や了生から、「己の望む答を導き出すためには、己と向き合わなければならない」と教えられ、暇さえあれば座禅を組んで瞑想するようになった。
このまま、この時代で生活を送り、僧となる道も悪くない気がしてきた。椿の家も、寺だと聞いた。坊主になれば、椿の暮らす寺とも縁ができる。常に側にいて、守ってあげられるかもしれない。
椿の笑顔を思い浮かべながら、考えを纏めていた。
だが、そんな平凡な日常も、突如として崩れ去った。
鬼閻を倒したがために、深淵の悪鬼が動き出し、四季姫たちに報復を加えてきた。
気紛れな鬼閻の息子――鬼蛇によって、一時的に危機は脱したが、いずれは戦わなくてはならない現状に、変わりはない。
どちらかが消滅するまで、戦いは終わらない。
平和な生活を取り戻すために、四季姫たちは、もう一度、戦いに身を投じる決意をしていた。
四季姫たちの中に秘められた陰陽師の力は、朝も感じ取っていた。力を解放できれば、まだまだ強くなれる。
でも、その強大な力をもってしても、悪鬼を完全に倒すには及ばない。
世の中には、力の均衡を決定する理が、はるか昔から存在している。
その理に支配されたこの世では、人間がいかなる強い力を手にしても、悪鬼の息の根を止めるまでには至らない。
悪鬼を殺せる存在は、悪鬼のみ。
遥か昔より、そう定められてきた。陰陽師であっても、不可能な御業だ。
四季姫が悪鬼と対等以上に戦うためには、朝の力が必要になってくる。
朝は完全な悪鬼以外で唯一、悪鬼に抗える存在だった。悪鬼の血を引く朝には、悪鬼を殺すための力が備わっている。
本来なら、悪鬼と戦うべき相手は朝だ。千年前から続いている、朝の使命だ。
人間になれたからと、喜んでぬるま湯に浸っている場合ではない。
朝は人知れず封印を破り、妖怪と悪鬼の力を取り戻した。
どうせ戦うなら、四季姫たちに危害が加わる前に、一人で決着をつけてしまいたい。
ただ、悪鬼殺しの力は、朝の生命力そのものだ。十体もの悪鬼を相手にすれば、確実に朝の命も尽きる。
迷いはあった。それでも、死の覚悟はすぐについた。
出て行こうとした矢先、朝の行動は事態を察した了海に制止された。
「お主の力は、とかく暴走しがちじゃ。お主の持つ悪鬼の力が戦いの切り札になるのならば、一人で突っ走ってはいかん、時期を待つのじゃ。悪鬼たちは、今は自由には動けない、焦らずともよい。四季姫さまたちも、新たなる進化を遂げつつある。互いに力を合わせて戦わねば、十体もの悪鬼には勝てぬ」
了海に諭され、朝は一度、気持ちを落ち着けた。
朝は、悪鬼に致命傷を与えられる唯一の力を持っている。言い換えれば、朝さえいなくなれば、悪鬼たちが恐れるものは、何もいなくなる。
封印が解けた事実は知られているだろうが、朝の現状や居場所は、悪鬼には知られていない。
朝が悪鬼を倒せる状況で存在していると分かれば、悪鬼たちは確実に朝を狙ってやってくる。勝手に動いて少しでも奇襲の方法を誤れば、最悪の事態にもなりかねない。
確実な戦いをするためにも、朝は力を隠して、来るべき時がくるまで大人しくしていたほうがいい。
了海の提案を受け、朝は力を取り戻した事実を誰にも告げずに、人間の生活に溶け込んで悪鬼たちの動向を伺った。
* * *
時が過ぎ、冬姫、秋姫が順調に新しい力を得て、強く進化を遂げた。
だが、その直後に、悪鬼たちを封じていた鬼蛇の呪縛が破れてしまった。
まだ、四季姫たちの準備は整っていない。それでも悪鬼たちは、容赦なく襲いに来る。
朝はどんな行動に出るべきか。判断を迫られていた。
迷い、考えているうちに、悪鬼の側が先手を打ってきた。
隠れ村の妖怪を利用し、こともあろうに椿に接触を試みてきた。
椿は心の優しい少女だ。助けを求められれは、拒めない。現実、椿は梓の言葉を受け入れて、危険な駆け引きの道に足を踏み入れた。
朝は椿を止めようとしたが逆効果で、説得すればするほど、椿は頑なになっていった。
椿は本来、戦いを好まない。四季姫たちが一刻も早く禁術を会得して強くなろうと焦る間も、別の観点から戦いを見据えて、全く異なる意見をもっていた。力をつける以外の方法で、悪鬼を退ける方法はないかと、模索していた。
椿らしい発想だが、本音を言うと、甘い考えだと思った。
椿が梓に傾倒し、味方の立場をとろうとする理由も、朝には何となく分かった。
梓と出会う直前。朝は椿と、「でーと」とかいうものを一緒にした。簡単に言えば公の男女の逢瀬みたいなものらしい。
並んで町の中を歩いている時に、椿は初めて、朝に過去の話をしてくれた。
驚いたが、椿も幼い頃に周囲から迫害を受けて暮らしてきたという。権力の強いものに巻かれ、穏やかな生活を奪われ、この静かで素敵な町から逃げ出したいと思うほどに、追い詰められていた。
大切な故郷を、抗えない大きな力に奪われる悲しさ、悔しさを誰よりも知っているから、椿は梓を助けようと必死になっている。同じ思いを、助けを求めてきた少女にさせないために。
同時に、梓を救えたなら、椿自身の押し殺してきた感情さえも、救えると思っているのかもしれない。
朝と同じだと思った。朝も結局、椿を守る行為を利用して、昔の辛かった思い出を塗り変えようとしているだけだ。
でも、たとえ心の救いになる行為だったとしても、椿の命を脅かす戦いをさせるわけにはいかない。
一度は通じ合った二人の心は、今となっては離れていく一方だった。
椿は、些細なきっかけから、朝月夜の力が戻っていると気付いた。力があるのに、口を出すだけで悪鬼と戦おうとしない朝に、椿は激しい怒りと嫌悪感を見せた。
『あなたの封印なんて、解かなければよかった』
朝の存在を拒む椿の言葉が、強く朝の心に響いた。
辛くなかったといえば、嘘になる。
だが、正直に言ってもらえて、救われた。
やっぱり、朝にとって平穏な生活など、不釣り合いだった。
昔から、化け物として戦いの世界で生きてきた存在が、いまさら人間としての平和な生活なんて、可能性があっても望んではいけなかった。ねじ曲がったこの時代の理に、振り回された。
そもそも、四季姫たちが深淵の悪鬼に狙われる原因を作った張本人は、鬼閻の封印を守り続けられなかった朝だ。本来ならば、朝が悪鬼の報復を受けるべきなのだから。
やっぱり、どんな結果になっても、朝が一人で戦うべきだ。朝が悪鬼の元に赴き、連中と刺し違えれば、何の問題もない。
椿も、その方法を望んでいる。
椿の、四季姫たちの恩に報いるために、朝はこの時代で生かされていた。何も考える必要はない。
まっすぐに、前を見据えた。一人で、全てを終わらせる決意をした。
世話になった恩人たちに向けて、別れの言葉は遺してきた。直接説明する時間はなかったから、側に手紙を置いてきた。了封寺の自室や、大切な人の側に。
みんなが手紙の内容を見る頃には、全てが終わっているだろう。
朝は翼を操りながら、悪鬼が巣食う山に向かった。
* * *
鬱蒼と茂る、深く暗い針葉樹の山奥。
木々の合間をすり抜けながら、白い翼を駆使して低空飛行を続けた朝は、悪鬼の放つ濃い気配に気付いて、地上に降り立った。
急いで妖気を消して気配を殺す。背中の翼が消え、普段の人間の姿に戻った。
より、効率よく悪鬼を倒すためにも、可能な限り奇襲を仕掛けたい。有利な戦況を逐次作っておかなければ、十体の悪鬼を全て倒す前に朝のほうが力尽きる。
悪鬼の住処となっている領地の、西の端。本拠地となる中心部からかなり外れた場所に、物見櫓みたいな細く高い建物が聳えている。その建物の麓から、濃い気配は漂ってきていた。
櫓の足元を目視し、朝は体を強張らせる。
黒い、人の形状をした塊が、立ち尽くしていた。ぼんやりとした輪郭、その中からくっきりと浮かび上がってくる、狂気の塊。
悪鬼だ。
周囲にも気を配ったが、他に気配は感じない。どうやら、一体だけらしい。
朝にとっては好都合だ。一体ずつ、確実に仕留められたほうが効率がいい。
悪鬼との距離を保ちつつ、朝はゆっくり、妖怪の力を解放した。悪鬼の背後に回り、左手に力を込めた。鋭く長い爪がさらに伸び、固い刃物みたいな形状になった。
斬りつけた傷口から朝の悪鬼殺しの気を流し込めば、息の根を止めることができる。隙さえ突けば、一瞬で終わる。
朝が狙いを定めて、音もなく飛び出した瞬間。
悪鬼が首を回して、朝を見てきた。
眼球のない、虚無しか感じられない二つの穴に、吸い込まれそうな恐怖を覚える。朝は本能的に動きを止め、背後に飛んで逃げた。
悪鬼に背は向けられない。悪鬼の姿を凝視しながら、後退る形で距離をとった。
朝に向かって、悪鬼は避けるほど大きな口を三日月形に開き、不気味に笑った。
「久しぶりだなぁ、我等が愚弟」
悪鬼が放った言葉に、朝の全身を悪寒が襲った。嫌悪感が広がり、眩暈がした。
「お前に、弟などと呼ばれる筋合いはない!」
何とか気持ちを持ち直し、怒鳴りつける。悪鬼は朝の反応を楽しんで、肩を震わせて笑っていた。
「つれないな。同じ悪鬼の力を基盤として、この世に存在しているのだ。兄弟も同然であろう」
嫌味な物言いだった。
朝も、理解はしている。朝と宵は、人と妖怪の混血である母親と、深淵の悪鬼を作り出した元凶となった悪鬼との間に生まれた。だから、深淵の悪鬼たちと同じ系統の力を有している。
だからといって、悪鬼共と馴れ合う気など、微塵もない。
存在がバレた以上、気配を隠す必要もない。朝はありったけの殺気を、目の前の悪鬼にぶつけた。
朝の様子を見て、悪鬼はつまらなさそうに目の穴を細めた。
「基が同じだからこそ、お前たち兄弟には、些か失望している。脆弱な陰陽師の小娘共に飼い馴らされ、妖怪の力も悪鬼の誇りも捨て去るとは」
要するに、朝たちを裏切り者だと言いたいのだろう。たとえ朝たちが悪鬼の側についていたとしても、ろくな待遇を与える気もなかっただろうに。
所詮、朝や宵みたいな異端の存在にとっては、相手が人間だろうが悪鬼だろうが妖怪だろうが、対して変わりない。
相手を受け入れる気持ちや思いやりというものは、種ではなく個に宿る感情だと、朝は人との生活の中で学んだ。その思想こそが、朝の中の全てであり、決してぶれない真実だ。
付け加えれば、深淵の悪鬼の個々の感情の中に、異端のものを仲間として受け入れる態度は、微塵も存在しない。
「悪鬼としての誇りなど、最初から持ち合わせてなどいない。――妖怪の力も、捨てたつもりはない」
朝は静かに言葉を返し、目を細めて悪鬼を睨み付けた。
「僕の持つ力は、〝悪鬼殺し〟。お前たちをこの世から亡きものにするために、今まで誰にも悟られないように力を蓄えてきた」
再び、左手を構える。鋭く尖った爪の先端を、悪鬼の心臓部に向ける。
「この場で、お前たちを伐つ。二度と、四季姫さまたちに手出しはさせない!」
朝は素早く、地面を蹴った。相手が反応する暇さえ与えない。
勢いをつけて、朝の爪が悪鬼の胸を突き刺した。迷いも躊躇いもなく、まっすぐ心臓を貫通し、爪の先が悪鬼の背から外に突き出した。
悪鬼はどす黒い血を吐いた。少し体を震わせただけで、その後は微動だにしなかった。
手応えはあった。だが、ありすぎる点が引っ掛かった。
どうして抵抗しなかった?
朝は敵を討った達成感よりも、嫌な気持ちに包まれていた。
その予感は、見事に的中する。
悪鬼は体に突き刺さった朝の手を掴み、引き抜いた。爪が体から抜けると、心臓を貫いたはずの致命傷は見る見るうちに塞がり、何事もなく消え去った。
悪鬼の顔にも、余裕の笑みが溢れだしている。
「なぜだ、僕の攻撃が効かない!?」
朝の気持ちが、動揺する。その隙を、悪鬼は見逃さなかった。
悪鬼の放った気の塊を全身で食らい、朝は吹き飛ばされた。背後の太い杉の木に背中を強打する。口の中が切れ、滲み出た血を吐き出した。
どうして、朝の力が効かなかったのか。悪鬼殺しの力を存分に込めた一撃だったのに。
掠っただけでも体内に入り込み、じわじわと内側から浸食して、悪鬼の命を食らっていく。その力で心臓を突き破られて、無事で済むはずがないのに。
困惑している朝を見て、悪鬼は腹を抱えて盛大に笑った。
「これは愉快! 封印されていたお前は、知らないのだな! お前が鬼閻どのと共に封じられていた間に、世の中の理が大きく変わったのさ。我ら悪鬼の眷属は、悪鬼殺しの力に対して耐性を持ったのだ」
悪鬼の口から語られた話に、朝は衝撃を受けた。
「馬鹿な! 鬼閻には、間違いなく致命傷を負わせられたのに……」
「鬼閻どのは、お前と一緒にこの世とは異なる別空間に封印されていたのだ。外界の変化に影響されていなかったから、お前の攻撃が効いたに過ぎない」
愕然とした。封印されていた千年の間に、この世で唯一、不変だと信じていた理が、完全に覆されていたなんて。
だが、朝たちが人間として暮らせているという前例もある。この世界の理は、良い面も悪い面も、何もかもが朝の常識を遥かに凌駕した、全く新しいものに書き換えられているのかもしれない。
何を基準に、何が正しいと考えればいいのか。分からない。
朝は完全に、理解できない現実の中で遭難した。
「お前自身、我等を倒す切り札になろうと思って身を潜めていたのだろうが、無意味だったわけだ。最早、お前の力では我等は倒せぬ。残念だったな」
悪鬼は同情めいた言葉を吐きつつも、顔には慈悲の欠片もなかった。体中から何本もの触手みたいな腕を伸ばして、朝を攻撃してきた。
体を激しく殴打され、切り付けられる。朝の体に激痛が走り、血が噴き出した。
悪鬼殺しの力が意味をなさなくなった今、朝に悪鬼に対抗する術はない。その絶望が、朝から逃げ出す気力さえ奪った。
四季姫たちの役に立てないのなら、何のために封印から出て、生き永らえたのだろう。
「哀れだなぁ。封印の中で、力尽きて果てておけば、幸せだったのになぁ」
悪鬼が笑う。奴の言う通りだ。やっぱり、封印の外になんて、出てくるべきではなかった。
「……殺せ。抵抗しない」
朝の心が、折れた。動く気力もない。あとは、悪鬼のなすが儘に、身を委ねるだけだ。
「なに、まだ殺しはしない。お前には、まだ使い道があるからなぁ。妖怪どもが失敗した時のために、お前には四季姫をおびき寄せる餌になってもらう」
悪鬼の危惧は、的を射ていた。
悪鬼が嗾けた、梓とかいう妖怪の子供は、椿から引き離して軽く脅したら、もう四季姫には近付かないと言っていた。妖怪の側から身を引けば、もう、四季姫たちが危ない場所にやってくる理由も必要もない。
悪鬼も薄々、作戦の失敗に気付いている。次の手段に向けて、新しい手札に朝を使おうと企んでいるのだろうが、きっと無意味だ。
「四季姫なんて、誰も、来るはずがない……。僕なんかに、人質の価値があるとでも思うのか」
朝は自嘲して、鼻で笑った。悪鬼を倒せない朝なんて、下等妖怪以下の存在だ。誰も見向きもしない。
利用価値のない道具を、わざわざ危険を冒して拾いに来る馬鹿もいないだろう。
朝の言葉を聞き、悪鬼は再び笑い出した。
「なんだ、見捨てられたのか。そうだな、今のお前は、役立たずだもんなぁ」
まるで、朝の心の声を代弁するかのような台詞だった。正論のはずなのに、妙に苛立ち、心が痛んだ。
「なら、別に手加減する必要もないな。生きるか死ぬかは、運次第だ」
悪鬼は再び、触手を突き出して朝に狙いを定めてきた。適当に打ち込んで、朝を捕獲するつもりらしい。
これ以上、生き恥をさらすつもりはない。うまく場所を調整して、悪鬼の触手が急所を貫くように移動しよう。
朝は己の死を確実なものにするために、集中力を高めた。
触手が矢のごとく飛んできた瞬間。
朝は体を押し飛ばされて、地面に転がった。触手は全て外れ、背後の木に突き刺さった。
呆然と空を見ると、朝の上に馬乗りになり、息を切らせる宵の姿があった。
「何をボサっとしてやがる! あんな奴の攻撃、お前なら躱せるだろう!?」
宵に怒鳴られた。普段なら言い返すところだが、今はそんな気力もない。
止められるだろうから、何も告げずに出てきたのに。わざわざ危険な場所に追いかけてくるなんて。
宵は朝とは違い、より純粋な妖怪に近い。そのせいで、強い妖気を発する度に悪鬼に感知され、幾度も食われそうになりながら、怯えて逃げる生活を続けていた。
悪鬼を恐れる宵の心理は、朝もよく分かっている。深淵の悪鬼の住処に突っ込んでくるなんて、どれほどの覚悟と勇気が必要だったか。
こんな、無能な兄のために。
「お前は、相変わらず無茶ばかりするな、宵」
申し訳ないと思いつつも、強がっている宵の姿を見ていると、憎まれ口しか出てこなかった。
千年前も、人柱になると決めた朝を助けるために四季姫たちに食って掛かり、逆に封印されてしまった。本当は、兄である朝が、宵に危害が及ばないように守らなければならなかったはずなのに。守ろうとしてきたのに。
いつも、宵は朝の気持ちを裏切って、余計な行動ばかりする。
「朝よりマシだ」
宵は表情を歪ませて、朝を睨み付けた。
「昔から、ずっと言ってきただろう。何でも一人で背負い込むな。お前のお荷物なんて、俺は御免なんだよ。俺の妖怪の力も戻った。充分、戦えるんだからな」
何度も聞かされてきた、宵の小言だ。陰陽師に捕えられ、朝の枷となる立場を、宵はずっと嫌っていた。
いつも、朝と対等であろうとしていた。
昔を思い出して、少し懐かしくなった。
朝は小声で、「悪かった」と囁いた。何度も繰り返されてきた、兄弟のお決まりの会話だ。
宵はあまり真剣に受け止めていない顔で、鼻を鳴らした。
「どうして反撃しない。奴はまだ、呪縛から解放されたばかりで、満足に体も動かせていないんだぞ」
「どのみち、無理なんだ。僕たちが封印されている間に、世の中の理が変化した。……僕の悪鬼殺しの力は、こいつらには通用しない」
「何だと……!?」
朝の話を聞くと、宵の表情も一気に歪んだ。やっぱり誰でも、同じ反応になる。
「だったら、逃げるぞ。一度体勢を整え直すんだ。他の方法を探せばいい」
宵は素早く考えを纏めて、朝の腕を首に回し、立ち上がらせた。
「お前だけ逃げろ。悪鬼に食わせるわけにはいかない。手負いの僕を連れていては、確実に逃げられない」
「馬鹿言ってんじゃねえぞ! 何のために、お前を追いかけてきたと思ってるんだ!」
朝は拒否し、宵から離れようとした。だが、宵は断固として、朝の手を離そうとしない。
「僕を連れて行ったところで、もう、何の力にもなれない……。悪鬼を倒す力を持たない僕は、ただの役立たずだ」
「春姫が、朝にそう言ったのか?」
宵が眉を顰め、嫌悪感を示す。
以前から、宵は春姫が朝に見せる我儘な態度を嫌う態度を見せる時があった。朝が強引に無茶を強いられているみたいに感じたのかもしれない。
そうではない、と何度も言い聞かせてきたが、あまり伝わっていないのだろう。
朝は再度、宵に言い正した。
「僕が、そう判断したんだ。誰かに言われたわけじゃないよ」
朝は宵に笑いかけた。宵の手を素早く振り解き、突き飛ばした。油断していた宵は、木々の奥に広がる低木の茂みに転がっていった。
朝は激痛の走る体に鞭打ち、宵を背に庇う体勢で立ち上がった。
長々と言い合っている時間は、なさそうだ。
視線を向けた先では、悪鬼がゆっくりと狙いを定めている。いつでも攻撃ができる、といった様子で、余裕綽々に構えていた。
「できの悪い兄で、悪かった。お前はもっと賢い方法で、大切な人を守るんだ」
背後の弟に、囁いた。
こんな無能な兄のために、危険を冒してやってきてくれた弟に詫びた。
まっすぐ、正しい未来を見据えて進んでいける力を、宵は持っている。助けて、支えてくれる人たちも側にいる。必ず、人として幸せになれるはずだ。
朝とは違う。だから、きっと大丈夫だ。
続けて、この世の、朝を必要としてくれたすべてのものに、心の中で謝った。
最後に、心から愛する大切な人に、詫びた。
――役に立てずに、申し訳ありません。せめて、貴女の力になれる存在でありたかった。
椿には、酷い言葉をぶつけた。足止めをするためとはいえ、身体も心も傷つけた。
今更、何を言っても許してくれないだろう。心を開いてもくれないだろう。
だが、ちょうどいい。
朝の死を憐れんで泣く椿の姿なんて、想像もしたくない。
悪鬼の触手が、今度こそ迷いなく飛んでくる。朝は目を閉じた。
「やめろ、兄貴!」
背後から、茂みから飛び出す音と、宵の大声が聞こえた。
同時に、朝の体を悪鬼の狂気が貫いた。
千年前。
朝は幼い頃から陰陽師に囚われて暮らしてきた。伝師一族は悪鬼の力を利用して力を手中に収め、繁栄を築いてきた一族だ。だが決して、悪鬼に平伏すでもなく、心を許すでもなく、表向きは友好的に接しながらも、裏ではあくまで思うが儘に操っているという態度を維持していた。
そのため、万が一、悪鬼が敵に回った時に、悪鬼と戦うための力が必要だった。
どんなに強い神通力を持とうとも、人間に悪鬼を倒す力はなかった。
唯一、その力を有していた存在が、朝だった。朝は一族の最後の切り札として、伝師一族に飼われていた。
母親を殺され、弟を人質にとられながらも、怒りや憎しみの感情さえ押さえ込まれて、生き続けてきた。
切り札だからと言って、丁重に扱われるわけでもない。背中から生えた、鷺を思わせる白い翼、不気味なほどに真っ白い髪の色。周囲の人間から化け物と迫害を受けて当然の容姿だった。
人として扱われもせず、ただ、戦いの道具として悪鬼の殺し方だけを教え込まれた。
その待遇に反発する選択肢などなかった。外から見れば狂った環境も、朝にとっては刷り込まれた常識以外の何でもなかった。
全て、この世で定められている理。変える術もない、拒む意志そのものが禁忌だった。
化け物は化け物らしく、忌み嫌われながら生きていくだけ。化け物の定義は、人間が定めたものを鵜呑みにするだけ。
人間の持つ偏見を押し付けられながら、朝は化け物と呼ばれながら成長した。
それでも朝は、道を誤らずに生き続けてこられた。四季姫たちが、側にいてくれたお陰で。
朝や宵を、人として扱ってくれる人たちだった。
四季姫たちの慈悲と支えがあったお陰で、朝は息苦しい箱庭に閉じ込められ、卑下されながらも、人の心を保ってこられた。育んでこられた。
本物の、化け物にならずに済んだ。
四季姫たちから受けた恩は、言葉では感謝しきれないものだった。
いつか、四季姫たちが朝の悪鬼殺しの力を必要としてくれたときには。
力も命も、全てを差し出そうと誓った。
だから、最恐の悪鬼――鬼閻を封印するための人柱にも、喜んで名乗りを上げた。
四季姫たちから力を分け与えられ、身に宿る全ての生命力をもって、鬼閻を封じた。
封印の中で、鬼閻の魂を抑え込み、じわじわと弱らせていく。
その行いは同時に、朝の魂を削った。
どちらが先に力尽きるか。永く静かな戦いが際限なく続いた。
* * *
どのくらいの時間が経ったのか、封印の中からでは、分からなかった。だが、鬼閻の強靭な生命力は、いつまで経っても朽ちる気配さえ見せなかった。まだまだ永い時を、この化け物と過ごさなければならないのだと悟った時、初めて絶望を感じた。
思わず、外の世界に助けを求めてしまったほどに。
無駄だとは分かっていた。恐らくもう、封印を施した四季姫たちは、この世にいない。朝の声を聞きとれる者など、存在しない。
だが、不思議と、その心の叫びは外に届いた。
『大丈夫よ。すぐに、助けてあげるからね』
封印の外から、誰かの声が頻繁に聞こえてきた。
可愛らしく優しい、少女の声だった。
なぜか、その少女とだけは意識が通じ合い、互いの声を聞き合えた。
励ましてくれる少女の言葉が、絶望の淵に在った朝の心を支えてくれた。少女のお陰で、消えかけていた気力を取り戻せた。
やがて朝は、千年後の時代に解放された。生まれ変わった四季姫に、助けられた。
最初は、鬼閻が再び世に解き放たれる危機感しかなかった。再度、朝を鬼閻と共に封印するようにと四季姫に請うたが、拒まれた。
四季姫の魂を受け継ぐ四人の少女たちは、元凶となった悪鬼を倒して、全ての脅威を取り払おうとしていた。さらに、朝さえもを、救うつもりでいた。
朝は、四季姫たちの強い意志に惹かれた。根拠は何もなかったが、この少女たちなら、悪鬼さえも亡き者にできるのではないかと、直感的に悟った。
鬼閻を倒すために、封印前に四季姫たちから与えてもらった退魔の力を返した。朝自身も、宵の力を借りて悪鬼殺しの力を振り絞り、共に立ち向かった。
戦いの末、鬼閻は闇に葬られた。
だが、その反動で、朝は多くの力を失い、理性を保てなくなった。
意志による制御ができなくなり、朝の中に流れる悪鬼の血が、暴れ始めた。
こんな場所で暴走すれば、四季姫たちや宵まで巻き込む。命を助けてくれた恩人たちを、危険に晒す結果になる。
何としても、阻止したい。朝は、自ら命を絶とうとした。
もともと、封印の中で尽きるはずだった命だ。最後に、自由を与えてくれた、弟に会わせてくれた、救いをもたらしてくれた人々を守るために、使い切りたいと思った。
ところが、朝の意思とは反して、四季姫たちは、さらに朝の命を救ってくれた。
悪鬼と妖怪の力を封じることによって、暴走を抑え込んだ。
力を封じられ、朝と宵は、人間になった。
朝にとっては、信じられない出来事だった。
化け物は、永久に化け物である。望んだところで、求めたところで、人間としての生活など手に入らない。
ずっと、その理を信じて生き続けてきた。
なのに、目の前にいる四季姫たちは、そんな理をいとも容易く、ひっくり返してしまった。
現代は、妖怪にとって、住み辛い世界。だから、人として平穏に暮らせばいい。
人の血が流れる朝たちには、その生活が可能だと言ってくれた。
朝たちの存在を、人として、受け入れてくれた。
朝の中で、小さな世界を形成していた歪んだ常識の壁が、音を立てて崩れた。
理に縛られなくてもいい、思いの侭に生きればいいのだと、この時代で最初に学んだ。現代は、そんな自由な生き方ができる時代なのだと、理解した。
凝り固まった概念から解放された朝の眼窩には、優しく微笑んでくる、長く黒い髪の小柄な少女の姿が、しっかりと焼き付いていた。
少女は、朝を死の淵から救ってくれた。朝が自由を得るために尽力してくれた。一生懸命、体を張って守ってくれた。
新しい時代に生かされた、朝の命。本来なら、とっくに潰えていたはずの、魂の灯。
叶うなら、この少女を守って、最後まで燃やし尽くしたい。全てを使い果たして、一生を終えたい。
この命を、少女――春姫に捧げる。
朝の中で、強い決意が固まった。
* * *
傷が癒え、朝の、人間としての生活が始まった。
右も左も分からない、千年も後の時代。宵みたいに、簡単に周りの環境に順応していけない朝は、要領が悪くても、少しずつ新しい暮らしに慣れていった。
生活環境や風習や言葉遣いまでもが変わりつつあるこの世界で、一から全てを学んでいく。非常にやりがいのある日々だった。
世話をしてくれる了封寺の人たち。常に気に懸けてくれる四季姫たち。感謝してもしきれない好環境に恵まれた。
この時代の四季姫たちも、慈悲深く、親切な人ばかりだった。
榎はいつも明るく元気で、時々ふさぎ込んでいる朝を、励ましてくれた。調子が悪い時には、凄い洞察力で瞬時に気付いて、気遣ってくれた。
柊は家事が得意で、不器用な朝のために時々、料理の作り方を教えてくれた。上達する度に「ええ嫁さんになれるで」と褒めてくれた。
楸はこの時代で暮らすために必要な、あらゆる学問を教えてくれた。一緒に並んで勉強に励んでいると、宵の嫉妬の目が突き刺さってきたが、丁寧に教えてもらえて、とても助かった。
椿は―?。何をするでもなく、気付けばいつも側にいてくれた。他の四季姫たちみたいに、秀でた何かを持っているわけでもなかった。至って平凡で、少しそそっかしいところもあるくらいだった。
でも、充分だった。近くにいて、笑いかけてくれるだけで、心が安らいだ。椿のお陰で、今の朝には居場所があるのだと、実感できた。
平穏な生活の中で、椿のために何かできないかと、常に考えた。了海や了生から、「己の望む答を導き出すためには、己と向き合わなければならない」と教えられ、暇さえあれば座禅を組んで瞑想するようになった。
このまま、この時代で生活を送り、僧となる道も悪くない気がしてきた。椿の家も、寺だと聞いた。坊主になれば、椿の暮らす寺とも縁ができる。常に側にいて、守ってあげられるかもしれない。
椿の笑顔を思い浮かべながら、考えを纏めていた。
だが、そんな平凡な日常も、突如として崩れ去った。
鬼閻を倒したがために、深淵の悪鬼が動き出し、四季姫たちに報復を加えてきた。
気紛れな鬼閻の息子――鬼蛇によって、一時的に危機は脱したが、いずれは戦わなくてはならない現状に、変わりはない。
どちらかが消滅するまで、戦いは終わらない。
平和な生活を取り戻すために、四季姫たちは、もう一度、戦いに身を投じる決意をしていた。
四季姫たちの中に秘められた陰陽師の力は、朝も感じ取っていた。力を解放できれば、まだまだ強くなれる。
でも、その強大な力をもってしても、悪鬼を完全に倒すには及ばない。
世の中には、力の均衡を決定する理が、はるか昔から存在している。
その理に支配されたこの世では、人間がいかなる強い力を手にしても、悪鬼の息の根を止めるまでには至らない。
悪鬼を殺せる存在は、悪鬼のみ。
遥か昔より、そう定められてきた。陰陽師であっても、不可能な御業だ。
四季姫が悪鬼と対等以上に戦うためには、朝の力が必要になってくる。
朝は完全な悪鬼以外で唯一、悪鬼に抗える存在だった。悪鬼の血を引く朝には、悪鬼を殺すための力が備わっている。
本来なら、悪鬼と戦うべき相手は朝だ。千年前から続いている、朝の使命だ。
人間になれたからと、喜んでぬるま湯に浸っている場合ではない。
朝は人知れず封印を破り、妖怪と悪鬼の力を取り戻した。
どうせ戦うなら、四季姫たちに危害が加わる前に、一人で決着をつけてしまいたい。
ただ、悪鬼殺しの力は、朝の生命力そのものだ。十体もの悪鬼を相手にすれば、確実に朝の命も尽きる。
迷いはあった。それでも、死の覚悟はすぐについた。
出て行こうとした矢先、朝の行動は事態を察した了海に制止された。
「お主の力は、とかく暴走しがちじゃ。お主の持つ悪鬼の力が戦いの切り札になるのならば、一人で突っ走ってはいかん、時期を待つのじゃ。悪鬼たちは、今は自由には動けない、焦らずともよい。四季姫さまたちも、新たなる進化を遂げつつある。互いに力を合わせて戦わねば、十体もの悪鬼には勝てぬ」
了海に諭され、朝は一度、気持ちを落ち着けた。
朝は、悪鬼に致命傷を与えられる唯一の力を持っている。言い換えれば、朝さえいなくなれば、悪鬼たちが恐れるものは、何もいなくなる。
封印が解けた事実は知られているだろうが、朝の現状や居場所は、悪鬼には知られていない。
朝が悪鬼を倒せる状況で存在していると分かれば、悪鬼たちは確実に朝を狙ってやってくる。勝手に動いて少しでも奇襲の方法を誤れば、最悪の事態にもなりかねない。
確実な戦いをするためにも、朝は力を隠して、来るべき時がくるまで大人しくしていたほうがいい。
了海の提案を受け、朝は力を取り戻した事実を誰にも告げずに、人間の生活に溶け込んで悪鬼たちの動向を伺った。
* * *
時が過ぎ、冬姫、秋姫が順調に新しい力を得て、強く進化を遂げた。
だが、その直後に、悪鬼たちを封じていた鬼蛇の呪縛が破れてしまった。
まだ、四季姫たちの準備は整っていない。それでも悪鬼たちは、容赦なく襲いに来る。
朝はどんな行動に出るべきか。判断を迫られていた。
迷い、考えているうちに、悪鬼の側が先手を打ってきた。
隠れ村の妖怪を利用し、こともあろうに椿に接触を試みてきた。
椿は心の優しい少女だ。助けを求められれは、拒めない。現実、椿は梓の言葉を受け入れて、危険な駆け引きの道に足を踏み入れた。
朝は椿を止めようとしたが逆効果で、説得すればするほど、椿は頑なになっていった。
椿は本来、戦いを好まない。四季姫たちが一刻も早く禁術を会得して強くなろうと焦る間も、別の観点から戦いを見据えて、全く異なる意見をもっていた。力をつける以外の方法で、悪鬼を退ける方法はないかと、模索していた。
椿らしい発想だが、本音を言うと、甘い考えだと思った。
椿が梓に傾倒し、味方の立場をとろうとする理由も、朝には何となく分かった。
梓と出会う直前。朝は椿と、「でーと」とかいうものを一緒にした。簡単に言えば公の男女の逢瀬みたいなものらしい。
並んで町の中を歩いている時に、椿は初めて、朝に過去の話をしてくれた。
驚いたが、椿も幼い頃に周囲から迫害を受けて暮らしてきたという。権力の強いものに巻かれ、穏やかな生活を奪われ、この静かで素敵な町から逃げ出したいと思うほどに、追い詰められていた。
大切な故郷を、抗えない大きな力に奪われる悲しさ、悔しさを誰よりも知っているから、椿は梓を助けようと必死になっている。同じ思いを、助けを求めてきた少女にさせないために。
同時に、梓を救えたなら、椿自身の押し殺してきた感情さえも、救えると思っているのかもしれない。
朝と同じだと思った。朝も結局、椿を守る行為を利用して、昔の辛かった思い出を塗り変えようとしているだけだ。
でも、たとえ心の救いになる行為だったとしても、椿の命を脅かす戦いをさせるわけにはいかない。
一度は通じ合った二人の心は、今となっては離れていく一方だった。
椿は、些細なきっかけから、朝月夜の力が戻っていると気付いた。力があるのに、口を出すだけで悪鬼と戦おうとしない朝に、椿は激しい怒りと嫌悪感を見せた。
『あなたの封印なんて、解かなければよかった』
朝の存在を拒む椿の言葉が、強く朝の心に響いた。
辛くなかったといえば、嘘になる。
だが、正直に言ってもらえて、救われた。
やっぱり、朝にとって平穏な生活など、不釣り合いだった。
昔から、化け物として戦いの世界で生きてきた存在が、いまさら人間としての平和な生活なんて、可能性があっても望んではいけなかった。ねじ曲がったこの時代の理に、振り回された。
そもそも、四季姫たちが深淵の悪鬼に狙われる原因を作った張本人は、鬼閻の封印を守り続けられなかった朝だ。本来ならば、朝が悪鬼の報復を受けるべきなのだから。
やっぱり、どんな結果になっても、朝が一人で戦うべきだ。朝が悪鬼の元に赴き、連中と刺し違えれば、何の問題もない。
椿も、その方法を望んでいる。
椿の、四季姫たちの恩に報いるために、朝はこの時代で生かされていた。何も考える必要はない。
まっすぐに、前を見据えた。一人で、全てを終わらせる決意をした。
世話になった恩人たちに向けて、別れの言葉は遺してきた。直接説明する時間はなかったから、側に手紙を置いてきた。了封寺の自室や、大切な人の側に。
みんなが手紙の内容を見る頃には、全てが終わっているだろう。
朝は翼を操りながら、悪鬼が巣食う山に向かった。
* * *
鬱蒼と茂る、深く暗い針葉樹の山奥。
木々の合間をすり抜けながら、白い翼を駆使して低空飛行を続けた朝は、悪鬼の放つ濃い気配に気付いて、地上に降り立った。
急いで妖気を消して気配を殺す。背中の翼が消え、普段の人間の姿に戻った。
より、効率よく悪鬼を倒すためにも、可能な限り奇襲を仕掛けたい。有利な戦況を逐次作っておかなければ、十体の悪鬼を全て倒す前に朝のほうが力尽きる。
悪鬼の住処となっている領地の、西の端。本拠地となる中心部からかなり外れた場所に、物見櫓みたいな細く高い建物が聳えている。その建物の麓から、濃い気配は漂ってきていた。
櫓の足元を目視し、朝は体を強張らせる。
黒い、人の形状をした塊が、立ち尽くしていた。ぼんやりとした輪郭、その中からくっきりと浮かび上がってくる、狂気の塊。
悪鬼だ。
周囲にも気を配ったが、他に気配は感じない。どうやら、一体だけらしい。
朝にとっては好都合だ。一体ずつ、確実に仕留められたほうが効率がいい。
悪鬼との距離を保ちつつ、朝はゆっくり、妖怪の力を解放した。悪鬼の背後に回り、左手に力を込めた。鋭く長い爪がさらに伸び、固い刃物みたいな形状になった。
斬りつけた傷口から朝の悪鬼殺しの気を流し込めば、息の根を止めることができる。隙さえ突けば、一瞬で終わる。
朝が狙いを定めて、音もなく飛び出した瞬間。
悪鬼が首を回して、朝を見てきた。
眼球のない、虚無しか感じられない二つの穴に、吸い込まれそうな恐怖を覚える。朝は本能的に動きを止め、背後に飛んで逃げた。
悪鬼に背は向けられない。悪鬼の姿を凝視しながら、後退る形で距離をとった。
朝に向かって、悪鬼は避けるほど大きな口を三日月形に開き、不気味に笑った。
「久しぶりだなぁ、我等が愚弟」
悪鬼が放った言葉に、朝の全身を悪寒が襲った。嫌悪感が広がり、眩暈がした。
「お前に、弟などと呼ばれる筋合いはない!」
何とか気持ちを持ち直し、怒鳴りつける。悪鬼は朝の反応を楽しんで、肩を震わせて笑っていた。
「つれないな。同じ悪鬼の力を基盤として、この世に存在しているのだ。兄弟も同然であろう」
嫌味な物言いだった。
朝も、理解はしている。朝と宵は、人と妖怪の混血である母親と、深淵の悪鬼を作り出した元凶となった悪鬼との間に生まれた。だから、深淵の悪鬼たちと同じ系統の力を有している。
だからといって、悪鬼共と馴れ合う気など、微塵もない。
存在がバレた以上、気配を隠す必要もない。朝はありったけの殺気を、目の前の悪鬼にぶつけた。
朝の様子を見て、悪鬼はつまらなさそうに目の穴を細めた。
「基が同じだからこそ、お前たち兄弟には、些か失望している。脆弱な陰陽師の小娘共に飼い馴らされ、妖怪の力も悪鬼の誇りも捨て去るとは」
要するに、朝たちを裏切り者だと言いたいのだろう。たとえ朝たちが悪鬼の側についていたとしても、ろくな待遇を与える気もなかっただろうに。
所詮、朝や宵みたいな異端の存在にとっては、相手が人間だろうが悪鬼だろうが妖怪だろうが、対して変わりない。
相手を受け入れる気持ちや思いやりというものは、種ではなく個に宿る感情だと、朝は人との生活の中で学んだ。その思想こそが、朝の中の全てであり、決してぶれない真実だ。
付け加えれば、深淵の悪鬼の個々の感情の中に、異端のものを仲間として受け入れる態度は、微塵も存在しない。
「悪鬼としての誇りなど、最初から持ち合わせてなどいない。――妖怪の力も、捨てたつもりはない」
朝は静かに言葉を返し、目を細めて悪鬼を睨み付けた。
「僕の持つ力は、〝悪鬼殺し〟。お前たちをこの世から亡きものにするために、今まで誰にも悟られないように力を蓄えてきた」
再び、左手を構える。鋭く尖った爪の先端を、悪鬼の心臓部に向ける。
「この場で、お前たちを伐つ。二度と、四季姫さまたちに手出しはさせない!」
朝は素早く、地面を蹴った。相手が反応する暇さえ与えない。
勢いをつけて、朝の爪が悪鬼の胸を突き刺した。迷いも躊躇いもなく、まっすぐ心臓を貫通し、爪の先が悪鬼の背から外に突き出した。
悪鬼はどす黒い血を吐いた。少し体を震わせただけで、その後は微動だにしなかった。
手応えはあった。だが、ありすぎる点が引っ掛かった。
どうして抵抗しなかった?
朝は敵を討った達成感よりも、嫌な気持ちに包まれていた。
その予感は、見事に的中する。
悪鬼は体に突き刺さった朝の手を掴み、引き抜いた。爪が体から抜けると、心臓を貫いたはずの致命傷は見る見るうちに塞がり、何事もなく消え去った。
悪鬼の顔にも、余裕の笑みが溢れだしている。
「なぜだ、僕の攻撃が効かない!?」
朝の気持ちが、動揺する。その隙を、悪鬼は見逃さなかった。
悪鬼の放った気の塊を全身で食らい、朝は吹き飛ばされた。背後の太い杉の木に背中を強打する。口の中が切れ、滲み出た血を吐き出した。
どうして、朝の力が効かなかったのか。悪鬼殺しの力を存分に込めた一撃だったのに。
掠っただけでも体内に入り込み、じわじわと内側から浸食して、悪鬼の命を食らっていく。その力で心臓を突き破られて、無事で済むはずがないのに。
困惑している朝を見て、悪鬼は腹を抱えて盛大に笑った。
「これは愉快! 封印されていたお前は、知らないのだな! お前が鬼閻どのと共に封じられていた間に、世の中の理が大きく変わったのさ。我ら悪鬼の眷属は、悪鬼殺しの力に対して耐性を持ったのだ」
悪鬼の口から語られた話に、朝は衝撃を受けた。
「馬鹿な! 鬼閻には、間違いなく致命傷を負わせられたのに……」
「鬼閻どのは、お前と一緒にこの世とは異なる別空間に封印されていたのだ。外界の変化に影響されていなかったから、お前の攻撃が効いたに過ぎない」
愕然とした。封印されていた千年の間に、この世で唯一、不変だと信じていた理が、完全に覆されていたなんて。
だが、朝たちが人間として暮らせているという前例もある。この世界の理は、良い面も悪い面も、何もかもが朝の常識を遥かに凌駕した、全く新しいものに書き換えられているのかもしれない。
何を基準に、何が正しいと考えればいいのか。分からない。
朝は完全に、理解できない現実の中で遭難した。
「お前自身、我等を倒す切り札になろうと思って身を潜めていたのだろうが、無意味だったわけだ。最早、お前の力では我等は倒せぬ。残念だったな」
悪鬼は同情めいた言葉を吐きつつも、顔には慈悲の欠片もなかった。体中から何本もの触手みたいな腕を伸ばして、朝を攻撃してきた。
体を激しく殴打され、切り付けられる。朝の体に激痛が走り、血が噴き出した。
悪鬼殺しの力が意味をなさなくなった今、朝に悪鬼に対抗する術はない。その絶望が、朝から逃げ出す気力さえ奪った。
四季姫たちの役に立てないのなら、何のために封印から出て、生き永らえたのだろう。
「哀れだなぁ。封印の中で、力尽きて果てておけば、幸せだったのになぁ」
悪鬼が笑う。奴の言う通りだ。やっぱり、封印の外になんて、出てくるべきではなかった。
「……殺せ。抵抗しない」
朝の心が、折れた。動く気力もない。あとは、悪鬼のなすが儘に、身を委ねるだけだ。
「なに、まだ殺しはしない。お前には、まだ使い道があるからなぁ。妖怪どもが失敗した時のために、お前には四季姫をおびき寄せる餌になってもらう」
悪鬼の危惧は、的を射ていた。
悪鬼が嗾けた、梓とかいう妖怪の子供は、椿から引き離して軽く脅したら、もう四季姫には近付かないと言っていた。妖怪の側から身を引けば、もう、四季姫たちが危ない場所にやってくる理由も必要もない。
悪鬼も薄々、作戦の失敗に気付いている。次の手段に向けて、新しい手札に朝を使おうと企んでいるのだろうが、きっと無意味だ。
「四季姫なんて、誰も、来るはずがない……。僕なんかに、人質の価値があるとでも思うのか」
朝は自嘲して、鼻で笑った。悪鬼を倒せない朝なんて、下等妖怪以下の存在だ。誰も見向きもしない。
利用価値のない道具を、わざわざ危険を冒して拾いに来る馬鹿もいないだろう。
朝の言葉を聞き、悪鬼は再び笑い出した。
「なんだ、見捨てられたのか。そうだな、今のお前は、役立たずだもんなぁ」
まるで、朝の心の声を代弁するかのような台詞だった。正論のはずなのに、妙に苛立ち、心が痛んだ。
「なら、別に手加減する必要もないな。生きるか死ぬかは、運次第だ」
悪鬼は再び、触手を突き出して朝に狙いを定めてきた。適当に打ち込んで、朝を捕獲するつもりらしい。
これ以上、生き恥をさらすつもりはない。うまく場所を調整して、悪鬼の触手が急所を貫くように移動しよう。
朝は己の死を確実なものにするために、集中力を高めた。
触手が矢のごとく飛んできた瞬間。
朝は体を押し飛ばされて、地面に転がった。触手は全て外れ、背後の木に突き刺さった。
呆然と空を見ると、朝の上に馬乗りになり、息を切らせる宵の姿があった。
「何をボサっとしてやがる! あんな奴の攻撃、お前なら躱せるだろう!?」
宵に怒鳴られた。普段なら言い返すところだが、今はそんな気力もない。
止められるだろうから、何も告げずに出てきたのに。わざわざ危険な場所に追いかけてくるなんて。
宵は朝とは違い、より純粋な妖怪に近い。そのせいで、強い妖気を発する度に悪鬼に感知され、幾度も食われそうになりながら、怯えて逃げる生活を続けていた。
悪鬼を恐れる宵の心理は、朝もよく分かっている。深淵の悪鬼の住処に突っ込んでくるなんて、どれほどの覚悟と勇気が必要だったか。
こんな、無能な兄のために。
「お前は、相変わらず無茶ばかりするな、宵」
申し訳ないと思いつつも、強がっている宵の姿を見ていると、憎まれ口しか出てこなかった。
千年前も、人柱になると決めた朝を助けるために四季姫たちに食って掛かり、逆に封印されてしまった。本当は、兄である朝が、宵に危害が及ばないように守らなければならなかったはずなのに。守ろうとしてきたのに。
いつも、宵は朝の気持ちを裏切って、余計な行動ばかりする。
「朝よりマシだ」
宵は表情を歪ませて、朝を睨み付けた。
「昔から、ずっと言ってきただろう。何でも一人で背負い込むな。お前のお荷物なんて、俺は御免なんだよ。俺の妖怪の力も戻った。充分、戦えるんだからな」
何度も聞かされてきた、宵の小言だ。陰陽師に捕えられ、朝の枷となる立場を、宵はずっと嫌っていた。
いつも、朝と対等であろうとしていた。
昔を思い出して、少し懐かしくなった。
朝は小声で、「悪かった」と囁いた。何度も繰り返されてきた、兄弟のお決まりの会話だ。
宵はあまり真剣に受け止めていない顔で、鼻を鳴らした。
「どうして反撃しない。奴はまだ、呪縛から解放されたばかりで、満足に体も動かせていないんだぞ」
「どのみち、無理なんだ。僕たちが封印されている間に、世の中の理が変化した。……僕の悪鬼殺しの力は、こいつらには通用しない」
「何だと……!?」
朝の話を聞くと、宵の表情も一気に歪んだ。やっぱり誰でも、同じ反応になる。
「だったら、逃げるぞ。一度体勢を整え直すんだ。他の方法を探せばいい」
宵は素早く考えを纏めて、朝の腕を首に回し、立ち上がらせた。
「お前だけ逃げろ。悪鬼に食わせるわけにはいかない。手負いの僕を連れていては、確実に逃げられない」
「馬鹿言ってんじゃねえぞ! 何のために、お前を追いかけてきたと思ってるんだ!」
朝は拒否し、宵から離れようとした。だが、宵は断固として、朝の手を離そうとしない。
「僕を連れて行ったところで、もう、何の力にもなれない……。悪鬼を倒す力を持たない僕は、ただの役立たずだ」
「春姫が、朝にそう言ったのか?」
宵が眉を顰め、嫌悪感を示す。
以前から、宵は春姫が朝に見せる我儘な態度を嫌う態度を見せる時があった。朝が強引に無茶を強いられているみたいに感じたのかもしれない。
そうではない、と何度も言い聞かせてきたが、あまり伝わっていないのだろう。
朝は再度、宵に言い正した。
「僕が、そう判断したんだ。誰かに言われたわけじゃないよ」
朝は宵に笑いかけた。宵の手を素早く振り解き、突き飛ばした。油断していた宵は、木々の奥に広がる低木の茂みに転がっていった。
朝は激痛の走る体に鞭打ち、宵を背に庇う体勢で立ち上がった。
長々と言い合っている時間は、なさそうだ。
視線を向けた先では、悪鬼がゆっくりと狙いを定めている。いつでも攻撃ができる、といった様子で、余裕綽々に構えていた。
「できの悪い兄で、悪かった。お前はもっと賢い方法で、大切な人を守るんだ」
背後の弟に、囁いた。
こんな無能な兄のために、危険を冒してやってきてくれた弟に詫びた。
まっすぐ、正しい未来を見据えて進んでいける力を、宵は持っている。助けて、支えてくれる人たちも側にいる。必ず、人として幸せになれるはずだ。
朝とは違う。だから、きっと大丈夫だ。
続けて、この世の、朝を必要としてくれたすべてのものに、心の中で謝った。
最後に、心から愛する大切な人に、詫びた。
――役に立てずに、申し訳ありません。せめて、貴女の力になれる存在でありたかった。
椿には、酷い言葉をぶつけた。足止めをするためとはいえ、身体も心も傷つけた。
今更、何を言っても許してくれないだろう。心を開いてもくれないだろう。
だが、ちょうどいい。
朝の死を憐れんで泣く椿の姿なんて、想像もしたくない。
悪鬼の触手が、今度こそ迷いなく飛んでくる。朝は目を閉じた。
「やめろ、兄貴!」
背後から、茂みから飛び出す音と、宵の大声が聞こえた。
同時に、朝の体を悪鬼の狂気が貫いた。
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この小説はフィクションです。登場する人物の氏名などは実在の人物と関係ありません。
ついでに言って法律にも詳しくないので突っ込まないでください。
オニカノ・スプラッシュアウト!
枕崎 純之助
ファンタジー
登場人物
・鬼ヶ崎《おにがさき》雷奈《らいな》
最強にして最凶の鬼「悪路王」を背負い、類まれな戦闘能力で敵を討つ黒鬼の巫女。
ただし霊力は非常に低く自分の力だけでは悪路王を操れないため、パートナーである響詩郎の力に頼っている。
・神凪《かんなぎ》響詩郎《きょうしろう》
魔界生まれの帰国子女。「勘定丸」と呼ばれる妖魔をその身に宿し、人の犯した罪を換金する「罪科換金士」。戦闘能力は皆無だが、膨大な霊気を持つ少年。
・薬王院《やくおういん》ヒミカ
中国大陸から渡って来た銀髪の妖狐。伝説の大妖怪を甦らせそれを兵器として使用することを目論み暗躍する。冷徹で残忍な性格で数々の悪事を行ってきた希代の犯罪者。
・趙香桃《チョウ・シャンタオ》
表向きは古物商の女店主だが、その裏で東京近郊の妖魔らを束ねる金髪の妖狐。響詩郎の師匠にして母親代わり。
・風弓《かざゆみ》白雪《しらゆき》
魔界の名家・風弓一族の姫。弓の腕前は一族随一。かつて一族の危機を救ってくれた響詩郎にぞっこんで、彼を夫に迎えようとあれこれ画策する。
・紫水《しすい》
白雪の側仕え。千里眼の持ち主で遥か彼方を見通すことが出来る。白雪が人間の響詩郎を夫にしようとしていることを内心では快く思っておらず、響詩郎が雷奈とくっつくよう画策している。
・禅智《ぜんち》弥生《やよい》
鋭い嗅覚を持つ妖魔の少女。その能力で妖魔の行方を追うことが出来る。彼女の祖父である老妖魔・禅智内供が響詩郎と旧知の仲であり、その縁から響詩郎の依頼を受ける。
・シエ・ルイラン
趙香桃に仕える妖魔の少女。全力で走れば新幹線を追い越せるほどの自慢の韋駄天を駆使し、その足で日本国内を駆け巡って配達業務を行う。性格はまるで幼い子供のよう。
*イラストACより作者「せいじん」様のイラストを使わせていただいております。
彼女たちは爛れたい ~性に積極的すぎる彼女たちと普通の青春を送りたい俺がオトナになってしまうまで~
邑樹 政典
青春
【ちょっとエッチな青春ラブコメディ】(EP2以降はちょっとではないかも……)
EP1.
高校一年生の春、俺は中学生時代からの同級生である塚本深雪から告白された。
だが、俺にはもうすでに綾小路優那という恋人がいた。
しかし、優那は自分などに構わずどんどん恋人を増やせと言ってきて……。
EP2.
すっかり爛れた生活を送る俺たちだったが、中間テストの結果発表や生徒会会長選の案内の折り、優那に不穏な態度をとるクラスメイト服部香澄の存在に気づく。
また、服部の周辺を調べているうちに、どうやら彼女が優那の虐めに加担していた姫宮繭佳と同じ中学校の出身であることが判明する……。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
本作は学生としてごく普通の青春を謳歌したい『俺』ことセトセイジロウくんと、その周りに集まる性にアグレッシブすぎる少女たちによるドタバタ『性春』ラブコメディです。
時にはトラブルに巻き込まれることもありますが、陰湿な展開には一切なりませんので安心して読み進めていただければと思います。
エッチなことに興味津々な女の子たちに囲まれて、それでも普通の青春を送りたいと願う『俺』はいったいどこまで正気を保っていられるのでしょうか……?
※今作は直接的な性描写はこそありませんが、それに近い描写やそれを匂わせる描写は出てきます。とくにEP2以降は本気で爛れてきますので、そういったものに不快に感じられる方はあらかじめご注意ください。
小説女優《ノベルアクトレス》~あたしは小説を演じて、小悪魔先パイに分からされちゃう???~
夕姫
青春
『この気持ちは小説《嘘》じゃないから。だから……ずっと一緒にいてほしい……』
思春期女子が共感できるところが1つはある。涙なくしては語れない至極のモヤキュン青春百合小説誕生!どうぞ御堪能ください✨
※プロローグは前置きで本編は2話から始まります。
【あらすじ】
様々なジャンルの中で唯一「恋愛物」が嫌いな主人公 新堂凛花(しんどうりんか)。
彼女は恋愛物以外ならなんでも好き。小説の中の恋愛はあり得ないと常々思っている。
名門花咲学園に入学した凛花は、必ず部活に入らなくては行けない決まりを知り、見たことも聞いたこともないような部活の「小説同好会」に興味を持つ。
そしてその小説同好会に行くと黒髪で美人な見た目の二年生の先パイ 小鳥遊結愛(たかなしゆあ)がいた。
彼女は凛花を快く迎えいれてくれたが、凛花が恋愛物の小説が嫌いと知ると態度が一変。
そう、ここは小説同好会ではなく小説演劇同好会だったのだ。恋愛経験も乏しく男性経験もない、恋愛物を嫌っている主人公の凛花は【小説女優】として小鳥遊結愛先パイに恋愛物の素晴らしさを身を持って分からされていくことになるのだが……。
この物語は女子高生の日常を描いた、恋に勉強に色んな悩みに葛藤しながら、時に真面目に、切なくて、そして小説を演じながら自分の気持ちに気づき恋を知り成長していく。少しエッチな青春ストーリー。
雪と桜のその間
楠富 つかさ
青春
地方都市、空の宮市に位置する中高一貫の女子校『星花女子学園』で繰り広げられる恋模様。
主人公、佐伯雪絵は美術部の部長を務める高校3年生。恋をするにはもう遅い、そんなことを考えつつ来る文化祭や受験に向けて日々を過ごしていた。そんな彼女に、思いを寄せる後輩の姿が……?
真面目な先輩と無邪気な後輩が織りなす美術部ガールズラブストーリー、開幕です!
第12回恋愛小説大賞にエントリーしました。
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