上 下
6 / 336
第一部 四季姫覚醒の巻

第一章 夏姫覚醒 5

しおりを挟む


 花春寺は禅寺だと説明されたが、宗派がどうこうなど、詳しい話は、榎にはよく分からなかった。
 お寺の本殿には、大きな仏像が奉られていて、お参りに人が訪れたり、法要などを執り行う場所になっていた。
 如月家の人々が住む家は、お寺の右隣に建つ、和風の家屋だった。
 玄関には石灯籠や池があり、水中では大きな紅白柄の錦鯉が、のんびり泳いでいる。
「どうぞー、榎さんのお部屋は、上ですよぉ」
 家の中に招き入れられ、二階の一室に通された。十畳の広さがある、落ち着いた雰囲気の和室だった。
「天丼が高ーい。旅館みたいな部屋だなぁ。本当に、こんないい部屋を、一人で使わせてもらえるの?」
 水無月家では、ありえない待遇だった。実家の間取りも広かったが、絶対に誰かと相部屋で、榎は勉強部屋を弟と兼用していたくらいだ。
 榎は女の子だから、寝室は一人部屋をもらっていた。だが、押し入れを改装した狭い部屋だったので、広い部屋には全然、耐性がなかった。
 驚いて竦んでいる榎を見て、椿は恥ずかしそうに笑った。
「いい部屋だなんてぇ。だだっ広いだけのボロ部屋ですよ。気兼ねなく使ってください! ちなみに、お隣が椿のお部屋。勝手に覗いちゃ、だ・め・で・す・よぉ。キャハッ!」
 椿は念を押し、隣の部屋に入って障子を勢いよく閉めた。相変わらずテンションが高いなと、榎はぎこちなく笑った。
 一人になり、少ない荷物を畳の上に放りだした。
 榎が持ってきたものは、一泊分の着替えや日用品だけ。残りの入り用な物品は、翌日、宅配便で届く手筈になっている。
 がらんとしていて、なんだか寂しい。明日届く荷物を並べれば、少しは賑やかな部屋になるだろうか。
「なんだか、一人部屋って落ち着かないなぁ。ずっと騒がしい家で暮らしてきたもんなぁ」
 畳の上に座り込み、部屋を見渡しながら呆然とした。
 こんなに静かな、広い部屋で眠れるだろうか。だんだん不安がこみあげてきた。
 しばらく俯いて、じっとしていると、階下で電話の鳴る音が聞こえた。
 音が消えてしばらくすると、パタパタと階段を誰かが上ってくる足音が。
 足音は榎の部屋の前で止まった。
「榎さん、よろしいか?」
 襖ごしに声をかけられ、榎は我に返った。声の主は桜だった。
「何ですか? 叔母さん」
「名古屋のお家から、お電話がかかってますわ。お兄さんや言うてはったけど」
 反射的に、榎はバネみたいに立ち上がり、勢いよく襖を開いた。桜が驚いた顔をして、仰け反っていた。
「ありがとうございます、 すぐに出ます!」
 短く返事をして、榎はダッシュで階段を駆け下り、昔ながらの黒電話に飛びついた。
 電話の相手は、水無月家の長男、樹だった。
『よお、榎! 元気してるかー? そろそろ家が恋しくて、ホームシックになっている頃かと思って、電話してやったぞ』
「まだ一日目だよ。さすがに早すぎるでしょう、いつき兄ちゃん」
 図星だったが、榎は強がって言い返した。
 でも本当は、とても嬉しい。頬が綻び、電話越しに笑顔を浮かべた。
 樹は兄弟の中で唯一、独立して働いていた。彼女もいて、近々結婚する話もでているが、今は名古屋市内のマンションで一人暮らしをしている。
 家を立ち退く関係で、中学生の兄三人をしばらく預かる羽目になっていた。電話口の向こう側から、居候の兄たちの、やかましい騒ぎ声が聞こえてくる。
 大人で落ち着きがあって、気遣いもよくできて。
 五月蝿うるさいだけの他の兄達と違って、榎に不愉快なちょっかいを吹っかけてこない。
 樹は榎が、一番好きな兄だった。
『そうかー? ならいいけど。榎、よく聞けよ、朗報だぞ。父さんの仕事、うまく立て直せる目処が立ったってさ。順調にいけば、数ヶ月で家も買い戻せるらしい』
「本当に!? じゃあ数ヶ月だけ我慢すれば、家に帰れるんだね。お父さんに頑張ってもらわなきゃ」
 樹の嬉しい報告に、榎も喜びが沸きあがってきた。
 たった半日で目処を立てられるなんて、父の手腕がすごいのか、さほど厳しい状況ではなかったのか。
 何にしても、ありがたい報告だった。
「よかった―。ずいぶん早く、貧乏生活から抜け出せそうだね。元の生活に戻れるまで、すごく大変そうだって、お母さん言ってたのに」
『ああ、父さんたちも、一年以上はかかるだろう、って考えていたみたいだしな。随分、とんとん拍子で安心したよ。まるで何か、家に憑いていた悪いものが、急に遠くへ行っちまったみたいだな』
 樹も、楽しそうに笑っていた。
『遠くに行ったっていうなら、榎くらいだよな。お前、貧乏神にでも取り憑かれていたんじゃないのか?』
 樹の発言に、榎は一瞬、肩を震わせた。
「やめてよ、縁起でもない。まるでお父さんの会社の倒産が、あたしのせいみたいにさ」
『冗談だよ、悪い悪い。俺もうるせ―奴らを預かる期間が短くなって助かったし、お前も早く戻れるといいな。元気で暮らせよ』
「うん。わざわざありがとう、樹兄ちやん」
 受話器を置くと同時に、榎の表情から笑顔が消えた。
 深く頭を項垂れ、榎はしばらく電話の前に立ち尽くしていた。
 樹の言葉が、妙に頭の中に残って、離れなかった。
「貧乏神なんて、やだなぁ。なんだか本当に、あたしのせいでみんなが不幸になった気がしてきた……」
 榎が京都に弾きだされた直後に、名古屋の家がすぐに元に戻り始めるなんて。
 あまりにもタイミングが良すぎて、怖くなった。
 順調に、水無月邸が買い戻せて、みんなが家に帰れたとしても、榎が戻ればまた一家離散、なんて状態に陥るのではないかと、嫌な想像が頭をよぎった。
「えーのきさんっ! もうすぐお昼ご飯ですよぉ、リビングいきましょー」
 背後から明るい声をかけられ、榎は顔をあげた。
 振り返ると、にこにこと、楽しげな顔の椿が立っていた。榎は返事ができずに、しばらく椿の顔を見下ろして、突っ立っていた。
「……どうかしたんですか? なんだか辛そうな顔。お体の具合でも悪いんですか?」
 様子のおかしい榎の顔を、心配そうに覗き込んでくる。
 この、心の中に蜷局とぐろを巻いている底知れない不安を、椿に話してみようか。
 喉元まで言葉がせりあがってきたが、榎はぐっとこらえた。
 如月家にはお世話になって、これからしばらく面倒をかけるのに、根拠のない話でさらに迷惑を増やすわけにはいかない。榎は気持ちを奮い立たせて、なんとか微笑んだ。
「なんでもない。平気だよ、ありがとう」
「気分が悪くなったら、すぐに言ってくださいね! 椿、頑張って看病します!」
  椿は少し、榎の言葉を疑っていた様子だったが、すぐに話を切り替えて、意気込み始めた。
「病で床に伏せる榎さんを、椿が看病だなんて……。キャ~! 想像するだけで恥ずかしいー!!」
「なんで恥ずかしいの……!?」
 相変わらず、椿のテンションについていけない榎だった。 
 並んで居間に向かおうと歩き出した矢先。突然、進行方向の部屋から、ガラスの割れる音が激しく響いた。
「あれまあ! お父さん、お父さん!」
 続いて、桜の悲鳴。榎は椿と顔を見合わせ、声のした部屋へと駆けていった。
 辿り着いた場所は居間だ。四畳半くらいの畳の部屋に、テレビとちゃぶ台、戸棚があった。
 誰の趣味かは知らないが、壁には年季の入った木刀や、古めかしい般若の面が飾られていた。
 桜は戸棚の前で、腰を抜かして座り込んでいた。
「どうしたの、ママ! 今の音はなに?」
 桜は震える手で、駆け寄った椿の腕を掴んだ。表情は青褪めて、今にも気を失いそうだった。
「えらいこっちゃ、泥棒に入られたんよ! 刃物を持っとって、居間をかき回して逃げてしもうた」
 動揺している桜を宥めていると、木蓮も息を切らして駆け込んできた。
 桜を起き上がらせ、事情を聞いた木蓮は、冷静に指示をだした。
「警察呼ぶんや、警察! なんぞ、盗まれたもんはあるか?」
「どないしましょ、通帳と印鑑、盗られてしもうてますわ」
「通帳って、うちの全財産じゃ……!」
 桜の言葉に、椿は悲鳴に似た声をあげた。
「他にも、檀家さんの法要の費用やら、預かっとるお金も、みんな入っとるんよ。えらいことやわ」
 如月家の人々は途方に暮れていた。
 お金がなくなる――。
 水無月家の破産、道中で落とした財布、此度の泥棒騒ぎ。
 次々と起こる不幸な出来事が関連付けられ、榎の頭の中を纏めて駆け巡った。
「まさか、本当に、あたしのせい……?」
 榎の周囲の人たちが、どんどんお金絡みで酷い目に遭っていく。
 もはや、榎に貧乏神でも憑りついているとしか、思えなかった。
 椿たちにまで、水無月家と同じ苦労はしてほしくない。榎がなんとかして、事態を収拾させるべきだ。意気込んで、強く拳を握り締めた。
「叔母さん。泥棒、どっちに逃げました!?」
「窓を破って、西側のほうへ……」
 桜が指をさした窓は、粉々に割られて、外に破片が飛び散っていた。無残な姿になった窓枠を睨みつけ、榎は動いた。
「追いかけます! 木刀、借りますね!」
 壁に飾られていた木刀を掴み、玄関へ向かう。靴を覆いて、外へと飛びだした。
「嘘でしょ!? 待って、榎さーん!!」
「あかんよ、泥棒は刃物を持って……!」
 背後で聞こえる、椿と桜の声を聞き流し、榎は西へ向かって走った。
しおりを挟む

処理中です...