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第一部 四季姫覚醒の巻

第八章 秋姫対峙 12

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十二
 体から、力が抜ける。
 陰陽師としての力が、榎の中から消えていく感覚。榎は脱力して、動けなかった。
 辺りの空気にも、変化が現れた。榎を信じて、全てを託してくれた妖怪たちの気配が、絶望に包まれて行く。
 嫌な静寂が、少しの間、辺りを包み込んだ。
「馬鹿な! あの髪飾りには、夏姫の駆使できる、あらゆる力が秘められておる! 容易く破壊できる代物では、ないはずなのに……!」
 月麿の驚きの声が、沈黙を破った。信じられないと、衝撃が声を震わせていた。
「アタシをコケにした報いだ。お前は二度と、夏姫になれない。アタシの邪魔をする力も理由も、なくなっただろう?」
 萩は清々した様子で、榎の背に言葉をぶつけた。榎には、反応する気力もない。完全に、息の根を止められた。
「変身が解けますわ。榎さん……!」
 奏の悲痛な声も響く。
 緑を基調とした、十二単が光に包まれて、消えていく。普段とは違う、変身の解け方だ。
 長い髪も、先端から光の粒となって、飛散していく。徐々に、水無月榎に戻って行く。
 完全に解ければ、ただの水無月榎になる――。
 変身できなければ、夏姫になれない。戦えない。四季姫の使命を、果たせない。
 今まで頑張ってきた努力は、何だったのだろう。榎は、何のために頑張ってきたのだろう。
 また、分からなくなる。心が折れそうになる。こんな終わり方は、嫌だ。
 支えてくれた椿と柊に、何といえばいいのか。もう二度と、一緒に戦えないなんて、口に出したくない。
 一瞬、綴の笑顔が頭に浮かび、消えた。夏姫になれないと自覚した瞬間、綴との繋がりも、断たれた気がした。
 涙が溢れて、地面に落ちる。
 直後。風が凪いだ。
 足元に生えていた細長い草が、風に吹かれて、榎の手の甲を撫でた。
 草の感触が、誰かに手を掴まれる感覚に変わった。
 榎は顔を上げる。目の前に、人が屈みこんで、榎を見据えていた。
 見慣れた人物だった。
 真っ白の髪をした、入院着の姿の人物。とても優しい、穏やかな笑顔で、微笑みかけてくれる。
 半透明に、透けている気がした。まるで、幽霊みたいに。
 咄嗟に、「綴さん」と呟いていた。
 いま、この場に綴がいるはずがない。
 夢でも見ているのだろうか。ショックのあまり、幻覚でも見ているのか。
 でも、違う気がした。
 目の前の綴は、ゆっくりと目を細め、口を開いた。
『立つんだ。夏姫の力は、前世の借り物ではない。君の力は、君のものだ。その命が尽きない限り、失われなどしないよ』
 そう告げて、綴の幻影は光の粒となって消滅した。
 瞬間、悟った。
 榎の心の内側で、殻を破ろうとしていた何か。おぼろげに見えていた力の正体が、はっきりと分かった。
 今までの、髪飾りから引き出していた、仮初の力ではない。榎が持つ、本来の力。
 はっきりと見えた。榎の中にある、夏姫の力の源が。
「まだだ。まだ、終わっていない!」
 榎は立ち上がった。周囲を、激しい突風が包み込む。
 消えかかっていた着物が、髪が、再び形を成した。
 髪を振り乱したまま、夏姫は再び、力強く地面を踏みしめた。
 周囲からどよめきが聞こえる。
「榎さんの、変身が解けない……? 急に、風が強くなってきましたわ!」
 乱れる巻き髪を押さえつけながら、奏が高い声を上げる。
「夏姫が立った! まだ、いけるぞ! 頑張れー!」
 妖怪たちの声援も、盛り上げる。周囲が一気に沸いた。
「この現象は……夏のを彩る力が、夏姫の魂と呼応しておるのか?」
 ざわめく辺りの草花を眺め、月麿が呟いた。
「どういう意味です、月麿!」
 説明なさいと、奏が声を荒げる。
「今、季節は夏。夏姫が司る、多くの自然の力が、周囲に満ちておりまする。四季姫は、各々が持つ名の季節において、最大の真価を発揮できるのでおじゃる。すなわち……」
「――夏は、榎さんが最も、実力を引き出せる時期なのですわね。ですから、髪飾りがなくても、力を解放できる!」
「好条件が整ったために、陰陽師の力が無尽蔵に放出されとるわけか」
 感心した様子で、了生も榎を眺めていた。
「勝てますわ、榎さん! 今ならば無敵です!」
 奏の声が突き刺さる。だが、奏が意気込むほど、榎は体に力が溢れているとは思えなかった。
 妙に、重圧がのしかかっている。強い力が体内に入り込んでくる感覚はあるものの、今までみたいに、馴染む感じが全くしない。
 逆に、榎が強烈な自然の力に、取り込まれそうだった。
「じゃが、今までは髪飾りを媒体として、陰陽師の力を制御し、引き出しておった。直接、自然の力を受け止めるとなると、あまりにも強い力じゃ。榎の体が耐えられるか……」
 月麿の危惧は、当たっていた。今の状態は、あまり長くは保てない。
 だが、やるしかない。萩に榎の全てをぶつけられる、最後のチャンスだ。
 榎は、萩に向かって剣を構える。
 なんて重さだ。いつも使い慣れている剣なのに、両手に力を込めても、まともに持ち上げられない。
 再び力を解放した榎を、萩はしばらく唖然と見つめていた。だが我に返り、榎がろくに動けないと気付き、先手を切って襲いかかってきた。
 とても素早いと感じていた萩の動きが、榎の目には、スローモーションみたいにゆっくりと見えた。
 刃の筋が、流れが、全て見える。
 完全に見切った途端、榎の体が物凄い勢いで動いた。
「食らえ、〝真空断戯・二段烈風〟!!」
 萩の攻撃を完全にかわし、白銀の剣が、激しく孤を描いた。
 素早く萩は、鎌を使って防御の体勢をとる。
 剣は鎌を真っ二つにかち割った。勢いを殺さずに、二重になった真空の刃を萩めがけて放った。
 至近距離の一撃。かわす余地などなかった。
 まるで、大きな獣の爪を受けたみたいに、着物と体を切り裂かれ、吹き飛ばされた萩は、激しく土煙を立てて地面に倒れた。
「榎さんが、押し切りましたわ!」
 奏の声を皮切りに、周囲から歓声が飛ぶ。
 榎は息を切らし、剣を地面に突き立てて、膝を突いた。
 凄まじい力だ、コントロールができない。力は、体内で制御しなければ、濁流みたいに外へと溢れ出て行く。周囲に悪影響はないみたいだが、力の流れと共に、榎の体力が徐々に削り取られていった。
 あっという間に、榎は満身創痍になっていた。
 なんとか踏ん張り、榎は倒れた萩の様子を見る。かなり、真空波は深く、萩の体に食い込んだ。俯せに倒れた萩は、微動だにしない。
 とても手加減なんて、できる状況ではなかった。やりすぎたかと、萩の身を案じた。
「ふざけんな、アタシが、負けるはず、ねえだろうがぁ……!」
 だが、心配を他所(よそ)に、萩は起き上がった。
 あまりに豹変した萩の姿に、榎は体を凍りつかせた。
 傷口は酷く焼け爛(ただ)れ、泡を吹きながら湯気を迸(たぎ)らせていた。白くて綺麗だった萩の肌は青黒く染まり、血管が不気味に浮き出ていた。
 おぞましい姿。前に致命傷を受けて暴走しかけた、宵月夜の姿にも似ている。
「アタシは、完全な存在だ! 全ての力を凌駕する、選ばれた絶対的な支配者として、この世に生み出されたんだ! こんな、なまっちょろい奴に、やられるはずがねえ!」
 裂けそうな赤い口から、憎悪の言葉が吐き出される。その声も、まるで獣の雄叫びみたいに聞こえた。
「何ですの、あの方の形相……」
 周囲で様子を見ていた妖怪や奏たちも、どよめき、怯えと驚きを隠せずにいる。
 今、この場にいるもの全員の目に、萩は異質なものに映っているだろう。
「奏姫、お離れください。あの威圧感は、もしや、もしや……」
 月麿が震えながらも、奏を庇う。ただならぬ気配の広がりに、了生も錫杖を構えた。
 妖怪たちも、今にも逃げ出したい、といわんばかりに、恐怖と戦っていた。周が警戒して弓を構える。その周の前で、宵月夜と八咫が身構えた。
 榎も思わず、防御の体制をとる。だが、ふらつきながら歩み寄ってくる萩に、どう対応していいか、分からなかった。
「榎! そいつから離れえ! そいつは秋姫やない、人間ですらないんや!」
 困惑する中。背後から、柊の大声が響いた。
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