【完結】それは忌み嫌うべきものである

にのまえ

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危惧

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 塾の図書室は種類豊富だ。
 講義までの時間つぶしや、自習の気晴らし、進路選択の助けのためもあるだろう。受験には関係ない読み物や、少数ながら雑誌も並んでいた。
「んー」
 柳は数冊を抱えて図書室を出る。
 今日最後の講義が行われているこの時間、人が残っている道理もないので建物はしんと静まり返っていた。柳は抱えた本の一番上、タイの観光本を開く。
 タイは、今更調べるまでもなく仏教国だ。多くの国と同様に宗教が文化のベースにあり、ローイクラトンも仏教由来の行事である。とはいえ、今はもう外国人のためにやっている観光イベントだ
「うちはともかく、ニコラオスが認めるかだよな……」
 桜ヶ丘は緩いだろう、というのは在校生として想像できたが、敬虔なニコラオスはどうだろう。現在の扱いはどうあれ由来が由来だし難しいだろうか。
 だが他校の許容範囲など考えたところでわからない。
 柳はひと気のないホールでベンチに腰掛けた。観光本をパラパラと眺めながらスマホを取る。
「……うーん……」
 連絡用のアプリから、九条の名前を選択する。内容を吟味しすぎるせいで何度も手が止まり、その度スマホの画面が消えた。柳は何度も明かりを付け直しながら打ち込んでいく。
『今日話した学祭出展の内容ですが』
 半年前、それきりになるとは想像もしていなかったメッセージの下に、新しい言葉を紡いでいく。軽い口調の待ち合わせの次に一変して硬い文章を並べていくのは不思議だ。
『仏教の、罪を認めて身を清める祭りが由来のようです。今となっては観光用のイベント色が強いですが、聖ニコラオスの校風はローイクラトンを真似したイベントを許すでしょうか? その点確認をお願いしたいです』
「……長!」
 一言二言の短いメッセージが主流のアプリだ。その中では異質な長文に送るかどうか一瞬迷ったが、どうにでもなれ、と投げやりな気持ちで送信ボタンを押した。
 半年ぶりの連絡は画面半分を埋めるほど長い。
「お、おかしくないよな、事務連絡だったらこれくらい……」
 ときには生徒会の用事でこんな文章を送ったりしたはずだ。
「…………」
 安心したくて似たような長文を探す目が、やがて自然と自分たちの過去のやり取りを追い始める。
 遊んで別れた帰り道、話し足りなかったように交わすその日行った店の感想。授業や勉強の愚痴。他愛のないやり取り。休み時間いっぱい話した会話。思い出したような生徒会の連絡。親しかったころの九条がスクロールされる。
「裏切る……」
 昨日、彼が言い残したそれはどういう意味だろう。
 半年前の仲違いの原因はわかっている。九条はあれで子供っぽい。拗ねるかな、とは思っていた。時間を共有できないことで疎遠になる可能性も考えていた。
 けれど今、九条は柳を憎悪している。
「……どういう認識なんだろう」
 拗ねるかも。疎遠になるかも。逆に言えば柳はその程度のことだと思っていた。不快だが顔を見なければ気が済むような軽い嫌悪感だと。
 憎悪だなんて考えてなかった。
 見えているものが違うのだろうか。柳にとっては少し嫌われる程度のことが、九条にとっては重要な裏切りだった。裏切られた。だから憎悪している。
「……はあ」
 考えて人の気持ちがわかるなら、九条とは喧嘩した日に仲直りしている。柳はため息を付いた。
 とにかく今はできることをやるだけだ、とナイロンバッグに本を入れて立ち上がる。塾図書室は貸し出し期限が長く学園祭まで借りていられる。鞄ごと学校に置いておくつもりだった。
 もう時間をつぶす用事はないが、塾を出た足はあの喫茶店に向かっていた。一心地つきたい気持ちもあったが、それ以上に、もしかしてという期待がある。彼は柳があの店に通っているのかと聞いてきた。もしかしたらまた会えるかもしれない。
「…………」
 彼のことを思っているから、歩き慣れた通りでついスマホを覗いてしまう。先程の連絡に既読はついていない。
 もちろん気づかないタイミングもあるだろう。風呂に入っているだとか、離れているだとか。不思議なことじゃない。
 そう鞄に押し込んだが、しかし妙に気になった。
 喫茶店にたどり着いた柳は席につくなりまたアプリを開いた。地下鉄の回送にぶつかって二十分ほど経っているがまだ読まれていない。
「…………」
 九条はいつだって手元にスマホを置いていた。返信だって、後回しにすると忘れてしまうといっていつも即座に返していた。
 ブロックされているだけだろうか。悲しくはあるが、平和的な回答だ。
 それを望む気持ちとは裏腹に、納得できない感情とともに視線が窓際の席に向かってしまった。今は人が座っているテーブルの奥。ガラスを小突いてきた九条の姿を思い描く。
 酔っていたとはいえ相手から合図を出しておきながら、一方で拒絶したままなんてあるだろうか。
「……いやいやいや。半年前にブロックされた、あの日は酔ってた、それだけだ」
 小声で己に言い聞かせた柳は、それから周囲の視線が気になり俯いた。常連面でどうにか馴染んでいるが、一人でブツブツ言うような不気味な様子を見せると悪目立ちしてしまう。
「……ん?」
 誤魔化すように鞄の中を探ろうとして、柳はふと足元の紙くずに気づいた。
 拾い上げたのは嫌な予感がしたからだ。
 くしゃくしゃと丸められているのは千切り取られた辞書のようだった。ポケット大というのだろうか。文庫本より小さいページには英語と日本語が並んでいる。
 インクの色も薄れているし、辞書特有の薄い紙も端が汚れている。古いものだろう。
「…………」
 一見するとただのゴミだ。けれど柳はそれに鼻を寄せていた。
 すぐに気づくほど濃い、妙な香り。香水などの人工物とは違う。
 草むしりをした手のような、失敗した押し花のような、そのくせ妙に乾いた青臭い匂い。
 柳が直接知っているわけではない。けれど夜の町にはその植物の匂い、その薬の気配がある。手巻きタバコの要領で、薄手の紙を使って吸う方法は広く知れ渡っている.
「く、っく、九条さん……」
 柳は冷静ではなかった。
 この間九条とこの店で会った。その際柳はいつも来るのかと聞いたのだ。避けたいにしろ会いたいにしろこの店のことは記憶しただろう。
 そして今現在連絡が取れない。いや、取れないことに不思議はないのだが、説明はついているのだが、とにかく連絡が取れない。
 そして彼には、半年前柳が離れたとき、こういうものがそばにあった。
「……っすみません!」
 気づけば柳は大声を上げていた。もう今後この店でどう見られるかなど考えられない。血相を変えてレジに身を乗り出すと、店員は驚いた顔で体を引いた。
 怯える様子に気も使えない。柳は掴みかからんばかりに尋ねる。
「今日、ここに、あの席に、若い人が来ませんでしたか」
「え、えっ? 若いと言われても……どういう……」
「ええと……細身の……」
 九条がいたか尋ねたい。けれど焦るほど言葉が迷う。
 彼のことを、柳は言葉で表現できない。
 九条は九条なのだ。明るく笑った。夜遊びに馴染んだ。酒を飲んで楽しくなるといつも柳に絡みついて、ある日一枚だけ写真を撮った。
 細い体。軽い足取り。好んだ相手ほどからかう性格。
 九条というすべての要素が重要で、取捨選択し、適当な言葉に落とし込めない。
「……や、っヤバそうな人は来ませんでしたか。その、悪い薬をしてそうな」
 認めたくないがそう聞くのが一番だ。
 質問に、店員はもはや嫌悪の表情を浮かべた。制服を着た常連客への言葉は砕ける。
「知り合い? 困るよ。ああいう人は。一見わからなくても感じ取る人は多いから。会うなら別の場所にしてよ」
「…………」
 柳は足元から地面が消えたような気がした。しゃがみ込み、それにしかすがれないとばかりにカウンターにしがみつく。
 ただ、もう越えたのか、と思う。九条はもう越えたのかと。
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