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第三部 四季姫革命の巻

第二十一章 平安彷徨 5

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 五
「はぁ~、えらいこっちゃどす。私としたことが、眼鏡を落とすなんて……」
 目が覚めると共に、楸は周囲の景色が何も見えない事実から、眼鏡の紛失に気付いた。
 気を失う前の記憶は、はっきりと残っている。みんなと時渡りの儀式を行い、平安時代に向かう途中、地脈の中で離ればなれになってしまった。
 もし、術がきちんと成功していたとすれば、楸は今、平安時代のどこかにいる、ということになるが、風景などを見定める目が機能していない以上、確信はできない。
 楸は、四つん這いになって周囲の様子を探る。辛うじて分かる、光がもたらす色の情報から、青い空や茶色の地面を認識できた。
 加えて外気の冷たい風や鳥のさえずり、土や砂だらけのゴツゴツした地面など、視覚以外のあらゆる感覚を研ぎ澄ませて想像するに、冬の屋外にいるのだろう、とは予測できた。地面が整備されていない土道だという点からも、かなりの山奥か、それともアスファルトで地面を固める技術が確立していない時代なのだろうかと、イメージを膨らませる。
 仮に、今いる場所が平安時代なのだとしたら、当初の目的は達成されたわけだが、今の楸にとっては、とんでもない非常事態でもあった。
「一大事どす! 千年前の地層から現代の眼鏡が発掘された! なんて事態にでもなったら、考古学会が大パニックに陥るどす! 歴史が歪んだまま解釈されてしまうどす、どないしましょー!」
 楸が誤って落としてしまった眼鏡のせいで、日本の歴史が滅茶苦茶になってしまう。楸はとんでもない罪悪感に襲われ、頭を抱えた。
「……というか、その前に、眼鏡がなくては、私が野垂れ死んでしまうどす。どないしたらええんやろう」
 歴史以前に、己の身の危険について考えなければいけないと思い直し、楸はまた、途方に暮れた。とりあえず、近くに落ちていないだろうかと手探りで辺りを探すが、こんな非効率なやり方では見つかるはずもない。砂漠の中から一本の針を見つけ出す、といった比喩以上に、楸の眼鏡探しは困難を極めた。
 周囲に人の気配もないし、声も聞こえない。おそらく、みんな離れ離れになったまま、どこか別の場所に放り出されたのだろう。
 それに、目が見えなくては、運よく仲間たちと合流できても、何の役にも立てない。秋姫に変身したところで、矢も放てない。
 でもまずは、みんなと合流することが先決だ。その先に楸が何を為せるかは、その時に考えればいい。
 何とか、目が見えなくても動く方法はないかと模索していると、誰かの足音が近付いてきた。
 地面を草鞋が擦る音。足音は二つ。ゆっくりとした足取りだ。
 明らかに、人だと分かる。
 仲間だろうか。それとも、現地の住民か。
 判断はつかなかったが、とにかく簡単でもいいから助けてもらいたい。
 せめて時代と場所だけでも教えてもらおうと、楸は近寄ってくる人に声を掛けた。
「あの、すみません、この場所がどこか、お伺いしたいんですが……」
「何だ、こいつは。乞食か?」
 尋ねた相手は、どうやら若い男らしい。頭上から聞こえてくる声と息遣いから、あまり教養があって素行が良さそうには思えない。
 じろじろと、視線が突き刺さる。楸を珍しがって、細かく観察している。
「それにしちゃあ、小綺麗な格好してるな。ちょうどいい品物だ、持って帰るか」
 もう一人も、男だ。その男の値踏みする視線や口ぶりから、楸は直感的に身の危険を感じた。
 治安の悪い世には必ずいる。人買いといった類ではないか。
 飛鳥、奈良時代から長らく続く律令制度によって身分が定められ、平安時代にも奴隷と同じ扱いを受ける人々は存在した。人身売買も国の商売の一環として認められていたため、親や住む家を失った孤児、乞食など、弱い立場の人間は国内の貴族の領地や海外に売り飛ばされていた。
 楸も、この時代においては何の地位も資格もない、ただの平民以下の存在でしかない。何もせずに辺りを徘徊していれば、こういった輩に捕まる危険は充分にあった。
 平和ボケしていた。悠長に考えすぎていた。この時代に、楸みたいな素性の知れない人間を保護してくれる法などない。
 自分の身は、自分で守らなければ。
 本能的に、楸は逃げ出した。だが、結局目が見えなくてはどこに行けばいいか分からないし、早くも走れない。すぐに捕まって、地面に叩きつけられた。
 体を抑えつけられ、男の一人が馬乗りになってくる。必死にもがくが、男の力に敵うわけもない。
「やめてください、放しておくれやす!」
「目が見えねえらしいな。追いかけ回す手間が省けて、丁度いい」
 奴隷には、様々な種類が存在する。日本では荘園を維持するための畑仕事や土地の開墾などが主だが、体力のないものや体の不自由なものは、同じ作業を延々と繰り返す作業で一日中こき使われたり、性奴隷として扱われる場合もある。古代中国では、奴隷が逃げ出さないようにわざと目を潰して働かせていたという例もあるくらいだ。目が見えないからと言って、使い物にならない、と捨て置かれることなんて、まずない。
 どこに連れて行かれても、目の見えない楸の末路は、地獄だ。他に何もない。
「連れて行く前に、少し遊んでいこうぜ」
 さらに、男たちは嫌味な笑い声を上げながら、楸の着物に手を掛け始めた。
 脱がされる。暴行される。
 男たちのざらざらした手が肌に触れる感触が、更に恐怖を増幅させる。
「いやっ、助けて、宵はん!!」
 楸は叫んでいた。そんなに都合よく、宵が助けに来てくれるはずもない。だが、助けを求めずにはいられなかった。
 口を塞がれ、声も立てられなくなる。
 もう、お終いだ。何も果たせないまま、何もできないまま、全てが終わってしまう。
 こんな男たちに好き勝手されて、辱められるくらいなら、死んだほうがましだ。
 楸の脳裏に、様々な過去の記憶が蘇る。
 先に逝ってしまった家族との思い出。養母との思い出。榎たちと出会い、四季姫として戦ってきた思い出――。
 走馬燈、とでもいうのだろうか。両親や弟が、はるか遠くの場所で、手を差し伸べていた。
 思えば、家族を失ったあの時から、楸の未来は潰えていたのかもしれない。復讐のためだけに生き続け、その望みも、既に果たした。
 今でこそ、仲間のために、世界のためにと勇気を奮い立たせてきたけれど、その先には楸が本当に望むものなど何もない、空っぽの正義感だったのかもしれない。
 ならば、この場で終わっても、何の問題もないのではないか。
 楸は、辛うじて自由の効く腕を動かし、側に落ちていた石を掴んだ。都合よく、尖った鋭利な角のある石だった。楸は石を振りかざし、男たちの腕に手当たり次第にぶつけた。男たちは苦痛の声を上げ、楸から手を放す。その隙に馬乗りになっていた男を突き飛ばし、脇に逃れる。
「このアマ! 奴婢ぬひのくせして、俺たちに盾突いて、ただで済むと追ってんのか!」
 分かっている。無事に済むとは思っていない。
 だったら尚のこと、自分の手で、全てを終わらせたい。
 この石で首を突き刺せば、きっと終わりにできる。苦しみや痛みと戦わなければならないだろうが、辛い戦いには、慣れている。
 石を握りしめると同時に、恐怖も浮かび上がってきた。更に、脳裏に現れる、少年の姿。
 宵の姿が、誰よりも近く、鮮明に瞼の裏に映った。辛そうな表情で、必死に楸に、何かを訴えかけている。
 死ぬな、と言いたいのだろうか。
 都合のいい幻だ。
 どんなに想っていても、ずっと一緒にいたいと思っても、そんな願いは叶わないだろうに。
 平安時代に行こうと決心し、実際にやってきた時点で、覚悟は決めていた。故郷に戻れた以上、宵はきっと、この時代に残る。
 楸が無事に元の時代に戻れたとしても、その先に宵と共に過ごす時間はない。
 だったら、もう、終わりにしても構わない――。
「……さいなら、宵はん」
 口の中で呟き、楸は男たちの隙を突き、思いっきり、石を首の上に振り上げた。
 直後、男たちの呻き声が耳に入り、楸の体から離れて、側に倒れる音がした。
 男たちは倒れたまま、微動だにしない。呼吸音も聞こえない。
 死んでいる?
 楸は思いとどまり、体を起こして乱れた着物を直した。
「まったく、どこもかしこも、悪党ばかりですね。酷い世だこと」
 頭上から、呆れ果てた女性の声がした。ゆっくりとして落ち着きのある、ある程度歳を経た女性。
「立てますか? 安心なさい、私は貴女に危害を加えません」
 女性は楸の側に屈み込んで、頭や腕を優しく擦ってくれた。
 お香だろうか、柔らかな花の香りが、ふわっと漂ってきた。
 体の力が抜けて、楸は女性の体にもたれかかった。
「よく、思い止まってくれましたね。貴女の命を救えて、良かった。悪党どもは、私が始末しました。もう、心配いりませんよ」
 死を覚悟していた楸に、労いの言葉を掛けてくる。楸が命を絶たなかったことを、心から喜んでくれていると感じた。
 とても人良さそうな女性だが、単純に心を許してはいけない気もする。
 この女性が、あの男たちを倒した。それも、一撃の元に。
 いったい、どんな方法を使ったのか。流石に目が見えなくては、詳しい戦い方までは、分からない。
 だが、楸に対して敵意は持っていないみたいだ。警戒はしつつも、楸はお礼を述べた。
「ありがとう、ございます。助けていただいて……」
「お互い、見えるべきものが見えぬと、苦労しますね」
「お互い……。あなたも、目が?」
 驚いて、楸は問う。女性は肯定の返事をした。
「幼い頃に疱瘡(ほうそう)に罹りましてね。命はとりとめましたが、右目をやられたのです」
 疱瘡とは、現代で言う天然痘だ。全身が腫れて爛れ、大きな水ぶくれが大量に体を覆う。飛沫感染することから感染率、致死率共に非常に高く、昔から不治の病として度々流行しては、多くの人々の命を奪ってきた。
 現代では既に治療法が確立し、一九八〇年には天然痘ウイルスは徹底的に撲滅され、姿を消した。世の中に蔓延する感染症の中で、唯一根絶に成功した病原菌とも言われている。
 だが、それ以前には確実に治せる特効薬があったわけでもない。さぞ、大変な思いをして、死と病に打ち勝ったのだろう。
「左目は、つい最近まで見えていたのですが、〝あかもがさ〟に罹ったせいで、もうほとんど見えなくなってしまいました。また運よく、命だけは取り留めましたが」
 あかもがさは、麻疹(はしか)だ。楸も小学生の頃に、三日麻疹に感染した経験がある。現代では重症に陥るケースは稀だが、症状が悪化すると失明の恐れもある恐ろしい病だ。
「目も見えんのに、よく悪人を倒せましたな」
 驚きすぎて、ついうっかり、口を滑らせてしまった。相手の気分を害せば、楸だってどんな手で命を奪われるか分からない。
 さっきまでは、自ら命を絶とうと決意していたのに、一度助かったと実感すると、急に死が怖くなる。都合のいい頭だと、自嘲したくなった。
 だが、女性は気に障った様子もなく、明るい笑いを返してきた。
「慣れておりますから。それに、目が見えぬ分、鼻と耳はよく利きますしね。大して不便とは思っておりません」
 長い間、目の見えない状態が続けば、人は自然とその環境に順応していくのだろうか。
 現代にだって、全く目が見えなくても逞しく生きている人たちはたくさんいる。
 急に視力を失ったからと言って、何もできないと諦めて絶望していた楸自身が恥ずかしく、情けなく感じた。
 同時に、目の前に現れたその女性が、敵ではないとはっきり自覚できるようになった。
 途端に心の奥から、様々恐怖が溢れ出て込み上げ、楸を襲った。
 気付けば楸は、声を立てて大粒の涙を流していた。
「怖い思いをなさいましたね。さぞ、お辛かったでしょう」
 女性は楸を抱きしめ、優しく背を撫でてくれた。
 肩の力が抜ける。目が見えなくなって初めて、人の温かさに触れて、楸の緊張が解れた気がした。
「私はくれない、と申します。旅をしながら死に場所を探す、根無し草の放浪者です」
 楸が落ち着くまで背を撫でてくれた後、女性は自己紹介をしてきた。
 楸も涙を拭い、慌てて頭を下げた。
「楸と、申します。仲間と逸れてしもうて、右も左も分からず……」
「それは心細かったでしょう。お仲間もきっと、貴女を探しているでしょうね」
 女性――紅は、楸に同情して慰めの言葉をかけてくれた。
 紅の声は、不思議と楸に心の平穏と、安寧をもたらしてくれる。気持ちが落ち着くにつれて冷静さを取り戻し、楸はようやく、何をしていくべきなのかを思い出せた。
 現状を把握して、仲間を探さなければ。
 目が見えなくたって、力になれることはある。
 楸の中に、勇気が湧いてくる。ゆっくりと頭を働かせ、紅に問いかけた。
「あの、今の天皇はんは、どなたでしょう?」
「当座の帝は、一条天皇。長保の世です」
 楸の突然の質問を訝しがるでもなく、紅は淡々と答えてくれた。楸は天皇の名前から在位の年代を思い出し、現在の時代を特定する。
「約、千年前。予定通りの時代に来たことだけは、間違いなさそうどすな……」
 呟いた後、楸は加えて質問した。
「ここは、平安京なんでしょうか?」
「ええ。都の、西の外れになります。いちおう関所の中ですが、この辺りは野党が多く、危険な場所です」
 場所も、京都で間違いない。目的地からは、そう離れていない。
「なら、きっとみなさんも、近くにおるはずどす。何としても、探さんと」
 楸は意気込む。探す方法も、安全に移動する方法もまだ浮かばないが、とにかく行動しなければ。
「紅はん、ほんまに助けていただいて、感謝いたします。お陰で、私が成すべき使命を思い出せました。私は、仲間を探しに行きますので。旅のご無事を、お祈りしております」
 紅に別れを告げ、ゆっくりと、足の先で地面を確認しながら歩き出す。
 その覚束ない体を、紅が支えてくれた。
「ここで出会ったのも、何かのご縁。如何です、私にも、あなたの御仲間探し、手伝わせていただけますか? いつ何時、先程のような賊が現れるとも限りませんし、護衛も兼ねて、お供いたしますよ」
「よろしいんどすか? ですが、どこにおるか見当もつきまへんし、ご迷惑では」
「どこにいるか分からぬのなら、二人で探したほうが、一人よりも早く見つかるでしょう。私は行く宛もない放浪の身です。徳を積むためにも、お力にならせていただければと思います」
 その親切な申し出に、楸は胸が一杯になる。また、泣きそうになった。
 本当は、不安で不安で、堪らなかった。紅の存在が、とても有り難かった。
「おおきにどす。心強いどす」
「杖がなくては、歩くのも大変でしょう。どうぞ、お使いなさい」
 紅に渡された杖を突きながら、楸は紅の誘導を受けつつ、ゆっくりと前に向かって歩き始めた。
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