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当日
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礼拝堂は、ニコラオスのものと比べたら小さい。
バスケットコート一面と少し。一学年がどうにか収まる小さな体育館という雰囲気だ。けれど一応舞台があって、歩いて回れる広さもある。校舎裏で立地は悪いがその分静かだ。
「…………」
学園祭当日の朝。
学校はとても慌ただしい。慌ただしいことを楽しんでいる。グラウンドに荷物を下ろす生徒も、せーのと声を揃えている女子たちも、急ぎながらはしゃいでいる。学園祭の準備をはじめた数週間前からずっと楽しい非日常なのだ。
柳はそれを他人事のように見守っていた。明るく楽しげな学校は、分厚い膜の向こうにある。
あの日、言っていなかった気持ちを伝えただけのあの日から、柳の五感は鈍っていた。何もかもが遠い。真実味がなく、どうでもいい。
「何で当日に絵の位置が変わるんだよ!」
「悪かったって!」
入り口に寄りかかる柳の横を、大きな絵を抱えたニコラオスの生徒が駆け抜ける。扉の陰で見えなかったのだろう。キャンパスの角が本当に鼻先をかすめたけれど、柳の驚きは二秒遅く、遠かった。わあ、と頭の一部がのんびり反応して、それきりだ。
すべてに意味を感じない。
「…………」
「やー。ごめんごめん。間に合ったわー」
ただ九条の声、九条の姿にだけ反応してしまう。彼が強い磁石になったように、目や耳がすっとそちらを向くのだ。
上半身ほどもある木像を無造作に担いた九条が、いつもより乱れた姿で礼拝堂へ入ってきた。急いで身支度してきた雰囲気だ。
準備を進めている仲間たちの挨拶に応えながら、まるで透けて見えていたように、彼は扉の死角にいた柳を振り向き笑いかけてくる。
「柳も焦らせただろ。ごめんな。どうにか間に合ったよ。これだけの大物展示だ、穴が空いたらまずいよな」
「いえ……」
物事は滑車と同じだ。滑らかに進み始めたら余程のことがない限り止まらない。そして余程のことは起こらなかった。学園祭準備にアクシデントはなく、現実感のないまま学園祭は当日を迎えた。
九条は笑っている。何もないかのように。
「見せてください」
だから柳も機械的に、責任者としてその展示品を求めた。大きなものは落ちたり倒れたりしないか確認するのがルールだ。
「設置するテーブルは大型のものでしたっけ」
「ああ。ちゃんと場所空けてもらってるよ」
無造作に渡された木彫刻を、柳はバランスを確かめるように抱えた。重さを確認しながらも視線が自然と吸い込まれる。
「…………」
それは女性の像だった。
ベールをかぶり、それが柔らかなひだを作って腰掛ける膝に落ちている。なめらかな布地だ。土台まで続く緩やかなシワに、木製なのにそう思う。
袖のレースまで見て取れるほど精緻だが、腹部分の膨らみが何なのかはわからない。産み月の腹をゆったりした服が覆っているようにも見えるし、たっぷりの布で包まれた荷物を抱いているようにも見える。
ただ添えられた手がとても優しかった。優美な指先がそうっと触れていて、それで、何か善いものだと感じる。
門外漢の柳に上手い下手はわからない。信仰らしい信仰もない。
けれど感じるのはなぜだろう。
その彫刻に九条を感じる。九条の指先、うつむく加減、柔らかな声を思い出す。そして彼の美しい信仰が伝わる。自分を追い詰め責める世界を、九条が愛しているとわかる。
「……いいのができてよかった」
朝の準備は大忙しだ。部員の騒ぎ声の中、囁き声はふたりにしか聞こえない。
九条は、その女性が膨らみを見下ろしているのと同じ眼差しで、自分が作り出したものを見つめていた。
「彫刻としての出来はともかくな。俺が作ったにしては良くできた。いつもはもうちょっと、怒ってんだよ」
「……そんなに作ってるんですか? 知らなかった」
「小物なら時間もかからないしな。幽霊部員なりに数は作ってる」
柳は彫刻の角に触れた。なめらかな木目には確かに作り慣れた雰囲気がある。
彼は小さくともたくさんの作品を作っているのだ。この聖母のような像と比較するような、信仰心のにじむもの。
聖人。聖書の場面。そして神。己の信仰を形にして、そしてそこに怒りを見る。
「…………」
夜の街で墜落するのと、神を作り続ける行為。どちらが健全なのだろう。
柳には前者がマシに思える。体に悪いことをして見せる行為には他人がいるからだ。一緒に落ちる仲間や、止める人や、あざ笑う人が。
創作には本人しかいない。
誰とも関わらず、酩酊の快楽もなく、ただ己を傷つけている。世界も心も閉じている。
「好きです」
どこかの誰かの笑い声に、柳の声はかき消される。九条以外には届いていない。
けれどたとえこの場が静まり返っていても、柳はその気持ちを口にできた。誰に聞かれたって構わない。柳は恥じていないし、禁じられているとも感じない。自分は彼が好きで、それは何も間違えていない。
「九条さん。好きです」
「…………」
喧騒の中、九条は意固地に木彫刻を見下ろしている。一文字に結んだ唇の中で何かを飲み込んでいる雰囲気があった。
十分な時間を置いて、彼は呟く。
「……もう、言うな。そういうの」
「どうして」
九条は決して柳を見ない。彼は落ち着いた声で続ける。
「俺は、ずっと、我慢してるんだ。お前が思うよりずっと長く。……羨ましいだろ。だから言うな」
「でも」
他に言いたいことがないのだ。
唯一の言葉を禁じられて柳は何もできなくなった。そしてそれは、己の愛を神に禁じられている九条の閉塞感なのだと察した。
そうでしかいられないのに、そうではいけない。どうしようもない。一歩も進めない。
「…………」
柳は酒の味を思い、嫌いだったそれを飲みたいと思った。九条がそうしてどうにか耐えていたように。
バスケットコート一面と少し。一学年がどうにか収まる小さな体育館という雰囲気だ。けれど一応舞台があって、歩いて回れる広さもある。校舎裏で立地は悪いがその分静かだ。
「…………」
学園祭当日の朝。
学校はとても慌ただしい。慌ただしいことを楽しんでいる。グラウンドに荷物を下ろす生徒も、せーのと声を揃えている女子たちも、急ぎながらはしゃいでいる。学園祭の準備をはじめた数週間前からずっと楽しい非日常なのだ。
柳はそれを他人事のように見守っていた。明るく楽しげな学校は、分厚い膜の向こうにある。
あの日、言っていなかった気持ちを伝えただけのあの日から、柳の五感は鈍っていた。何もかもが遠い。真実味がなく、どうでもいい。
「何で当日に絵の位置が変わるんだよ!」
「悪かったって!」
入り口に寄りかかる柳の横を、大きな絵を抱えたニコラオスの生徒が駆け抜ける。扉の陰で見えなかったのだろう。キャンパスの角が本当に鼻先をかすめたけれど、柳の驚きは二秒遅く、遠かった。わあ、と頭の一部がのんびり反応して、それきりだ。
すべてに意味を感じない。
「…………」
「やー。ごめんごめん。間に合ったわー」
ただ九条の声、九条の姿にだけ反応してしまう。彼が強い磁石になったように、目や耳がすっとそちらを向くのだ。
上半身ほどもある木像を無造作に担いた九条が、いつもより乱れた姿で礼拝堂へ入ってきた。急いで身支度してきた雰囲気だ。
準備を進めている仲間たちの挨拶に応えながら、まるで透けて見えていたように、彼は扉の死角にいた柳を振り向き笑いかけてくる。
「柳も焦らせただろ。ごめんな。どうにか間に合ったよ。これだけの大物展示だ、穴が空いたらまずいよな」
「いえ……」
物事は滑車と同じだ。滑らかに進み始めたら余程のことがない限り止まらない。そして余程のことは起こらなかった。学園祭準備にアクシデントはなく、現実感のないまま学園祭は当日を迎えた。
九条は笑っている。何もないかのように。
「見せてください」
だから柳も機械的に、責任者としてその展示品を求めた。大きなものは落ちたり倒れたりしないか確認するのがルールだ。
「設置するテーブルは大型のものでしたっけ」
「ああ。ちゃんと場所空けてもらってるよ」
無造作に渡された木彫刻を、柳はバランスを確かめるように抱えた。重さを確認しながらも視線が自然と吸い込まれる。
「…………」
それは女性の像だった。
ベールをかぶり、それが柔らかなひだを作って腰掛ける膝に落ちている。なめらかな布地だ。土台まで続く緩やかなシワに、木製なのにそう思う。
袖のレースまで見て取れるほど精緻だが、腹部分の膨らみが何なのかはわからない。産み月の腹をゆったりした服が覆っているようにも見えるし、たっぷりの布で包まれた荷物を抱いているようにも見える。
ただ添えられた手がとても優しかった。優美な指先がそうっと触れていて、それで、何か善いものだと感じる。
門外漢の柳に上手い下手はわからない。信仰らしい信仰もない。
けれど感じるのはなぜだろう。
その彫刻に九条を感じる。九条の指先、うつむく加減、柔らかな声を思い出す。そして彼の美しい信仰が伝わる。自分を追い詰め責める世界を、九条が愛しているとわかる。
「……いいのができてよかった」
朝の準備は大忙しだ。部員の騒ぎ声の中、囁き声はふたりにしか聞こえない。
九条は、その女性が膨らみを見下ろしているのと同じ眼差しで、自分が作り出したものを見つめていた。
「彫刻としての出来はともかくな。俺が作ったにしては良くできた。いつもはもうちょっと、怒ってんだよ」
「……そんなに作ってるんですか? 知らなかった」
「小物なら時間もかからないしな。幽霊部員なりに数は作ってる」
柳は彫刻の角に触れた。なめらかな木目には確かに作り慣れた雰囲気がある。
彼は小さくともたくさんの作品を作っているのだ。この聖母のような像と比較するような、信仰心のにじむもの。
聖人。聖書の場面。そして神。己の信仰を形にして、そしてそこに怒りを見る。
「…………」
夜の街で墜落するのと、神を作り続ける行為。どちらが健全なのだろう。
柳には前者がマシに思える。体に悪いことをして見せる行為には他人がいるからだ。一緒に落ちる仲間や、止める人や、あざ笑う人が。
創作には本人しかいない。
誰とも関わらず、酩酊の快楽もなく、ただ己を傷つけている。世界も心も閉じている。
「好きです」
どこかの誰かの笑い声に、柳の声はかき消される。九条以外には届いていない。
けれどたとえこの場が静まり返っていても、柳はその気持ちを口にできた。誰に聞かれたって構わない。柳は恥じていないし、禁じられているとも感じない。自分は彼が好きで、それは何も間違えていない。
「九条さん。好きです」
「…………」
喧騒の中、九条は意固地に木彫刻を見下ろしている。一文字に結んだ唇の中で何かを飲み込んでいる雰囲気があった。
十分な時間を置いて、彼は呟く。
「……もう、言うな。そういうの」
「どうして」
九条は決して柳を見ない。彼は落ち着いた声で続ける。
「俺は、ずっと、我慢してるんだ。お前が思うよりずっと長く。……羨ましいだろ。だから言うな」
「でも」
他に言いたいことがないのだ。
唯一の言葉を禁じられて柳は何もできなくなった。そしてそれは、己の愛を神に禁じられている九条の閉塞感なのだと察した。
そうでしかいられないのに、そうではいけない。どうしようもない。一歩も進めない。
「…………」
柳は酒の味を思い、嫌いだったそれを飲みたいと思った。九条がそうしてどうにか耐えていたように。
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