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夜の店
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暗い店内。合皮の赤いソファ。ビールや吸い殻の散らばった、乱雑なテーブル。
大理石調の卓上にはグラスの名残が濡れた円となって残っていた。そこにタバコが散らばって汚らしく濡れている。遠くに大きな照明があるのか、空き缶の表面が白飛びしていた。
そこに、ふたりの男がいる。
「…………」
柳は端末に表示されている写真を撫でた。
個人営業の喫茶店は静かだ。平日のど真ん中、夜の九時。大きな窓の向こうは疲れた大人が行き交っているが、店内にはゆったりした空気が流れている。
社会人が一日の疲れをコーヒーで癒やすような店だ。入りやすい外観ではないし、しかもこんな夜更けとなれば学生は柳一人しかいない。けれどここ数ヶ月通い詰めているので、柳はすっかり場に馴染んでいる。
窓辺のテーブル席についたとき、柳は勉強するつもりだった。だからテキストも出している。けれどここ数日の癖でスマホの写真を表示したら、我を忘れて見入っていた。
地味な服で困った顔で、ピースサインをする自分。そのこめかみに頭突きをするように密着し、面白い冗談を聞いた瞬間のように満面の笑みでうつむく九条。
「……いや、でもなあ」
毎回考えることを柳はやっぱり考えた。
誓って、柳に飲酒喫煙経験はない。ないけれどこの写真の前で説得力は皆無だろう。私立高の生徒会長。確かにこの写真は柳の弱味だ。
しかしばら撒くぞと脅している九条本人も写っているのだ。酒の缶を握り、暗い一枚でもわかるほど顔を赤くしている。言い逃れはできない。彼にとってもこれは弱味だ。
柳を陥れるためには彼も落ちなくてはいけない。
「…………」
けれど彼は落ちていける。九条はどこまでも堕落できる。
半年前、柳はそう感じて彼と離れた。ばら撒いてもいいという脅しはその予感を裏付ける。
彼ならやる。そう思うと何もできないのだから、脅しは成功しているのか。
ほんの少し恨めしく思っているのに、画面を撫でる指先は彼を愛おしんでいた。親密という言葉でも足りない、甘えきっているような距離。子供のような満面の笑み。
ほんのひと時だが柳は知っている。彼の心の柔らかい部分、特別のひとりにしか見せない無垢な部分を、知っている。
「……よし」
気合いを入れて柳は写真を非表示にした。イヤホンを耳に入れ開くアプリは語学学習ソフトだ。ひらいているテキスト同様、流れてくるのは中国語だ。最近やっと単語が拾えるようになってきた。
集中力には自信がある。テキストと音声に、柳はすぐに没頭した。リピート再生される中国語の合間、喫茶店の無関心な喧騒が柳の世界を閉じる。
だからその音が聞こえたのは本当に偶然だ。
「……ん?」
ノックではない。コツンと骨を当てた程度の、風で小枝がぶつかったような何気ない音だ。気づかなくても、気に留めなくてもおかしくない。
けれど柳は聞こえたし、気になって顔を上げた。呼ぶつもりはなかったのだろう。ガラスを小突いた相手のほうが目を丸めて驚いている。
九条だ。
ハーフアップで結ばれた髪。ひと目で伊達とわかる眼鏡。汚れた風の着崩した黒パーカー。ちゃらついた雰囲気は、酔客の増えてきた繁華街に馴染んでいる。
「…………」
彼は疲れている。柳はまずそう思った。
数日前、制服姿の九条が持っていた軽やかな雰囲気は、今は掴み所のない無責任な気配になっている。細身の体つきは同じなのにどこかが病んで枯れている。それはスマホの中の写真とも、数日前の学校で久しぶりに見た九条とも違った。
「九条さんっ」
大理石調の卓上にはグラスの名残が濡れた円となって残っていた。そこにタバコが散らばって汚らしく濡れている。遠くに大きな照明があるのか、空き缶の表面が白飛びしていた。
そこに、ふたりの男がいる。
「…………」
柳は端末に表示されている写真を撫でた。
個人営業の喫茶店は静かだ。平日のど真ん中、夜の九時。大きな窓の向こうは疲れた大人が行き交っているが、店内にはゆったりした空気が流れている。
社会人が一日の疲れをコーヒーで癒やすような店だ。入りやすい外観ではないし、しかもこんな夜更けとなれば学生は柳一人しかいない。けれどここ数ヶ月通い詰めているので、柳はすっかり場に馴染んでいる。
窓辺のテーブル席についたとき、柳は勉強するつもりだった。だからテキストも出している。けれどここ数日の癖でスマホの写真を表示したら、我を忘れて見入っていた。
地味な服で困った顔で、ピースサインをする自分。そのこめかみに頭突きをするように密着し、面白い冗談を聞いた瞬間のように満面の笑みでうつむく九条。
「……いや、でもなあ」
毎回考えることを柳はやっぱり考えた。
誓って、柳に飲酒喫煙経験はない。ないけれどこの写真の前で説得力は皆無だろう。私立高の生徒会長。確かにこの写真は柳の弱味だ。
しかしばら撒くぞと脅している九条本人も写っているのだ。酒の缶を握り、暗い一枚でもわかるほど顔を赤くしている。言い逃れはできない。彼にとってもこれは弱味だ。
柳を陥れるためには彼も落ちなくてはいけない。
「…………」
けれど彼は落ちていける。九条はどこまでも堕落できる。
半年前、柳はそう感じて彼と離れた。ばら撒いてもいいという脅しはその予感を裏付ける。
彼ならやる。そう思うと何もできないのだから、脅しは成功しているのか。
ほんの少し恨めしく思っているのに、画面を撫でる指先は彼を愛おしんでいた。親密という言葉でも足りない、甘えきっているような距離。子供のような満面の笑み。
ほんのひと時だが柳は知っている。彼の心の柔らかい部分、特別のひとりにしか見せない無垢な部分を、知っている。
「……よし」
気合いを入れて柳は写真を非表示にした。イヤホンを耳に入れ開くアプリは語学学習ソフトだ。ひらいているテキスト同様、流れてくるのは中国語だ。最近やっと単語が拾えるようになってきた。
集中力には自信がある。テキストと音声に、柳はすぐに没頭した。リピート再生される中国語の合間、喫茶店の無関心な喧騒が柳の世界を閉じる。
だからその音が聞こえたのは本当に偶然だ。
「……ん?」
ノックではない。コツンと骨を当てた程度の、風で小枝がぶつかったような何気ない音だ。気づかなくても、気に留めなくてもおかしくない。
けれど柳は聞こえたし、気になって顔を上げた。呼ぶつもりはなかったのだろう。ガラスを小突いた相手のほうが目を丸めて驚いている。
九条だ。
ハーフアップで結ばれた髪。ひと目で伊達とわかる眼鏡。汚れた風の着崩した黒パーカー。ちゃらついた雰囲気は、酔客の増えてきた繁華街に馴染んでいる。
「…………」
彼は疲れている。柳はまずそう思った。
数日前、制服姿の九条が持っていた軽やかな雰囲気は、今は掴み所のない無責任な気配になっている。細身の体つきは同じなのにどこかが病んで枯れている。それはスマホの中の写真とも、数日前の学校で久しぶりに見た九条とも違った。
「九条さんっ」
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