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第二部 四季姫進化の巻

十三章 Interval~現実逃避~

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 榎たちがけしかけた、妖怪騒ぎが収まった後。
 楸を麓まで送り届けた宵は、了封寺の自室に戻ってきた。
 居候の宵に当てがわれた部屋は、裏庭や墓地に面する静かな和室だった。縁側から見て左隣が朝の部屋、反対隣が了生の部屋だ。
 着の身着のまま寺に居座り始めた宵の部屋には、特に大仰な荷物はない。布団と勉強用の座卓。人間として暮らすために買い揃えてもらった制服や教科書など、学校で使用するもの。日用品や私服などは、了生のお下がりがほとんどだ。
 殺風景な畳の部屋の端には、壁に掛け軸が飾られ、宵一人くらいなら、すっぽり入れそうな大きな水瓶が置いてあった。元々は客間として使っていたのだろう。
 制服から普段着の作務衣に着替えて、呆然と座卓の前で胡座を掻く。
 宵が大怪我をしたと八咫に騙され、楸は血相を変えて駆け付けてくれた。
 楸は優しい。いつもの冷静さを欠いてまで、宵の体を心配してくれた。
 嬉しかった。力を封じられてから、どことなく愛想を尽かされている気がして不安になっていたから、尚更、安心感は大きかった。
 同時に、楸の口から初めて聞いた本音が、頭の中で引っ掛かっていた。

『……私は、宵はんが人間になってくださって、嬉しかったどす。私が秋姫としての使命を果たし、 妖怪や悪鬼に脅かされずに暮らせる時がきたら、人として、 同じ道を歩めるかもしれんと、希望が持てましたから』

 そう呟いた楸の、少し控え目な笑顔を思い出すと、複雑な気持ちに襲われた。
「楸は、俺に人間でいて欲しかったのか……。全っ然、知らなかったな」
 楸は四季姫の中で誰よりも、周囲の安全や平穏を望む少女だ。本当は戦いなんて好きではない。
 そんな穏やかな性格を知っていたのに、本当の気持ちにかなかった。結局、理解していた気になっていただけだ。
 情けなかった。
 楸の本音が分かるに連れて、宵の気持ちが揺らぎはじめた。
 封印を破って、妖怪に――宵月夜に戻ろうと、固く決意したのに。
 楸の寂しそうな表情を思い出すと、途端に優柔不断になる。
「人間でも妖怪でも関係ないって言ってくれたけど、心の中じゃ、残念がってるのかもしれないし……。でも、妖怪の力を取り戻さないと、楸を助けてやれないし……」
 とことん、悩む。現状維持をして、人間として楸の側で癒し要因として暮らすか。
 妖怪の力を取り戻し、現在の生活を捨ててでも、秋姫と肩を並べて戦うか。
 前者なら、秋姫が妖怪や悪鬼に危険な目に遭わされても、助けてやれない。後者なら、力にはなれるが、戦いが終わった後に、楸の元を去らなくてはならなくなる。
 究極の選択。悩んでも悩んでも、答が出なかった。
「考えても、埒が明かねえな。どうすりゃいいんだ、俺は」
 煩悶して、頭を掻き毟る。じっと座っていられなくなり、立ち上がって部屋の中をうろつきはじめた。
 気持ちが苛立つ。壁でも殴って発散したいところだが、部屋のものを壊すと燕下えんげ親子に成敗され、簀巻きで宙吊りにでもされかねない。
 悩みや苛立ちに板挟みにされた結果。宵は嫌気がさして、空の水瓶の中に頭から突っ込んだ。
 狭い暗い場所にはまり込んでいると、何となく落ち着いた。
「宵。何をしているんだ?」
 部屋の前を通り掛かった朝が、開いたままだった部屋の出入口から、声をかけてきた。水瓶に食われている宵を見て、不審に思ったのだろう。
「現実逃避」
 宵は無感情に、坦々と応えた。瓶の中で声が反響して、震える。
 朝はしばらく、返事に困っていた雰囲気で黙り込んでいたが、やがて脱力した息遣いが聴こえてきた。
「……夕餉ゆうげまでには、帰ってこいよ」
「おうよ」
 動く気のない宵を残し、朝の足音は遠くなっていった。
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