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忌み嫌うべきこと
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けれど九条が落ちていくから、勝手に生きることを諦めるから、柳だって決めたのだ。
「……っ俺は、博士にも、大臣にもならない」
喫茶店での怒声のことだと、九条は気づいただろうか。わからない。柳は伝わるかどうか考える余裕なく、歯を食いしばって訴える。それが可能なら言葉で九条を殴りつけたいくらいだった。
「弁護士にも、医者にもならない。偉いものにはならない。世界一の商売人になるんです。金を稼ぐ商売人に」
「…………」
「それで、札束で、世界を引っ叩くんです」
彼の性指向はわかっていた。ずっとわかっていたのだ。
人に触れるとき遠慮がある。性的な質問を避けている。恋愛の話になったとき、興味がない風に受け答えながら綱渡りするような緊張感を持っていた。
彼の信仰。刹那的な生き様。
別れを持ち出したときにはもう、それが同性愛ゆえのものだとわかっていた。
「九条さんは善なるものだ。綺麗な、いいものだ。俺にはそうとしか思えない。違うというならその判断が間違ってる。おかしいという世界が間違ってる」
「……柳」
「だから、金で解決するんだ。勉強して、いい大学に行って、儲けまくって、それで世界を変えるんです。善いことだって金がないとできないんだ。金があれば九条さんの信じる宗教だって形を変える。それで、正しい判断をさせるんです」
「柳」
「九条さんは正しい……っ」
九条の信仰は九条を傷つける。だから、柳は信仰の形自体を変えることにしたのだ。
「九条さんは正しいんだ……っ」
「泣くなよ……」
困りきった声がもう酔っていないことに、柳は気づけなかった。子供のように意固地に繰り返す。
「九条さんは悪くない! 絶対何も悪くない!」
「泣くなって」
なだめる声とともに柳の後ろ頭に指が入った。短い髪を指の間から流すように撫でられる。
声は甘い。優しく穏やかだ。こんな場所なのに。
「よしよし、柳。かわいそうだなあ。えらいなあ……」
「…………」
言ってほしいことを言うから、指が柳をいたわるから、強がりを忘れてしまう。強いふりをしたいのに柳は子供のように頷いた。
内申のために生徒会長を目指し、成績を上げ、将来使う可能性のあるものを片っ端から学んだ。ずっと頑張っていた。やりすぎだと誰に言われても無視して駆け抜けられたのに、原因の九条の言葉だけが柳をおかしくする。
「えらい、えらい……」
途切れないその声を、柳はずっと聞いていた。心が満ちるまで膝の上の頭を抱いていた。
ふと我に返ったのはなぜだろう。
音楽が変わったからか、人が通ったからか、九条と目が合ったからか。
「……ん?」
違和感に気づいたのだ。正確には違和感がないことに気づいた。
九条は半年前もよく酒を飲んだ。柳は酔っている彼を知っているし、酔いから覚めた九条も知っている。
そう。知っているのだ。
「え? ……え!? だ、だって、く、九条さん、悪いものやったんでしょう!?」
「ばーか!」
思わず放り出した頭は、そのまま身軽に起き上がった。
床の上にあぐらをかき向き直った彼は笑っている。早とちりを面白がる、いたずらっぽい、からかう顔で。
「かわいいなあ、柳」
「どっ、どういうことですか!?」
「俺のセリフだよ。お前。俺が薬やるってなんで決めつけてるんだよ」
「だって、だって、紙が……」
過去、この店で九条に薬物を差し出してきた売人は、辞書の切れ端に挟んで渡してきた。ご親切にもそれを巻いて吸うのだとすら教えてくれたのだ。
それが、ついこの間九条と会った喫茶店に落ちていた。いかにも薬をやっていそうな客がいたと店員も答えた。
「何だよそれ」
どもりながらの説明を聞き終わるなり、九条がっくり肩を落とす。
「全然身に覚えがない。俺じゃねえよ。それに誘われたときも言ったと思うけど、そんな加減の難しいやり方素人の俺は手出さねえよ」
「だ、だって店員さんも」
「葉っぱくさい紙が落ちてたんだろ? 確かにそりゃやってるやつが落としたんだろう。店員がそうとわかるくらいの見た目のやつが。でも、それは俺じゃない」
「…………」
「そもそも俺はあの店には近づいてない」
「じゃあ、ひ」
人違い、かもしれない。
そうだ。考えてみれば、薬に使うものが落ちていたのだから「薬をやっていそうな人」がいて当たり前だ。
店員は来店したどこかの迷惑者を思い浮かべて肯定し、柳は九条だと誤解した。
「…………」
「先に確認しろ」
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「早とちりして。バカめ」
誰にも見られたくないと思う柳の前には九条がいた。思わず彼の肩口に顔を伏せた柳を、九条が笑う。からかいながら背中をさすってくる手が優しい。
顔を覗き込むと笑顔が返った。たった一枚の写真と同じ、打ち解けた、明るい笑顔。
「本当にバカだなあ、お前。思い込みでこんなところまで来たのか? この店のこと、あんなに怖がってたのに」
「怖がってたわけじゃ……」
「怖がってただろ。先に行って待ってろって言っても、絶対に嫌だって俺が来るまで近くのファミレスに居座ってたくせに」
「違います。怖いとかじゃなくて用事がなかった。俺はいつも、九条さんが心配で着いてきてただけだから」
「心配?」
「いなくならないように。悪いものに手を出さないように。俺と一緒に進学したり就職したり、普通の将来に進むんだって忘れないように」
「…………」
夜の、違法物の、その日限りの世界。
「俺がいるってことを忘れないように。……っわ!」
九条は無言で柳の頭を掴んだ。犬猫にでもするように、両手で髪をかき回される。
「まったく」
かき回され続ける頭は揺れて、九条の顔を見ることができない。けれど声は甘やかだ。優しく穏やかな、ケンカ別れをする前の九条だ。
「お前はバカだなあ」
「……っ俺は、博士にも、大臣にもならない」
喫茶店での怒声のことだと、九条は気づいただろうか。わからない。柳は伝わるかどうか考える余裕なく、歯を食いしばって訴える。それが可能なら言葉で九条を殴りつけたいくらいだった。
「弁護士にも、医者にもならない。偉いものにはならない。世界一の商売人になるんです。金を稼ぐ商売人に」
「…………」
「それで、札束で、世界を引っ叩くんです」
彼の性指向はわかっていた。ずっとわかっていたのだ。
人に触れるとき遠慮がある。性的な質問を避けている。恋愛の話になったとき、興味がない風に受け答えながら綱渡りするような緊張感を持っていた。
彼の信仰。刹那的な生き様。
別れを持ち出したときにはもう、それが同性愛ゆえのものだとわかっていた。
「九条さんは善なるものだ。綺麗な、いいものだ。俺にはそうとしか思えない。違うというならその判断が間違ってる。おかしいという世界が間違ってる」
「……柳」
「だから、金で解決するんだ。勉強して、いい大学に行って、儲けまくって、それで世界を変えるんです。善いことだって金がないとできないんだ。金があれば九条さんの信じる宗教だって形を変える。それで、正しい判断をさせるんです」
「柳」
「九条さんは正しい……っ」
九条の信仰は九条を傷つける。だから、柳は信仰の形自体を変えることにしたのだ。
「九条さんは正しいんだ……っ」
「泣くなよ……」
困りきった声がもう酔っていないことに、柳は気づけなかった。子供のように意固地に繰り返す。
「九条さんは悪くない! 絶対何も悪くない!」
「泣くなって」
なだめる声とともに柳の後ろ頭に指が入った。短い髪を指の間から流すように撫でられる。
声は甘い。優しく穏やかだ。こんな場所なのに。
「よしよし、柳。かわいそうだなあ。えらいなあ……」
「…………」
言ってほしいことを言うから、指が柳をいたわるから、強がりを忘れてしまう。強いふりをしたいのに柳は子供のように頷いた。
内申のために生徒会長を目指し、成績を上げ、将来使う可能性のあるものを片っ端から学んだ。ずっと頑張っていた。やりすぎだと誰に言われても無視して駆け抜けられたのに、原因の九条の言葉だけが柳をおかしくする。
「えらい、えらい……」
途切れないその声を、柳はずっと聞いていた。心が満ちるまで膝の上の頭を抱いていた。
ふと我に返ったのはなぜだろう。
音楽が変わったからか、人が通ったからか、九条と目が合ったからか。
「……ん?」
違和感に気づいたのだ。正確には違和感がないことに気づいた。
九条は半年前もよく酒を飲んだ。柳は酔っている彼を知っているし、酔いから覚めた九条も知っている。
そう。知っているのだ。
「え? ……え!? だ、だって、く、九条さん、悪いものやったんでしょう!?」
「ばーか!」
思わず放り出した頭は、そのまま身軽に起き上がった。
床の上にあぐらをかき向き直った彼は笑っている。早とちりを面白がる、いたずらっぽい、からかう顔で。
「かわいいなあ、柳」
「どっ、どういうことですか!?」
「俺のセリフだよ。お前。俺が薬やるってなんで決めつけてるんだよ」
「だって、だって、紙が……」
過去、この店で九条に薬物を差し出してきた売人は、辞書の切れ端に挟んで渡してきた。ご親切にもそれを巻いて吸うのだとすら教えてくれたのだ。
それが、ついこの間九条と会った喫茶店に落ちていた。いかにも薬をやっていそうな客がいたと店員も答えた。
「何だよそれ」
どもりながらの説明を聞き終わるなり、九条がっくり肩を落とす。
「全然身に覚えがない。俺じゃねえよ。それに誘われたときも言ったと思うけど、そんな加減の難しいやり方素人の俺は手出さねえよ」
「だ、だって店員さんも」
「葉っぱくさい紙が落ちてたんだろ? 確かにそりゃやってるやつが落としたんだろう。店員がそうとわかるくらいの見た目のやつが。でも、それは俺じゃない」
「…………」
「そもそも俺はあの店には近づいてない」
「じゃあ、ひ」
人違い、かもしれない。
そうだ。考えてみれば、薬に使うものが落ちていたのだから「薬をやっていそうな人」がいて当たり前だ。
店員は来店したどこかの迷惑者を思い浮かべて肯定し、柳は九条だと誤解した。
「…………」
「先に確認しろ」
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「早とちりして。バカめ」
誰にも見られたくないと思う柳の前には九条がいた。思わず彼の肩口に顔を伏せた柳を、九条が笑う。からかいながら背中をさすってくる手が優しい。
顔を覗き込むと笑顔が返った。たった一枚の写真と同じ、打ち解けた、明るい笑顔。
「本当にバカだなあ、お前。思い込みでこんなところまで来たのか? この店のこと、あんなに怖がってたのに」
「怖がってたわけじゃ……」
「怖がってただろ。先に行って待ってろって言っても、絶対に嫌だって俺が来るまで近くのファミレスに居座ってたくせに」
「違います。怖いとかじゃなくて用事がなかった。俺はいつも、九条さんが心配で着いてきてただけだから」
「心配?」
「いなくならないように。悪いものに手を出さないように。俺と一緒に進学したり就職したり、普通の将来に進むんだって忘れないように」
「…………」
夜の、違法物の、その日限りの世界。
「俺がいるってことを忘れないように。……っわ!」
九条は無言で柳の頭を掴んだ。犬猫にでもするように、両手で髪をかき回される。
「まったく」
かき回され続ける頭は揺れて、九条の顔を見ることができない。けれど声は甘やかだ。優しく穏やかな、ケンカ別れをする前の九条だ。
「お前はバカだなあ」
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