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第二部 四季姫進化の巻

第十二章 冬姫進化 3

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 朝食後。居間で待つ柊の元へ、了生が墨汁と筆を持ってきた。
 普段の作務衣姿ではなく、袈裟を纏って正装していた。
「修業に入る前に、冬姫様の力を抑えさせてもらいます」
 指示されるままに、柊は足の裏を了生に向けた。了生は墨をつけた筆で、柊の足に文字を書き始めた。
 小刻みに動く筆が足の裏を走り回り、堪え切れなくなった。
「ぎゃははは、了生はん、こそばい! 堪忍してや!」
「すぐに済みますから! 少しだけ、堪えてください」
 暴れたくなる足を何とか押さえ付け、柊は必死に我慢した。まだ始まっていないのに、既に過酷な試練を受けている気分だ。
 筆が離れ、安堵する。足の裏を見ると、ミミズがのたくった達筆な文字が、びっしりと書かれていた。
「習字が上手ですな。流石ですわ」
 仏僧のお勤めには、写経も含まれている。なので字の上手な坊主は、意外と多い。
「いちおう、書道初段なんで」
 褒めると、了生は照れていた。
「この印によって、冬姫様の力は吸い取られ、三割程度しか出せなくなりました。変身して陰陽師の技を駆使し、封印を解いてください」
 体に重を付けて、トレーニングする感覚か。イメージを掴み、柊は納得した。
「封印が解けたときには、今よりもさらに強くなれとるわけやな」
「その通り。己に打ち勝つための戦いです」
 了生は頷いた。
「負荷を掛けての修行の効果は、覿面です。成功すれば、古文書に記された技も問題なく発動できます」
 禁術を使うためのコツを掴む修業ではなく、まずは基礎力の底上げが大事らしい。
 地味な鍛練になりそうだが、強くなれるなら文句はない。
「ほな、いっちょう気張ろうか」
 要領が分かれば、さっさと実践するのみだ。柊は立ち上がり、庭へと繰り出した。
 爽やかな夏の風に吹かれながら、葉牡丹の形をした髪飾りを握りしめ、力を込めた。
「風乱れ 降り頻る雪 地に積もる 君と包めや 白き壁かな」
 青白い光が体を包み、周囲の気温が一気に下がる。真夏の空にそぐわない牡丹雪が、ひらひらと舞っていた。
「――冬姫、見参や!」
 柊は、青い着物を基調とした十二単を身に纏い、身長よりも長い薙刀を構えた。
「俺が相手になります。どんどん、強力な攻撃を仕掛けてください」
 変身した柊の前に、錫杖を持った了生が向かい合った。
 了生の強さは、今までの戦いで把握している。冬姫の力も抑えられている状態だし、全力でぶつかっても大丈夫だ。
「ほな、お言葉に甘えて。〝氷柱の舞〟!」
 柊は手始めに、術を放った。初めて了生と出会い、冬姫に覚醒した時に使用した、思い出の技だ。
 足元の砂利や苔が凍りつき、尖った氷柱が地面から突き出して、了生を襲う。
 だが、普段から見馴れている氷柱の半分程度の長さしかない。凍てついた地面の面積も狭く、了生にはあっさりと躱されてしまった。
「しょぼいなぁ! 冬姫はんの力が、めっちゃ弱なっとる……」
 力を封印された影響が思いの外、大きい。柊はショックを受けた。
 しかも、簡単な技を使っただけなのに、疲労が激しい。息が切れ、薙刀を支えにしなければ、まっすぐ立っていられなかった。
 目眩がする。貧血よりも、厳しい怠さに襲われた。
「体に、力が入らへん。ごっつう、しんどいわ」
「焦らずに。時間はあります。ゆっくり、体を順応させていきましょう」
 初日から、かっ飛ばすつもりだったが、体力不足であえなく撃沈した。
 変身を解いた柊は、了生に支えられて部屋に戻った。

 * * *
 夜は、了海の作った味の薄い精進料理を貰い、早目に床についた。
 明日からは、もっと頑張らなければならない。
 気合を入れるが、体は疲れきって、地面に張り付きそうに重い。なのに、頭はとても冴えて、なかなか寝付けなかった。
 山の上にある寺は、麓よりも涼しく過ごしやすい。だが、妙に寝苦しさを覚えて、柊は起き上がった。四つん這いになって障子を開くと、夜空には満点の星と、少し欠けた月が輝いていた。
 縁側の柱にもたれ掛かり、柊は呆然と、空を見上げた。
 静かだ。田園地帯の夏は、蛙の鳴き声が五月蝿くて、窓も開けていられないのに。
 慣れていないからだろうか。寺の夜は静かすぎて、妙に物寂しさを覚えた。
 孤独や静寂には、慣れたつもりでいた。だが、昼間の賑やかさとのギャップが大きすぎて、気持ちが不安定になる。
 ――己に打ち勝つための戦い。
 了生は柊に課せられた修業を、そう表現した。
 柊自身に打ち勝たなければ、強くなれない。言い換えれば、柊の心は弱いのだろう。
 親がそばにいなくたって、一人で逞しく生きてきたのだから。柊は、強い精神力を持っていると自負していた。なのに一番、自信のあったものを弱点として指摘されると、悔しかった。
 どうなった状態が、強いといえるのだろう。改めて考えると、さっぱり分からない。この修業、本当に柊が引き受けて良かったのだろうか。心の強さなら、榎のほうが格段に強い。
 急に気持ちが沈み、柊は膝を折って、蹲った。
「どうなさいました。具合でも、悪いですか?」
 声をかけられ、顔をあげる。浴衣姿の了生が、月明かりに照らされて立っていた。手洗いの帰りだろうか。
 心配そうな顔で、見下ろしてくる。柊は首を横に振り、笑い返した。
「寝付けんくて。柄にもなく頑張って修業なんてやったから、体が吃驚しとるんでしょうな」
 嘘ではない。少し前まで、金縛りみたいに体が動かなかった。気持ちが重くなって、ようやくバランスが取れた感じだ。
「何かに熱心に打ち込むなんて、本来のうちの性分には合わんのですわ。努力しても、ほんまに望む結果ほど、出ませんからな」
 会話の流れから、何気なく本音が漏れた。昔から本気で何かに打ち込んでも、報われた時などなかった。だからいつしか、勉強にしても趣味にしても、適当に浅く広くやるだけだった。
 冬姫の修業は、一人で行う、久しぶりの全力投球だ。正直、柊らしくないと、驚いている部分もあった。
 冗談感覚で軽く笑って見せたが、了生の表情に変化はない。少し、不安で翳っている気もした。
「大丈夫です。修業は、きっちりやりますさかい。皆さんが真面目に付き合うてくれとるんや、手は抜かれへんもんな」
 慌てて、弁明しておいた。自信がなくても、修業を諦める意志は決してないのだと、きちんと伝えた。
「隣、よろしいですか?」
 了生は少し考え込んだ顔をした末に、柊の横に腰を据えた。
「頑張りすぎたら、逆効果です。もっと、肩の力を抜きましょう」
 肩を、軽く叩いてくる。途端に、体から力が抜けた。自覚がなかったが、相当、力んでいた証拠だ。
「努力しても報われんからと、逃げて諦める心もまた、煩悩の一つなんです。何らかの結果が出る前に、失敗を恐れて止めてしまう。未来への道を閉ざして現状維持すれば、心は傷つかずに済むでしょう。でも、本当の幸福は得られんままや」
 思いっきり、痛いところを突いてきた。
 柊にだって、了生の言葉の意味は嫌ほど分かる。でも、現状維持のほうが幸福だと思う人間だって、この世にはいる。別に、悪くないはずだ。
 その考えが、〝弱い心〟なのかもしれないが。
「古文書に書かれた禁術を会得するためには、技術も必要ですが、心の強さが大切になります。半端な覚悟で習得に挑めば、術に食われてしまいかねん。ですから、柊さんには何が何でも、強くなってもらわなあかん」
「うちの弱点が心がやと、何ですぐに分かりましたんや?」
「時々見せる顔が、やけに切なく感じるときがありました。四季姫の皆さんと一緒にいるときにも、一瞬、どこか遠くに一人でおるみたいな目をしておられた」
 そんな一面まで見られていたとは。急に、恥ずかしさが込み上げてきた。
「危険な術ですが、ものにできれば、必ず柊さんや四季姫の皆さんを守ってくれるはずや。せやから、一緒に頑張りましょう」
 意気込む了生を、柊は唖然と見つめていた。
 どうすれば、了生みたいに気持ちを奮い立たせられるのだろう。漠然と、考えていた。
「何や、俺ばっかり張り切ってしもうて、すみません。今回は、俺にとっても、良い修業になりますんで」
 柊との温度差に気付いて、了生は恥ずかしそうに頭を掻いた。恥じるべきは、柊のほうなのだが。
「俺の中の、情けない煩悩を捨て去るために、四季姫様の修業のお手伝いは、とても刺激になるんです」
 意外な返答だった。了生ほど、強く卓越した人にも、煩悩があるのか。
「俺も、母親がおりません。生まれてすぐに亡くしましてな。顔も知りません。ずっと父親と二人で暮らしてきました。柊さんよりは恵まれとるんでしょうが、物寂しさはずっと抱えておりました」
 柊の表情が、強張った。一瞬、頭の中に、出て行った母親の記憶が蘇る。
 死んだと分かっている別れと、生きていても二度と会えない別れ。
 どちらのほうが辛いのだろう。考えても、比べられなかった。
「我が身に巣食う孤独感こそが、俺の弱さやと思うとります。朝や宵と暮らしはじめて、家が賑やかになって、ようやく確信できました」
 今でこそ寺は馬鹿みたいに騒がしいが、朝と宵が来る前は、了海との二人きりの生活だ。今の師走家と同じく、質素で静かな生活だったに違いない。
 おまけに、人里から離れた、静寂に包まれた空間。了生が寂しいと感じる気持ちは、痛い程よく分かった。
「孤独の闇は、決して一人では祓えんのです。ですから、柊さんと共に修業に打ち込んでいけたら、とても心強い」
 前向きに強くなろうと、煩悩を捨て去ろうと、了生は戦っている。
 柊となら、戦っていけると言ってくれる。
 一人ではない。全ての言葉が、妙に心に響く。胸が締め付けられた。
 気付くと、柊の両目から、涙が零れていた。
「すんません。何でやろうな、急に」
 人前で涙を見せるなんて、弱さの極みだ。情けなくなる。何度も腕で拭うが、涙はとめどなく溢れてきた。
 了生はそっと、柊の頭を撫でてくれた。柊は大人しく、了生の優しさを甘んじて受けた。
「いつか心を痛めずに、心から笑える日が来ると、ええですね」
 穏やかな日が、訪れるときは来るのだろうか。
 了生と共になら、厳しい修業も乗り越えられるかもしれない。
 いや、必ず、乗り越える。柊は素直に決意した。
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