【完結】それは忌み嫌うべきものである

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夜の街

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 柳は奇妙な焦燥感に席を立った。そのまま彼のもとに駆け寄りたい気持ちが、一斉に集まった店内の視線にたたらを踏む。
 一瞬躊躇してから柳はテキスト類をかき集めた。卓上のすべてを鞄に払い落とすような仕草はきっとみっともなかっただろう。九条は目元の筋肉を緩めた。
「く……」
 ダボついたパーカーが背中を向ける。柳の喉はとっさに呼び止めようとしていたが、けれど九条が喫茶店の入口に向かったのでこれ以上の視線は浴びずに済んだ。
 そうだった、と柳は思う。
 昔、まだ親しく遊んでいたとき、九条はそうするのが癖だった。柳が窓辺に見えたとき、まっすぐ入ってくることはしないで必ずこうして注意を引いて笑ったのだ。その笑顔を思い出す。
 仲良くしていた。たくさん連絡を取り、約束して、今みたいに待ち合わせをした。
「…………」
 そのときと同じように、九条は柳のもとに来た。
 ジーンズと黒のパーカー。どちらも大きめで汚れている。擦った跡を気にする様子がないせいか重たいシルエットのせいか、制服姿の彼より緩く、怠惰に見える。
 声も嗄れて小さかった。
「……何してんの、こんなところで」
「次の……習い事までの、時間調整です」
「ご注文はお決まりですか?」
 立ったままの質問に立ったまま答えたところで店員が来た。
 喫茶店だ。入店した九条は当然客になる。ふたりとも条件反射で席についたのが互いにわかった。
 テーブルを挟んで向かい合うふたりは、本当は喧嘩しているのに、半年も無視されているのに、傍目にはきっとただの友達だ。
「…………」
 鏡状になった夜の窓ガラスは柳の夢のようだった。小さなテーブルの正面に九条がいる。手が届くほど近くに。
「あー……」
「オレンジジュース」
 メニュー表を探す指先に、柳は横からウェイトレスへ注文した。それから本人に弁解する。
「オレンジジュース。濃くて美味しいですよ。ここの」
「……ん。じゃあ、それ」
 九条の言葉に店員は人当たりよく頷いた。難しい注文ではない。女性が下がったと思ったらグラスが出てくる。そうして二人取り残される。
「…………」
「…………」
 柳はじっと彼を見ていた。正確に言えば夢心地に眺めていた。九条が座っている。半年前のように、向かい合っている。
 九条は数度取り落しながらストローの袋を破きグラスに差した。喉が乾いている様子だ。柳は彼が半分ほど一気に飲み、ふっと息をつくまで待った。
「酔いは覚めました?」
「……ん」
 ぼうっとした目がそれでも柳を捉え、首肯する。小さな仕草は子供っぽくて、全然まったく覚めていないなと柳は内心ため息を付いた。
 九条は酔っている。ついさっきまで酒を飲んでいたのだ。
 責める言葉は出てこない。親しく遊んでいたときから彼は飲酒していたし、その現場に柳も居合わせていたのだ。それこそ写真のような猥雑な店でくつろげるほど、ふたり一緒に夜遊びをした。
「ずいぶん飲んで」
「うるさ……」
 柳は卓上のピッチャーを取り九条のためのお冷を注いだ。口の中が甘かったのだろう。ぶつぶつ文句を言いながらも九条は冷えた水に手を伸ばす。
 前とは違うな、と不思議な夢心地の中で柳は思う。初めての夜遊びで臆する自分に、何かを促したり勧めたりするのはいつも九条だったのに。
「……危険な場所には、行ってませんか?」
「は?」
「いえ。だってかなり前から補導は厳しくなってたでしょう。九条さんは幼くは見えないけど、それでも外見は成人してるかどうかギリギリだ。九条さんに酒を出すような店、もう多くないんじゃないですか」
「…………」
「そんな雰囲気の中、そこまで酔うほど酒を飲んできた。俺はそこが、ただだらしないだけの店ならいいと思ってます。……危険な場所ではないですよね?」
「……うるせ。母親かお前は」
 げんなりしたような声はそれでも力なかった。九条は飲み始めはハイになるが、酒が過ぎたり時間が経つと反動のようにローテンションになる酒癖だった。
「……飲むのをやめろ、とは言わないです。もともと一緒に始めた夜遊びですしね」
 仕方がなかった。
 今年の生徒会役員です、姉妹校としてよろしくと、挨拶をしたのが初対面だった。軽薄ではない身軽さを持つ九条。柳は当然のように彼に憧れたし、弟分とでも思ったのか九条もそれを喜んでくれた。
 初めてふたりだけで会ったのは夜だ。会議の後、少し寄り道するかとファストフード店で話し込んだ。連絡先を交換したあとも、数ヶ月に一度の会議の日は遅くまで遊び歩いた。別れ難かったのだ。
 そうしたらいつの間にか、ふたりは夜に馴染んでいた。
「夜遊び?」
 九条の声音には明らかな嘲りがある。
「遅くまでぶらついてただけじゃないか、お前は。悪いことは何もしなかった。危険なものには近づかなかった。今、『習い事の時間調整』をしているのと実質的には同じだ。お前、今日自分が夜遊びしてると思うか?」
「……いいえ」
「ならお前は今まで一度だって夜遊びをしなかった」
「……そうですね」
 ファストフード店、ゲームセンター、古着屋、ファミレス。
 柳にとってはただ時間が遅いだけだった。九条に特別心を許しているだけで他の友人と出歩くのと変わりない。
 彼だけが違った。違ったのだろう。
 ファミレスからもっと小規模でひと目のない飲食店へ。ゲームセンターからもっと華やかなクラブへ。柳を促したのは九条だ。臆する柳とは真逆に、九条は夜深い空間が心底過ごしやすいようだった。
 夜遊びする九条と、添え物の柳。一年前の二人の関係は、思えばその言葉が一番似合う。
「……いつも、ここ、いんの?」
 言おう、言おう、と口の中で何度も唱えたのかも知れない。小さな声はどこか緊張していて、なのに滑らかだ。
 自分がどこに滞在するか、九条がどうして気にするのだろう。困惑しながらも柳は答える。
「そうですね。頻繁ではないですけど。時間を潰したり寄り道するのはここです」
「ふうん」
 やはり緊張した雰囲気の相槌を打った九条は、話を変えるように急にころりと表情を変えた。
 明るい顔が笑う。彼の声に嘲りが混じっていても、柳はその笑顔の朗らかさに見惚れる。
「この間、お前すごく困ってたな。生徒会の顔合わせでさ」
 話に脈絡がない。酔い過ぎているのか、それともさっきの質問について追求されたくないのか。
 訝しみながらも柳は調子を合わせた。
「本当ですよ。みんな驚いてた。せめて人前では普通にしてください」
「知るか」
「うちの一年だってあれからずっと九条さんに偏見を持ってるんです」
「……っ知るか」
 九条は戸惑いを見せたが、すぐに言い返してきた。子供が屁理屈で反論するような、幼い反応だ。
「なんで俺の評判を気にしてるんだ」
「それはもちろん」
「いや。いい。聞きたくない」
「質問しておいて何ですか。聞いてください。俺が九条さんの評判を気にするのは……」
「いいって! 黙れ!」
 遮った彼は話題を探すように視線を動かす。急いで片付けようとしたぐちゃぐちゃのテキストに目が留まるのは当然だろう。
「なんだこれ。中国語?」
「そうです。これから語学学校なんです。塾と時間が合わなくて社会人用の授業だから、時間調整が必要で」
 残業も考慮した時間設定は高校生には遅すぎる。
 親御さんはとよく心配されるが、柳の両親は放任主義だ。高校生なら自分で自分の後始末をしろと、夜遊びのときだって顔をしかめるだけだった。きちんと行き先と帰宅時間を知らせている今文句を言うわけがない。
 いや、一応は言われているか。
 最近はよく無理し過ぎだと叱られる。
「そういえば、初めて夜に遭遇しましたね」
 遊び場とは無縁だが、柳は今日のように夜遅くも街にいる。九条が半年前の頻度で遊んでいるのなら今日まで出会わないのは意外だった。
 特に賑やかなのはこのあたりだが、普段は地元で遊んでいるのかもしれない。
「…………」
 九条は退屈そうに手を伸ばし、細い指でテキストの縁を取った。親指からパラパラ角を落とすと、簡体字が卓上にこぼれる気がする。
「……中国語なんて勉強して。英語はもう良いってことか?」
「ええ。受験分は大体」
「TOEICは?」
「え……そうですね、八百弱……」
 学力の話なんて親しいときもしなかった。戸惑いつつ答えると、九条は友人の冗談に笑うように、本当に何の気もない笑みをこぼす。
「すげーな。多分追い抜かれた。俺七百台だ」
「いや、でも、弱です。八百に届かないくらい。だから……」
 成績の優劣に興味がないとわかっているのに、柳は焦って弁解する。
 九条は卓上に肘をついた。頬杖ではなく前腕に頬を押し付け脱力する、全身をぐにゃりとさせた様子はいかにも酔っている風だ。
 だから滲んだその感情も、泣き上戸や笑い上戸のように、アルコールが過剰にさせたものだろうか。
「最近何もしてねーもん。もう忘れてるよ」
「九条さん……」
「馬鹿になっちまったなあ……」
 そう呟く九条は喜んでいる。
 暗く静かな喜びだ。十代の時間と可能性を無駄にして、つまり自分をないがしろにして満足している。自分で自分を粗末にしている。
「……九条さん。九条さん、ねえ。本当にどうしちゃったんですか」
「な、何だよ急に。詰め寄るなよ。なにが?」
「もともと夜遊びするのが楽しいみたいだった。違うな、夜にしか開かないような、俺が緊張する薄暗い店がむしろ過ごしやすそうだった。でも、ちゃんと学生もしてたじゃないですか。生徒会長にもなって」
 偏差値の高い高校の、責任ある生徒会長を任される。九条は夜を満喫しながら、それでも、半年前までは昼に軸足を置いていた。
「今は……」
「…………」
「今は過去の信用を食い潰してる」
 己の言葉が腑に落ちる。そうだ。九条はすっかり半年前のバランス感覚を失っている。生徒会でそうだったように「調子が悪い」と思われているだけで、彼はすっかり不健全なのだ。九条はもう夜へと重心を預けている。
 けれど、見つめ返す瞳は動揺すらしていない。
「わかってるよ。俺は過去の俺を食い潰してる。それで何が悪い? 俺の話だ」
「…………」
「『なんでそんなことを』と聞くか?」
 暗い目の挑発に乗ることができない。理由を、彼本人には口にさせられない。
 夜の世界で息抜きをして学生生活をやり過ごしている通り、九条は昼が苦痛なのだ。きちんとした学生でいるためには忍耐や努力が必要なのだ。その負担を取り除いてやることはできない。
 今の話だ。今はまだできない。
「……俺は、たくさん勉強して、いい大学に入って、したいことがある」
 柳はテキストの上で拳を握る。
「やれる努力全部やって、俺は……」
「いい会社に入って出世して、か!?」
 ピシャリと切って捨てるように、九条は鋭くそう言った。声には煮えたぎるような憤怒があって、柳は口をつぐんでしまう。
 九条の唇は笑っていた。けれど硬い頬も身を守る猫背も、柳の存在に憤っている。隠しきれないほど激怒し、なのに、瞳だけ裏切られたように悲しんでいた。
 彼は舌を打ち、大きな音を立てて伝票を取った。そのまま席を立ってしまう。
「せいぜい立身するんだな。社長の娘を口説き落としたら一報入れろ」
「九条さん」
 袖を取りたかったのは言えるはずもないことを伝えたかったからだ。自分の真意。何を成して、何をどう変えたいのかを。
 言えない。言いたい。そんな中途半端さを拒絶するように、九条は柳の手を振り払って吐き捨てる。
「博士でも大臣でも、何にでもなりゃいい。俺を裏切った人生はさぞ神に祝福されるだろうな!」
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