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希望(1)
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木漏れ日がサラサラと鳴っている。それはあの子どもの髪をくすぐっている時間を思わせて、明良はひとり、小さく笑った。
三年も経っているのにまだ、耳にはあの音が残っている。
――明良さん。
甘える声が残っていた。
「…………」
三年。もう三年だ。ただ生きているときは長いだけだった年月も、成すべきことがあると瞬く間に過ぎ去った。
明良は伸びた髪を耳にかけ、手元の雑誌に目を落とす。ゴールデンウィーク特集と書かれた雑誌は、あいかわらず装飾過多で読みにくい。けれど毎号届くのでもう慣れた。
希望をえがいた一冊は大衆受け、つまり大手出版社受けしたらしく、光林出版以外からの依頼もわずかに増えた。三年間地道にやっているうちエッセイ系の注文も出てきて、明良はそのうちひとつだけ、コラムの仕事を受けた。
地元の観光スポットをまとめた雑誌。いつか駅前の小さな本屋で、ふたり覗いたあの雑誌だ。半ページもない自分のコラムは自分で見ると場違いなのだが、どうしてだか打ち切られない。
「…………」
春の風が雑誌のページをめくろうとする。それを押さえながら、明良はそのコーナーに目を落とした。
依頼を受けたときから書きたい書きたいと思っていたコラムを、今月号、ようやく書けた。
『両親に会い、人生に区切りをつけてきた』
そう、ほんの数行だけ私物化した文字を読む。
『ようやく人並みになれたと思う』
自分のため使わせてもらったのはそれだけだ。けれど明良には、とても意味のある文だった。
「…………」
母は小さく老いていた。父は酒を飲み怒鳴っていたが、うるさい中年男にしか見えなかった。
おそろしくも、愛おしくもなかった。だから怒りも悲しみもなかった。さざなみひとつ立たない胸は明良を安堵させた。
彼らへの感情が摩耗したのには様々な理由があるだろう。年月や、今の安定した静かな生活。
けれど一番は純也の存在だ。
人と自分を重ねずとも、相手を愛せる人間になる。
再会したとき、失敗しない自分になる。
母であった女が泣いても、父であった男が叫んでも、明良は二十八の自立した男でいられた。彼らに傷つけられるしかなかった子供には戻らなかった。
「……純也」
空を見上げたその呟きは、もしかしたら音にならずただ胸の中で呼んだだけかもしれない。自分はもう大丈夫かもしれない、という語りかけは声にしなかった。心の中、記憶の中の純也に話しかける。
こうして過去住んでいたアパートの前に腰掛けながら、彼を待ちつつ、けれど待ってない。
出会えなくていい。「いつか」は今日じゃなくていい。ただ長いだろう人生の先に、純也の形をした希望があればいい。
出会えたら今度こそ結ばれよう。
そう思えるだけでいい。
この三年で、そう考えられるようになった。
「……純也」
甘く名を呼び、その姿を思い描く。木漏れ日が懐かしい音を立てている。
想い出にひたるための時間だ。それ以上を求めていないから、足音が聞こえても、通行人だろうと明良は顔を上げもしなかった。
足音が止まり、進みも、立ち去りもしない。
そこでようやく顔を上げて、そして明良は目を見開いた。
背丈はあまり変わっていない。けれど成長期の細かった体には筋肉が付き、体格は男としてすっかり完成していた。春先だが気の早い七分だけのシャツを着ている。洗濯を重ねたようなジーンズは少し古びているがよく似合っている。
純也だ。すっかり大人になっている。
けれど中身はそのままなのだろう。幽霊でも見てしまったような顔が、視線が絡んだ瞬間ゆがむ。
転んで、母親を見つけて、そしてやっと泣き出すような、いつかの顔。
「明良さん……」
弱々しい、甘えた、けれど男の低い声。
「純也」
呼びつつ、明良は幻ではないかと思った。過去、自分は完璧にいかれていた。自分自身への信頼度は低い。
けれどその幻が駆け寄ってきて、明良の頭をギュッと抱いて、「明良さん……!!」と情けなく呼ぶから、明良はおそるおそるとその背中に手を伸ばした。
触れても、消えない。
力を込めても無くならない。
「……純也」
暖かな体温に頬を寄せて、それでようやく、実感が湧く。これは本物ではないか。自分は、会えたのではないか。
「純也」
声が弱くなったことにも、涙が一粒こぼれたことにも、明良はまったく気づかなかった。
代わりに純也が気づいたのだろうか。彼はいっそう強く明良を抱き、「俺だよ……」とすっかり泣いている声で肯定した。
三年も経っているのにまだ、耳にはあの音が残っている。
――明良さん。
甘える声が残っていた。
「…………」
三年。もう三年だ。ただ生きているときは長いだけだった年月も、成すべきことがあると瞬く間に過ぎ去った。
明良は伸びた髪を耳にかけ、手元の雑誌に目を落とす。ゴールデンウィーク特集と書かれた雑誌は、あいかわらず装飾過多で読みにくい。けれど毎号届くのでもう慣れた。
希望をえがいた一冊は大衆受け、つまり大手出版社受けしたらしく、光林出版以外からの依頼もわずかに増えた。三年間地道にやっているうちエッセイ系の注文も出てきて、明良はそのうちひとつだけ、コラムの仕事を受けた。
地元の観光スポットをまとめた雑誌。いつか駅前の小さな本屋で、ふたり覗いたあの雑誌だ。半ページもない自分のコラムは自分で見ると場違いなのだが、どうしてだか打ち切られない。
「…………」
春の風が雑誌のページをめくろうとする。それを押さえながら、明良はそのコーナーに目を落とした。
依頼を受けたときから書きたい書きたいと思っていたコラムを、今月号、ようやく書けた。
『両親に会い、人生に区切りをつけてきた』
そう、ほんの数行だけ私物化した文字を読む。
『ようやく人並みになれたと思う』
自分のため使わせてもらったのはそれだけだ。けれど明良には、とても意味のある文だった。
「…………」
母は小さく老いていた。父は酒を飲み怒鳴っていたが、うるさい中年男にしか見えなかった。
おそろしくも、愛おしくもなかった。だから怒りも悲しみもなかった。さざなみひとつ立たない胸は明良を安堵させた。
彼らへの感情が摩耗したのには様々な理由があるだろう。年月や、今の安定した静かな生活。
けれど一番は純也の存在だ。
人と自分を重ねずとも、相手を愛せる人間になる。
再会したとき、失敗しない自分になる。
母であった女が泣いても、父であった男が叫んでも、明良は二十八の自立した男でいられた。彼らに傷つけられるしかなかった子供には戻らなかった。
「……純也」
空を見上げたその呟きは、もしかしたら音にならずただ胸の中で呼んだだけかもしれない。自分はもう大丈夫かもしれない、という語りかけは声にしなかった。心の中、記憶の中の純也に話しかける。
こうして過去住んでいたアパートの前に腰掛けながら、彼を待ちつつ、けれど待ってない。
出会えなくていい。「いつか」は今日じゃなくていい。ただ長いだろう人生の先に、純也の形をした希望があればいい。
出会えたら今度こそ結ばれよう。
そう思えるだけでいい。
この三年で、そう考えられるようになった。
「……純也」
甘く名を呼び、その姿を思い描く。木漏れ日が懐かしい音を立てている。
想い出にひたるための時間だ。それ以上を求めていないから、足音が聞こえても、通行人だろうと明良は顔を上げもしなかった。
足音が止まり、進みも、立ち去りもしない。
そこでようやく顔を上げて、そして明良は目を見開いた。
背丈はあまり変わっていない。けれど成長期の細かった体には筋肉が付き、体格は男としてすっかり完成していた。春先だが気の早い七分だけのシャツを着ている。洗濯を重ねたようなジーンズは少し古びているがよく似合っている。
純也だ。すっかり大人になっている。
けれど中身はそのままなのだろう。幽霊でも見てしまったような顔が、視線が絡んだ瞬間ゆがむ。
転んで、母親を見つけて、そしてやっと泣き出すような、いつかの顔。
「明良さん……」
弱々しい、甘えた、けれど男の低い声。
「純也」
呼びつつ、明良は幻ではないかと思った。過去、自分は完璧にいかれていた。自分自身への信頼度は低い。
けれどその幻が駆け寄ってきて、明良の頭をギュッと抱いて、「明良さん……!!」と情けなく呼ぶから、明良はおそるおそるとその背中に手を伸ばした。
触れても、消えない。
力を込めても無くならない。
「……純也」
暖かな体温に頬を寄せて、それでようやく、実感が湧く。これは本物ではないか。自分は、会えたのではないか。
「純也」
声が弱くなったことにも、涙が一粒こぼれたことにも、明良はまったく気づかなかった。
代わりに純也が気づいたのだろうか。彼はいっそう強く明良を抱き、「俺だよ……」とすっかり泣いている声で肯定した。
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