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第一部 四季姫覚醒の巻
七章 Interval~黒夜の涙~
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宵月夜が目を覚ますと、畳の間で布団に横たわっていた。
開け放たれた障子の外は、夜の景色だ。空には半月が浮かんでいた。
頭が朦朧とする。記憶が、どこからか飛んでいた。
夢の中で、何か恐ろしいものに襲われ、逃げ惑っていた気がする。だが、上手く思い出せない。
思い出そうとすると、体が竦む。記憶をよみがえらせてはならないと、全身が警鐘を鳴らしていた。
だが、ふいに、気を失う直前の出来事が、脳裏に浮かび上がった。
おぞましい力を見せ付けてきた、秋姫。
宵月夜は、秋姫の鎌を受け――。
あまりの恐怖に、宵月夜は飛び起きた。腹部に、チクチクと刺さる痛みが走る。
秋姫にやられた、傷口だ。もっと酷かったのだろうが、今では止血をされ、傷口も半分ほど、塞がりかかっている。
「宵月夜さま、起きたー」
「宵月夜さまー。まだ寝てなきゃだめー」
寝床の周りに、妖怪たちが集まってきた。見知った、小さな下等妖怪たち。
宵月夜を心配して、集まってきてくれた。みんなの姿を視界に捉え、宵月夜は安心した。
何匹かの妖怪は、秋姫の鎌の犠牲となった。恐ろしいほどの威力だった。
だが、生き残った妖怪たちがたくさんいるのだから、全滅は免れたらしい。宵月夜にとって、一番の救いだ。
「……みんな、無事か? 怪我している奴は、いないか?」
尋ねると、小さな妖怪たちは、顔を見合わせた。悲しげに慌てふためき、身振り手振りで説明をしてきた。
「傷を負った仲間、みんな死んだ。傷付いて生き残った妖怪、宵月夜さまと、八咫さまだけ」
「一瞬だったー。凄い力が飛んできて、みんな、切り刻まれたー」
「宵月夜さま、怖いよー。死ぬ? みんな死ぬの?」
怯える妖怪たちを見ながら、宵月夜は漠然と考える。
たしかに、多くの妖怪たちは、秋姫に亡き者とされた。
だが、八咫は?
宵月夜の目の前で、負傷などしただろうか?
覚えていない。
いや、違う。忘れていただけだ。
思い出した。思い出して、しまった。
八咫は、俺がこの手で――。
全身から、汗が噴き出す。宵月夜は体を震わせて、周囲を見渡した。
宵月夜のすぐ隣で、布団に包まれ、横たわる八咫の姿があった。体には晒(さらし)が巻かれ、微動だにしない。
いつも賑やかで、お喋りな八咫が。今は、言葉を話す余力さえ失っている。
宵月夜がやった。宵月夜が、大切な腹心の家来を、傷つけた。
「八咫ぁ。すまない、俺のせいで……」
声を掛けても、返事すらない。倒れ伏す哀れな烏に、震える手を伸ばす。宵月夜の目から、涙が零れた。口からは、嗚咽が漏れる。
「八咫はんは、大丈夫どす。じきに、目を覚まして元気になります」
静かな声が、側から流れてきた。顔を上げると、側には、一人の人間が立っていた。
周(あまね)という名の少女。妖怪たちの天敵――四季姫と親しくしながらも、なぜか妖怪に興味を抱き、親しげに接してくる、変な人間だ。
「宵月夜はんのほうが、重症どす。どうか、安静にしていて下さい」
周は宵月夜の枕元に座る。桶に運んできた水を脇に置き、手拭を濡らして絞る。
宵月夜は、慌てて顔を逸らした。悲観に暮れる泣き顔を、見られたくなかった。
だが、抵抗は空しく、頭を掴まれて首を回される。
周は、涙と汗に濡れた宵月夜の顔を、優しく拭った。
呆然としながら、宵月夜は周の身形を見つめていた。
白っぽい薄い衣服は、血で汚れていた。ちらりと見えた背中は、まるで切り裂かれたみたいに破け、傷付いた皮膚が覗いていた。
「この傷痕……俺が、つけた……?」
肌に残る、爪の痕。宵月夜の記憶が、更に鮮明になった。
深い傷を受け、無意識のうちに、力を暴走させた。宵月夜の体に流れる、望まぬ、呪われた血が疼いて、止められなかった。
八咫を傷つけ、我を忘れた宵月夜を、周が引き戻してくれた。――命懸けで。
「私は、春姫はんに癒してもらいましたから。少し痕が残りましたけど、命に別状はありまへんから」
周は、控え目に笑っている。なぜ、普段と変わらない態度で接することができるのか。
目の前にいる妖怪は、命を奪おうとした存在なのに。
意味が分からない。宵月夜は、苛立ちを隠せなかった。
「どうして、俺が暴走していると分かって、飛び込んできた!? お前は何を考えているのか、さっぱり分からない奴だが、命を粗末にする人間ではないはずだ!」
周の言動は、理解に苦しむものが多い。だが、常に常識的で、節度をわきまえている。
周は、賢い女だ。だから、身の危険を冒す愚かな真似を、するはずがないと思っていたのに。
「私にも、分かりまへん、体が勝手に動いたもんですから」
宵月夜が怒鳴っても、臆しもせず、周は冷静に、首を振った。
「ただ、漠然と思ったんやと思います。あのまま宵月夜はんを放って置いたら、絶対に後悔する、と。あんな状態は、どうしても許せんかったんどす」
本能的な行動だと言いたいのか。周らしくない。
「秋姫はんに、酷く心を掻き乱されましたんや。あの態度、考え方――。何や、物凄い、苛立ってしもうて。どうすればええんか、何も分からんくなった。頭が真っ白になって、気付いたら、宵月夜はんに、飛びついておりました。絶対に、あの女だけには、あんたは殺させはせん、と」
遠い目で月を眺めながら心境を語る周の全身から、静かな怒りが迸(ほとばし)っていた。
周はいつも、妖怪たちに優しくしてくれる。
だがそれは、無償の親切ではなく、何か打算があっての行動だ。
宵月夜も、妖怪たちも知っていた。周は語らないが、別に隠しもしなかったし、堂々としていた。
何か企んでいるのかもしれない。そう思って、最初は警戒していた。
だが、恐れを感じる以上に、とても居心地がよかった。
周は、妖怪を人間と対等に扱ってくれる。決して差別をしないし、特別扱いもしない。同じ目線で、同じ場所に生きていると感じた。
だから気がつくと、宵月夜も妖怪たちも、周の親切に甘んじていた。
普段から、何事にも動じず、平静を装ってきた周が、今、初めて宵月夜の前で、激しい怒りを見せている。
妖怪たちのために、秋姫に対して怒っているのだと分かった。
宵月夜は無性に、心をかき乱されていた。
「冷静になって考えてみると、許せんかったんやと思います。あの、理不尽な虐殺が。陰陽師が妖怪を倒す行為は、当然の道理やとは、理解しております。せやから、止める権利なんて、私にはなかった。せやのに、ちゃんと、割り切れてへんかった。私の中には、許せる悪も、許せん正義も潜んでおるみたいどす。優柔不断どすなぁ。私自身、嫌になるどす……」
周は、肩を震わせていた。
俯く顔を覗きこむと、泣いていた。
人間が泣こうが喚こうが、宵月夜には関係ない。
なのに、どうして胸が締め付けられるのか。
罪悪感に襲われる。
この少女が泣く姿だけは、見たくなかった。
気付くと、宵月夜は震える周の手を握っていた。
「泣くな。これ以上、お前を傷つけない。誰にも、お前を傷つけさせない。――お前は、俺が守るから」
一番、傷つけてきた張本人が、何を言っているのか。
馬鹿馬鹿しいと思った。いえる義理など、ないと思った。
でも、伝えずにはいられなかった。心の奥からとめどなく湧き上がってくる、本心を。
心の底で熱く煮えたぎっている愛おしさを、内に留めてはおけなかった。
周は唖然として、動きを止めていた。しばらくすると、そっと、手を握り返してくれた。温かい手だった。
人間なんて、大嫌いだ。
だが、この人間だけは、嫌いになれない。
昔にも、同じ気持ちを抱いた時があった気がする。でも、忘れた。
今、心から守りたいと思う〝人〟は。
たった一人だ。
開け放たれた障子の外は、夜の景色だ。空には半月が浮かんでいた。
頭が朦朧とする。記憶が、どこからか飛んでいた。
夢の中で、何か恐ろしいものに襲われ、逃げ惑っていた気がする。だが、上手く思い出せない。
思い出そうとすると、体が竦む。記憶をよみがえらせてはならないと、全身が警鐘を鳴らしていた。
だが、ふいに、気を失う直前の出来事が、脳裏に浮かび上がった。
おぞましい力を見せ付けてきた、秋姫。
宵月夜は、秋姫の鎌を受け――。
あまりの恐怖に、宵月夜は飛び起きた。腹部に、チクチクと刺さる痛みが走る。
秋姫にやられた、傷口だ。もっと酷かったのだろうが、今では止血をされ、傷口も半分ほど、塞がりかかっている。
「宵月夜さま、起きたー」
「宵月夜さまー。まだ寝てなきゃだめー」
寝床の周りに、妖怪たちが集まってきた。見知った、小さな下等妖怪たち。
宵月夜を心配して、集まってきてくれた。みんなの姿を視界に捉え、宵月夜は安心した。
何匹かの妖怪は、秋姫の鎌の犠牲となった。恐ろしいほどの威力だった。
だが、生き残った妖怪たちがたくさんいるのだから、全滅は免れたらしい。宵月夜にとって、一番の救いだ。
「……みんな、無事か? 怪我している奴は、いないか?」
尋ねると、小さな妖怪たちは、顔を見合わせた。悲しげに慌てふためき、身振り手振りで説明をしてきた。
「傷を負った仲間、みんな死んだ。傷付いて生き残った妖怪、宵月夜さまと、八咫さまだけ」
「一瞬だったー。凄い力が飛んできて、みんな、切り刻まれたー」
「宵月夜さま、怖いよー。死ぬ? みんな死ぬの?」
怯える妖怪たちを見ながら、宵月夜は漠然と考える。
たしかに、多くの妖怪たちは、秋姫に亡き者とされた。
だが、八咫は?
宵月夜の目の前で、負傷などしただろうか?
覚えていない。
いや、違う。忘れていただけだ。
思い出した。思い出して、しまった。
八咫は、俺がこの手で――。
全身から、汗が噴き出す。宵月夜は体を震わせて、周囲を見渡した。
宵月夜のすぐ隣で、布団に包まれ、横たわる八咫の姿があった。体には晒(さらし)が巻かれ、微動だにしない。
いつも賑やかで、お喋りな八咫が。今は、言葉を話す余力さえ失っている。
宵月夜がやった。宵月夜が、大切な腹心の家来を、傷つけた。
「八咫ぁ。すまない、俺のせいで……」
声を掛けても、返事すらない。倒れ伏す哀れな烏に、震える手を伸ばす。宵月夜の目から、涙が零れた。口からは、嗚咽が漏れる。
「八咫はんは、大丈夫どす。じきに、目を覚まして元気になります」
静かな声が、側から流れてきた。顔を上げると、側には、一人の人間が立っていた。
周(あまね)という名の少女。妖怪たちの天敵――四季姫と親しくしながらも、なぜか妖怪に興味を抱き、親しげに接してくる、変な人間だ。
「宵月夜はんのほうが、重症どす。どうか、安静にしていて下さい」
周は宵月夜の枕元に座る。桶に運んできた水を脇に置き、手拭を濡らして絞る。
宵月夜は、慌てて顔を逸らした。悲観に暮れる泣き顔を、見られたくなかった。
だが、抵抗は空しく、頭を掴まれて首を回される。
周は、涙と汗に濡れた宵月夜の顔を、優しく拭った。
呆然としながら、宵月夜は周の身形を見つめていた。
白っぽい薄い衣服は、血で汚れていた。ちらりと見えた背中は、まるで切り裂かれたみたいに破け、傷付いた皮膚が覗いていた。
「この傷痕……俺が、つけた……?」
肌に残る、爪の痕。宵月夜の記憶が、更に鮮明になった。
深い傷を受け、無意識のうちに、力を暴走させた。宵月夜の体に流れる、望まぬ、呪われた血が疼いて、止められなかった。
八咫を傷つけ、我を忘れた宵月夜を、周が引き戻してくれた。――命懸けで。
「私は、春姫はんに癒してもらいましたから。少し痕が残りましたけど、命に別状はありまへんから」
周は、控え目に笑っている。なぜ、普段と変わらない態度で接することができるのか。
目の前にいる妖怪は、命を奪おうとした存在なのに。
意味が分からない。宵月夜は、苛立ちを隠せなかった。
「どうして、俺が暴走していると分かって、飛び込んできた!? お前は何を考えているのか、さっぱり分からない奴だが、命を粗末にする人間ではないはずだ!」
周の言動は、理解に苦しむものが多い。だが、常に常識的で、節度をわきまえている。
周は、賢い女だ。だから、身の危険を冒す愚かな真似を、するはずがないと思っていたのに。
「私にも、分かりまへん、体が勝手に動いたもんですから」
宵月夜が怒鳴っても、臆しもせず、周は冷静に、首を振った。
「ただ、漠然と思ったんやと思います。あのまま宵月夜はんを放って置いたら、絶対に後悔する、と。あんな状態は、どうしても許せんかったんどす」
本能的な行動だと言いたいのか。周らしくない。
「秋姫はんに、酷く心を掻き乱されましたんや。あの態度、考え方――。何や、物凄い、苛立ってしもうて。どうすればええんか、何も分からんくなった。頭が真っ白になって、気付いたら、宵月夜はんに、飛びついておりました。絶対に、あの女だけには、あんたは殺させはせん、と」
遠い目で月を眺めながら心境を語る周の全身から、静かな怒りが迸(ほとばし)っていた。
周はいつも、妖怪たちに優しくしてくれる。
だがそれは、無償の親切ではなく、何か打算があっての行動だ。
宵月夜も、妖怪たちも知っていた。周は語らないが、別に隠しもしなかったし、堂々としていた。
何か企んでいるのかもしれない。そう思って、最初は警戒していた。
だが、恐れを感じる以上に、とても居心地がよかった。
周は、妖怪を人間と対等に扱ってくれる。決して差別をしないし、特別扱いもしない。同じ目線で、同じ場所に生きていると感じた。
だから気がつくと、宵月夜も妖怪たちも、周の親切に甘んじていた。
普段から、何事にも動じず、平静を装ってきた周が、今、初めて宵月夜の前で、激しい怒りを見せている。
妖怪たちのために、秋姫に対して怒っているのだと分かった。
宵月夜は無性に、心をかき乱されていた。
「冷静になって考えてみると、許せんかったんやと思います。あの、理不尽な虐殺が。陰陽師が妖怪を倒す行為は、当然の道理やとは、理解しております。せやから、止める権利なんて、私にはなかった。せやのに、ちゃんと、割り切れてへんかった。私の中には、許せる悪も、許せん正義も潜んでおるみたいどす。優柔不断どすなぁ。私自身、嫌になるどす……」
周は、肩を震わせていた。
俯く顔を覗きこむと、泣いていた。
人間が泣こうが喚こうが、宵月夜には関係ない。
なのに、どうして胸が締め付けられるのか。
罪悪感に襲われる。
この少女が泣く姿だけは、見たくなかった。
気付くと、宵月夜は震える周の手を握っていた。
「泣くな。これ以上、お前を傷つけない。誰にも、お前を傷つけさせない。――お前は、俺が守るから」
一番、傷つけてきた張本人が、何を言っているのか。
馬鹿馬鹿しいと思った。いえる義理など、ないと思った。
でも、伝えずにはいられなかった。心の奥からとめどなく湧き上がってくる、本心を。
心の底で熱く煮えたぎっている愛おしさを、内に留めてはおけなかった。
周は唖然として、動きを止めていた。しばらくすると、そっと、手を握り返してくれた。温かい手だった。
人間なんて、大嫌いだ。
だが、この人間だけは、嫌いになれない。
昔にも、同じ気持ちを抱いた時があった気がする。でも、忘れた。
今、心から守りたいと思う〝人〟は。
たった一人だ。
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