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第二部 四季姫進化の巻
十二章 Interval~嚥下 了生~
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気付くと了生は、寺の裏の墓地に佇んでいた。
墓地の最奥にある、墓を持てなかった者達の魂を鎮めるための墓碑。
了生の母親も、この墓碑に弔われていた。
理由は知らないが、母には墓がない。遺影も遺骨も存在しない。
一房の髪だけが本尊に祀られ、魂はこの墓碑に供養されていた。
石碑を眺めながら、懐かしい過去を思い起こす。
まだ、了生が幼かった頃。母を恋しがって、毎日墓碑にしがみついていた時期があった。
盆の頃になると、死んだ人の魂が帰ってくると知り、記憶にない母親の姿を求めて、墓前に居座り続けていた。
一目でも母に会えれば、了生に纏わり付く孤独を消し去る方法を教えてもらえると思っていた。
「死者の成仏を妨げてはならん」と、了海に何度も叱られた。
努力の甲斐なく、母親らしき仏とは、一度も出会えなかった。いい加減、潮時だと理解した。
以来、この墓には近付かなくなった。
* * *
その後、最近まで忘れていたその癖は、初めて愛した女性――緑の死と共に再発した。
大雪の日。緑の命は、文明の利器によって、容易く奪われた。
人を愛する喜びを知り、母のいない孤独感から、ようやく抜け出せそうになっていた矢先だったのに。
最愛の人との死別は、了生の中に再び、苦悩の闇を生じさせた。
去年も一昨年も、盆の頃になると、了生は墓碑の前にいた。
どうすれば、緑を失った悲しみから解放される?
その答を、緑なら知っている。了生が問えば、きっと教えてくれる。
念じ続けていれば、霊体となった緑が、会いに来てくれるかもしれない。毎年、了海に妨害されながらも、ひたすら愛した人の姿を求め続けてきた。
腑抜けた日々。最早、生きているのか死んでいるのかさえ、分からない。
目的も生き場もなく、ただ漂っていただけ。
地獄の毎日が幾度も過ぎた。
だが、時が移ろい、今までと違う季節が訪れた。
* * *
新しい光を感じた春。
覚醒を遂げた四季姫達との出会いが、了生の人生を大きく変えた。
特に、冬姫――師走 柊は、了生にとって頼もしい存在となった。
柊が胸の内に抱えた、了生と似た孤独感。明るく振舞っていても、時折見せる濃い影が、他人事だとは思えなかった。
一緒に支えあって修業をすれば、互いの煩悩を克服できるかもしれない。緑が、母のいない孤独を打ち消してくれた時と同様に、柊もまた、緑を失った虚無感を消し去ってくれるのではと考えた。
実際、柊は持ち前の熱心さと誠実さで、了生の脆弱な心を救ってくれた。
先日、出向いた葬式の席。亡くなった仏の面影が、緑によく似ていたせいで、再び死者への未練に強く取り憑かれた。
その時も、再三、墓碑の前に立ってしまった。弱い了生を、柊はすぐに現実の道へ引き戻してくれた。
柊の存在に、了生は幾度も救われた。前向きな姿勢に触れていると、とても居心地がよく、一方的に甘えてしまっていた。
その結果、柊は去っていった。
〝――了生はんを、好きになってしもうたから〟
生気をなくした柊の顔と、消え入りそうな言葉が思い出され、胸に突き刺さる。了生は顔を手で覆った。
柊の親切に身を委ねながらも、心の中では常に、緑への未練を引き摺り続けていた。
柊は、緑の死を知らない。だから、了生が孤独から抜け出す拠り所を他に持っていると考え、裏切られた気持ちになったのだろう。
その通りだ。了生は、柊の気持ちを裏切った。柊を信じる反面、修行が上手くいかなかったときの逃げ道を、一人で確保していた。
その後、残された柊がどうなるか、考えもせずに。
柊は了生が思っていたほど、強い娘ではなかった。
苦しみから逃れるために、心を凍らせていただけ。何を望んでも無駄だと諦めて、開き直っていただけ。
悩む行為さえ、放棄していた。ある意味、了生よりも重症だ。
見た目は大人びていても、実際は了生より、ひとまわりも幼い少女なのだから。心だって未発達だし、不安定な年頃だ。
柊はずっと、崩れそうな脆い心を了生に委ねて、了生だけを心の支えにして、辛い修業に挑んでいた。
なぜ、その想いに気付けなかったのか。すぐに察して、何らかの答を出せなかったのか。
悔やんでも、悔やみきれない。
いくら後悔したところで、もう、柊はいない。
その虚無感は、果てしなく大きかった。
心にぽっかりと穴が空いた気分だ。頭が朦朧として、何も考えられない。
静寂。
久しぶりに感じた、賑わいのない世界は、とてつもなく恐ろしく感じた。
同時に、どれだけ柊の存在に助けられていたか、嫌というほど実感できた。
ようやく、気付く。
了生の中にも、柊は特別な人として存在し続けていた。
遅すぎた自覚は、喪失の傷しか生み出さなかった。了生が未熟なばかりに、また、かけがえのない相手を失った。
了生の脳裏に、美しく凛々しい、冬姫の姿が蘇る。
長い、柔らかな髪を結い上げる、鮮やかな葉牡丹の髪飾りに、意識を持っていかれる。
以前、誰かが言っていた。
葉牡丹は、花の咲かない冬を彩るためだけに作り上げられた、偽の代花だと。
美しさを主張するでもなく、春の温かさを望みもしない。
春になり、多くの草花が芽吹く頃。枯れて役目を全うする。周囲が満たされた姿を喜びながら、永い眠りにつく。
凍りついた孤独の世界で精一杯生きる、儚い花なのだと。
柊は、精一杯、花を咲かせることすらできなかったのではないか。
冬の氷が溶けぬ間に、了生が枯らしてしまった。
枯れた花を、もう一度咲かせる方法なんて、了生は知らない。
もう、柊の笑顔を取り戻す力は、了生には、ない。
「俺は、どうすればいい? もう、手遅れなんか。教えてくれ、緑……」
途方に暮れ、気付けば了生は、墓碑に縋り付いていた。
「苦しいのね。もう、何も背負わなくていいのよ」
直後。背後で砂利を踏む音がした。
振り返った先には、決していてなはらぬ存在が、佇んでいた。
清楚なワンピースを身につけた、細身の女性。白い肌に、薄い水色の生地が映える。
黒髪を靡かせながら、微笑む。
了生が失ったはずの、最愛の人だった。
* * *
「――緑?」
呆然と、呟く。
かつて愛したその人は、了生と向かい合って、寂しげな笑顔を浮かべていた。
「了生さんが、ずっと呼び止めてくれるから、後ろ髪を引かれて、成仏できないの」
緑の言葉は、了生の心に深く突き刺さった。
了生が、墓前で魂を引き止め続けたせいで、緑は現世を彷徨っていたのか。
だが、そんな筈はない。了生は気を取り直した。
「寺に残っておった冬待ち仏は、みんな成仏したはずや。冬姫様が、全ての柵を、取り除いて下さった」
だから、もうこの地に、未練を残した仏は残っていない。
「どんな邪魔が入っても、私とあなたの絆は断ち切れないわ。お互いに、求め合っているのだもの」
緑は笑顔を浮かべ、了生に抱きついてきた。
質感のない抱擁。だが、了生の集中力を乱すには、充分だった。
「私が死んでから、とても辛い思いをしてきたのね。ごめんなさい、一人で先にいってしまって」
「お前は、何も悪うない。俺こそ、助けてやれずに、済まんかった」
三年越しの、謝罪。墓前で伝えられなかった言葉を、ようやく渡せた。
「緑を失ってから、どうしても孤独感から抜け出せずに、苦労しとる。どうすれば、解放されると思う?」
ずっと訊きたかった問いを、投げかけた。
「了生さんが望むものは、この世では手に入らないわ。すぐに遠くへ、行ってしまうもの」
緑の言葉は、的を射ていた。何かを望んでも、ずっと側にはあり続けない。死んだものは別れ、生きたものは去っていく。
「だから、了生さんも、私のところへ来ればいいのよ。何もかも、終わりにして」
緑は妖艶に、微笑んだ。
「あなたと、離れたくないの。了生さんも、同じ気持ちでしょう? だから、ずっと呼んでくれていたのでしょう? 私も、同じ気持ちよ。いつまでも、側にいたいの」
もう、二度と聞けないと思っていた声が、激しく鼓膜を震わせる。了生の心が、また揺らぐ。
拒めない。何を言われても、従いたくなる。
「だから、迎えにきたのよ。了生さん、一緒にあの世へ逝きましょう」
直後。緑の腕に、急に質量が生じた。
白く細い手が実体化し、了生の首を締め付けはじめた。緑の腕が伸び、了生の体を、じりじりと宙に浮かび上がらせる。
苦しさが勝ると共に、了生の頭も冷静さを取り戻していく。
了生の視界に入り込んだものは、かつての恋人ではなく、おぞましい姿をした化け物だった。
「何や、お前は。妖怪か……?」
我に返り、抵抗しようとするが、体に力が入らない。
愚かだった。煩悩に苛まれ、不幸に酔いしれて逃げている間に、邪なものに付け入られるとは。
妖怪は裂けた口で、不気味に笑った。
「最愛の女を失って、寂しいのだろう? 忘れられぬのだろう? 会いたいのだろう? お前の望みを、叶えてやるぞ。お前の命と、引き換えになぁ!」
妖怪が、口から紫煙を吐き出した。妖怪の姿が、再び微笑む緑のものに変わっていく。
こんな化け物に、了生の苦悩を、緑の存在を利用されるなんて。
絶対に許しがたい。了生の心に、怒りが湧く。
だが、このまま母や緑の元へ逝けるのならば、どうなっても構わない気持ちも引き出されていた。
死ねば苦痛から解放される。心の中で、薄々感じていた、一つの答でもあった。
妖怪に強制された意見ではない。間違いなく、了生の本音だ。
己の意志には、逆らえない。了生は死を望んでいたのだと、ようやく悟った。
意識が、薄らいでいく。微かに残った、死に抗う気持ちも、消えそうになった。
この場で命尽きるのならば、了生の現世での役割は終わったのだろう。
四季姫も、無事に覚醒した。できるかぎりの助力も行った。
姫君たちは、強い。了生みたいな未熟な坊主がついていなくても、苦難を乗り越えてくれる。
了生を忘れ、自然の流れが傷を癒せば、柊も再び、誰かの側で美しい花を咲かせるだろう。
「柊さん、どうか、お幸せに――」
体から力が抜けはじめた。
意識が切れかけたとき。妖怪の悲鳴が響き渡った。
* * *
急に、首元の束縛が解かれた。
地面に投げ出され、倒れた了生は、激しく咳込む。
苦しい感覚が戻ってきた。まだ、生きている。
意識を取り戻し、妖怪を見る。体中に氷の棘を突き刺され、もがいていた。
周囲を覆う、冷気の霧。
了生の目の前には、大きな両刃の薙刀を構えた、冬姫が立っていた。
「幸せな妄想に浸るんは、人の自由やけどな。うちは気に入らんから、邪魔させてもらうで! 恨むんやったら、うちを恨んだらええ!」
柊の声が、頭の中にこだまする。
「うちを恨んで、生きてくれるんやったら、本望ですわ」
了生の頭の中が、綺麗に晴れ渡っていく。
以前、誰かが言っていた。
葉牡丹は、凍りついた世界でのみ生きる、悲しい花だと。
そんな筈はない。どんな過酷な環境を生き抜ける力を持っていても、温かな日差しを求めない花など、ありはしない。温もりを望んではならない存在など、この世にはない。
辛く厳しい冬を乗り越えた葉牡丹は、枯れた先から、再び目を吹き出す。
長い冬の苦しさを糧にして、他の何よりも、太陽に近付くために。
――葉牡丹の花は、二度、咲くのだから。
墓地の最奥にある、墓を持てなかった者達の魂を鎮めるための墓碑。
了生の母親も、この墓碑に弔われていた。
理由は知らないが、母には墓がない。遺影も遺骨も存在しない。
一房の髪だけが本尊に祀られ、魂はこの墓碑に供養されていた。
石碑を眺めながら、懐かしい過去を思い起こす。
まだ、了生が幼かった頃。母を恋しがって、毎日墓碑にしがみついていた時期があった。
盆の頃になると、死んだ人の魂が帰ってくると知り、記憶にない母親の姿を求めて、墓前に居座り続けていた。
一目でも母に会えれば、了生に纏わり付く孤独を消し去る方法を教えてもらえると思っていた。
「死者の成仏を妨げてはならん」と、了海に何度も叱られた。
努力の甲斐なく、母親らしき仏とは、一度も出会えなかった。いい加減、潮時だと理解した。
以来、この墓には近付かなくなった。
* * *
その後、最近まで忘れていたその癖は、初めて愛した女性――緑の死と共に再発した。
大雪の日。緑の命は、文明の利器によって、容易く奪われた。
人を愛する喜びを知り、母のいない孤独感から、ようやく抜け出せそうになっていた矢先だったのに。
最愛の人との死別は、了生の中に再び、苦悩の闇を生じさせた。
去年も一昨年も、盆の頃になると、了生は墓碑の前にいた。
どうすれば、緑を失った悲しみから解放される?
その答を、緑なら知っている。了生が問えば、きっと教えてくれる。
念じ続けていれば、霊体となった緑が、会いに来てくれるかもしれない。毎年、了海に妨害されながらも、ひたすら愛した人の姿を求め続けてきた。
腑抜けた日々。最早、生きているのか死んでいるのかさえ、分からない。
目的も生き場もなく、ただ漂っていただけ。
地獄の毎日が幾度も過ぎた。
だが、時が移ろい、今までと違う季節が訪れた。
* * *
新しい光を感じた春。
覚醒を遂げた四季姫達との出会いが、了生の人生を大きく変えた。
特に、冬姫――師走 柊は、了生にとって頼もしい存在となった。
柊が胸の内に抱えた、了生と似た孤独感。明るく振舞っていても、時折見せる濃い影が、他人事だとは思えなかった。
一緒に支えあって修業をすれば、互いの煩悩を克服できるかもしれない。緑が、母のいない孤独を打ち消してくれた時と同様に、柊もまた、緑を失った虚無感を消し去ってくれるのではと考えた。
実際、柊は持ち前の熱心さと誠実さで、了生の脆弱な心を救ってくれた。
先日、出向いた葬式の席。亡くなった仏の面影が、緑によく似ていたせいで、再び死者への未練に強く取り憑かれた。
その時も、再三、墓碑の前に立ってしまった。弱い了生を、柊はすぐに現実の道へ引き戻してくれた。
柊の存在に、了生は幾度も救われた。前向きな姿勢に触れていると、とても居心地がよく、一方的に甘えてしまっていた。
その結果、柊は去っていった。
〝――了生はんを、好きになってしもうたから〟
生気をなくした柊の顔と、消え入りそうな言葉が思い出され、胸に突き刺さる。了生は顔を手で覆った。
柊の親切に身を委ねながらも、心の中では常に、緑への未練を引き摺り続けていた。
柊は、緑の死を知らない。だから、了生が孤独から抜け出す拠り所を他に持っていると考え、裏切られた気持ちになったのだろう。
その通りだ。了生は、柊の気持ちを裏切った。柊を信じる反面、修行が上手くいかなかったときの逃げ道を、一人で確保していた。
その後、残された柊がどうなるか、考えもせずに。
柊は了生が思っていたほど、強い娘ではなかった。
苦しみから逃れるために、心を凍らせていただけ。何を望んでも無駄だと諦めて、開き直っていただけ。
悩む行為さえ、放棄していた。ある意味、了生よりも重症だ。
見た目は大人びていても、実際は了生より、ひとまわりも幼い少女なのだから。心だって未発達だし、不安定な年頃だ。
柊はずっと、崩れそうな脆い心を了生に委ねて、了生だけを心の支えにして、辛い修業に挑んでいた。
なぜ、その想いに気付けなかったのか。すぐに察して、何らかの答を出せなかったのか。
悔やんでも、悔やみきれない。
いくら後悔したところで、もう、柊はいない。
その虚無感は、果てしなく大きかった。
心にぽっかりと穴が空いた気分だ。頭が朦朧として、何も考えられない。
静寂。
久しぶりに感じた、賑わいのない世界は、とてつもなく恐ろしく感じた。
同時に、どれだけ柊の存在に助けられていたか、嫌というほど実感できた。
ようやく、気付く。
了生の中にも、柊は特別な人として存在し続けていた。
遅すぎた自覚は、喪失の傷しか生み出さなかった。了生が未熟なばかりに、また、かけがえのない相手を失った。
了生の脳裏に、美しく凛々しい、冬姫の姿が蘇る。
長い、柔らかな髪を結い上げる、鮮やかな葉牡丹の髪飾りに、意識を持っていかれる。
以前、誰かが言っていた。
葉牡丹は、花の咲かない冬を彩るためだけに作り上げられた、偽の代花だと。
美しさを主張するでもなく、春の温かさを望みもしない。
春になり、多くの草花が芽吹く頃。枯れて役目を全うする。周囲が満たされた姿を喜びながら、永い眠りにつく。
凍りついた孤独の世界で精一杯生きる、儚い花なのだと。
柊は、精一杯、花を咲かせることすらできなかったのではないか。
冬の氷が溶けぬ間に、了生が枯らしてしまった。
枯れた花を、もう一度咲かせる方法なんて、了生は知らない。
もう、柊の笑顔を取り戻す力は、了生には、ない。
「俺は、どうすればいい? もう、手遅れなんか。教えてくれ、緑……」
途方に暮れ、気付けば了生は、墓碑に縋り付いていた。
「苦しいのね。もう、何も背負わなくていいのよ」
直後。背後で砂利を踏む音がした。
振り返った先には、決していてなはらぬ存在が、佇んでいた。
清楚なワンピースを身につけた、細身の女性。白い肌に、薄い水色の生地が映える。
黒髪を靡かせながら、微笑む。
了生が失ったはずの、最愛の人だった。
* * *
「――緑?」
呆然と、呟く。
かつて愛したその人は、了生と向かい合って、寂しげな笑顔を浮かべていた。
「了生さんが、ずっと呼び止めてくれるから、後ろ髪を引かれて、成仏できないの」
緑の言葉は、了生の心に深く突き刺さった。
了生が、墓前で魂を引き止め続けたせいで、緑は現世を彷徨っていたのか。
だが、そんな筈はない。了生は気を取り直した。
「寺に残っておった冬待ち仏は、みんな成仏したはずや。冬姫様が、全ての柵を、取り除いて下さった」
だから、もうこの地に、未練を残した仏は残っていない。
「どんな邪魔が入っても、私とあなたの絆は断ち切れないわ。お互いに、求め合っているのだもの」
緑は笑顔を浮かべ、了生に抱きついてきた。
質感のない抱擁。だが、了生の集中力を乱すには、充分だった。
「私が死んでから、とても辛い思いをしてきたのね。ごめんなさい、一人で先にいってしまって」
「お前は、何も悪うない。俺こそ、助けてやれずに、済まんかった」
三年越しの、謝罪。墓前で伝えられなかった言葉を、ようやく渡せた。
「緑を失ってから、どうしても孤独感から抜け出せずに、苦労しとる。どうすれば、解放されると思う?」
ずっと訊きたかった問いを、投げかけた。
「了生さんが望むものは、この世では手に入らないわ。すぐに遠くへ、行ってしまうもの」
緑の言葉は、的を射ていた。何かを望んでも、ずっと側にはあり続けない。死んだものは別れ、生きたものは去っていく。
「だから、了生さんも、私のところへ来ればいいのよ。何もかも、終わりにして」
緑は妖艶に、微笑んだ。
「あなたと、離れたくないの。了生さんも、同じ気持ちでしょう? だから、ずっと呼んでくれていたのでしょう? 私も、同じ気持ちよ。いつまでも、側にいたいの」
もう、二度と聞けないと思っていた声が、激しく鼓膜を震わせる。了生の心が、また揺らぐ。
拒めない。何を言われても、従いたくなる。
「だから、迎えにきたのよ。了生さん、一緒にあの世へ逝きましょう」
直後。緑の腕に、急に質量が生じた。
白く細い手が実体化し、了生の首を締め付けはじめた。緑の腕が伸び、了生の体を、じりじりと宙に浮かび上がらせる。
苦しさが勝ると共に、了生の頭も冷静さを取り戻していく。
了生の視界に入り込んだものは、かつての恋人ではなく、おぞましい姿をした化け物だった。
「何や、お前は。妖怪か……?」
我に返り、抵抗しようとするが、体に力が入らない。
愚かだった。煩悩に苛まれ、不幸に酔いしれて逃げている間に、邪なものに付け入られるとは。
妖怪は裂けた口で、不気味に笑った。
「最愛の女を失って、寂しいのだろう? 忘れられぬのだろう? 会いたいのだろう? お前の望みを、叶えてやるぞ。お前の命と、引き換えになぁ!」
妖怪が、口から紫煙を吐き出した。妖怪の姿が、再び微笑む緑のものに変わっていく。
こんな化け物に、了生の苦悩を、緑の存在を利用されるなんて。
絶対に許しがたい。了生の心に、怒りが湧く。
だが、このまま母や緑の元へ逝けるのならば、どうなっても構わない気持ちも引き出されていた。
死ねば苦痛から解放される。心の中で、薄々感じていた、一つの答でもあった。
妖怪に強制された意見ではない。間違いなく、了生の本音だ。
己の意志には、逆らえない。了生は死を望んでいたのだと、ようやく悟った。
意識が、薄らいでいく。微かに残った、死に抗う気持ちも、消えそうになった。
この場で命尽きるのならば、了生の現世での役割は終わったのだろう。
四季姫も、無事に覚醒した。できるかぎりの助力も行った。
姫君たちは、強い。了生みたいな未熟な坊主がついていなくても、苦難を乗り越えてくれる。
了生を忘れ、自然の流れが傷を癒せば、柊も再び、誰かの側で美しい花を咲かせるだろう。
「柊さん、どうか、お幸せに――」
体から力が抜けはじめた。
意識が切れかけたとき。妖怪の悲鳴が響き渡った。
* * *
急に、首元の束縛が解かれた。
地面に投げ出され、倒れた了生は、激しく咳込む。
苦しい感覚が戻ってきた。まだ、生きている。
意識を取り戻し、妖怪を見る。体中に氷の棘を突き刺され、もがいていた。
周囲を覆う、冷気の霧。
了生の目の前には、大きな両刃の薙刀を構えた、冬姫が立っていた。
「幸せな妄想に浸るんは、人の自由やけどな。うちは気に入らんから、邪魔させてもらうで! 恨むんやったら、うちを恨んだらええ!」
柊の声が、頭の中にこだまする。
「うちを恨んで、生きてくれるんやったら、本望ですわ」
了生の頭の中が、綺麗に晴れ渡っていく。
以前、誰かが言っていた。
葉牡丹は、凍りついた世界でのみ生きる、悲しい花だと。
そんな筈はない。どんな過酷な環境を生き抜ける力を持っていても、温かな日差しを求めない花など、ありはしない。温もりを望んではならない存在など、この世にはない。
辛く厳しい冬を乗り越えた葉牡丹は、枯れた先から、再び目を吹き出す。
長い冬の苦しさを糧にして、他の何よりも、太陽に近付くために。
――葉牡丹の花は、二度、咲くのだから。
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