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『未成年略取になります』
そのメールを明良は純也と並んで読んだ。一度見た文面だから驚きはないが、はじめて読んだ純也は怒りにか悲しみにか震えている。ぴったり合わせた右肩に、その振動が届いていた。
「……どうする? 純也」
「どうするって!?」
問われることすら不快だと言うように、純也は声を荒げる。
「そりゃ、そりゃ未成年だけど、ここにいるのは俺の意思だよ! 誘拐って……警察って……ふざけてる。これ、これは難癖だよ。口で言ってるだけ!」
心配しないで、と言われずとも、明良に法的な不安はなかった。純也の言葉通り未成年とはいえ十八だし、そういう関係とはいえ男女ではない。体格だって純也のほうがいいくらいだ。
ましてや連絡手段があったのに相手は今日まで放置している。どういう内容で訴えられようと、自分ばかりが悪人にされるとは考えにくい。
けれどこの、樹からのメールを見せたのはそのためじゃない。所属しているのだろう法律事務所の名義も入れた、連絡アプリでなくメールを使った上での堅苦しい文面。
「純也。……一回、帰ったらどうだ」
明良がイカれていることがハッキリしたあの日から彼が帰っていないことは、言葉にされずとも感じていた。寝室の片隅には必要最低限ながら純也の荷物が溜まっているし、学校以外で部屋を空けることもない。
純也は慌てたように振り返る。
「嘘だよ。こんなの。脅しだよ。……お、俺、迷惑になってる? 邪魔?」
「そんなことないよ」
不安がる肩を抱いて、なだめるようにゆっくり叩く。真意がそのまま伝わるように、明良はできるだけ柔らかく、丁寧に告げた。
「ただ、こんな連絡いとこひとりの判断でするものじゃない。メールには書いてないけど、もしかしたら純也の親御さんが依頼したのかもしれない。……心配、されてるんじゃないか?」
「まさか」
笑って捨てるように言ってから、純也は少し頬を硬くしてもう一度「まさか」と首を振った。言葉とは裏腹に、二度目の呟きにはほんの少しの期待がこもっている。
「そんなことない。これはきっと、樹兄さんひとりで……」
「純也」
もう傷つかないと身構える子どもの髪へ、明良は指先を潜らせた。頭を抱くように手ぐしを入れ、一切の誤解の余地がないよう密着しながら言葉を続ける。
「純也がここにいたいならいればいい。僕はこのメールなんて気にならない。けど、心配されてるなら、一度顔を見せてくるくらいいいんじゃないか? 話し合いをしてどういう結果になろうと、僕たちの関係は変わらないよ」
「……でも、でも明良さん」
夜、と純也は呟いた。明良は笑ってしまう。自分のことを心配しているならその必要はない。
「最近は落ち着いてるんだろ?」
「で、でも、何かあったら」
「誰もいなければ何もできないだろう。それに仕事も……締め切りは設定されてないからね。大丈夫だよ。僕のことは気にしないで、僕のこと抜きで考えて」
帰るか、どうか。会うかどうか。
純也はもう一度長いメールを上から下まで読んだ。所属事務所まで書かれた事務的なメールだ。感情的な表現は排されていて、真意も目的もわかりにくくなっている。
その中の、書かれていない情感まで読み取るように、純也は何度もスクロールしてから口を開いた。
「……樹兄さんがこんなこと……ひとりで先走るようなこと、するとは思えない」
「うん」
「本当に、もしかして、母さんたちが……」
期待のこもった呟きは明良の胸を少し焼いたが、表情には出さなかった。
夜中の明良の身勝手を、純也は愛でもって受け入れている。なら明良だって少しは許したかった。明良以外に愛されていることを許したかった。
「…………」
真面目な目で何度も読んで、ふたりで並ぶソファの上、純也は少しだけ体を起こした。
「……スマホ、借りていい? 俺が返事したい」
「いいけど、どうする?」
「会う。けど、外で会う。家には帰らない。あそこは……俺、好きじゃないから」
「…………」
「それに明良さんのところにいるとしても、俺の意思だって証拠を残さないと何かあったとき困るかもしれない。ちゃんと話して、それ録音する。そのためだ。そのために、会うだけ、会う」
硬いその言葉はふくらむ期待を必死に押さえるものだった。明良はゆっくり肩を叩き、両手でぽつぽつと返信を打つ手元を見るともなく眺める。
純也は明良に愛を見せてくれた。
嫉妬はある、ねたみもあるけど、彼も見ることができればいい、と思うのも本心だ。愛されているという安心を、喜びを、知る機会があれば知るといい。
憎悪は胸にくすぶっていたけど、明良はそれをそっと許した。愛されている人が羨ましい。その気持ちを無視しなければ自分はちゃんとやっていける。そう思った。
静寂の部屋に秒針の音だけが響く。明良は何杯目かのコーヒーを飲みながら、黙ってソファに座っていた。
純也と樹たちは駅前のファミリーレストランで、まさに今、会っている。純也は道を歩いていると、店についたと、席で待っていると何度も連絡をくれたけど、『きた』という一言を最後にそれも絶えた。
会って、何を話しているだろう。どういう結果になるだろう。
両親に説得され、彼は家に帰るだろうか。
「……っいいんだ」
明良は白いカップを握り締める。愛されるなら愛された方がいい。純也に言った通り、帰るとしても彼が望むならふたりの関係を変える気はない。
純也が望むなら。
家族からの愛を欲していた彼が、自分の判断で選ぶなら。
「いいんだ……」
何よりも家族の関心を求めていた純也。その彼は今、家族と会っているだろうか。長い不在に両親は何を語っているだろうか。
樹は純也を救うだろう。彼はやや独善的だが、明良に直談判するほど純也を心配している。彼の熱意に触れたなら、彼の仲介で家族と会ったなら、純也も目が覚めてしまう。
あんないかれたトラウマ男、と純也もようやっと我に返る。そうしたら明良など弁護士の相手にもならない。純也が家を選んだら、明良には手も足も出ない。
それでよかった。……それくらいがよかった。
そうなったらもう二度と、明良は彼を苦しめないのだ。幼い頃の屈辱を押し付けるような真似はしない。もう純也を苛まない。
「…………」
ジワリと舌先に鉄の味が広がる。噛み潰してしまった唇を舐め、明良は親指の腹に歯をたてた。唇はもう五ヶ所も噛み切ってしまっていて、これ以上噛める場所がなかった。
純也。
若い肉体と魂しか持たないただの若者。飢えて虫を食ったことも、六百度で肌を焼かれたことも、裸で道を歩かされたこともない幸福な子ども。関心を持たれていないなんてことで絶望できる安い人生。
明良のものだ。明良のものだった。その目を輝かせたのは明良だ。フィクションの中でも絶望しか受け付けなかった彼に、まやかしでも幸福を見せたのは明良だ。
――明良さん。
愛されていたのは明良だ。
まやかしでも幸福を見せてくれた。
「…………」
だからもう、もういいのだ。目覚めていい。我に返っていい。明良の手から逃げていい。
純也。帰れ。
間違いなく本心からそう思ったとき、玄関扉が聞き慣れた金具の音をたてた。びくりと肩が震えてしまう。それは外から鍵を開けるときの音、同居人が帰ってきたときの音に聞こえた。
そのメールを明良は純也と並んで読んだ。一度見た文面だから驚きはないが、はじめて読んだ純也は怒りにか悲しみにか震えている。ぴったり合わせた右肩に、その振動が届いていた。
「……どうする? 純也」
「どうするって!?」
問われることすら不快だと言うように、純也は声を荒げる。
「そりゃ、そりゃ未成年だけど、ここにいるのは俺の意思だよ! 誘拐って……警察って……ふざけてる。これ、これは難癖だよ。口で言ってるだけ!」
心配しないで、と言われずとも、明良に法的な不安はなかった。純也の言葉通り未成年とはいえ十八だし、そういう関係とはいえ男女ではない。体格だって純也のほうがいいくらいだ。
ましてや連絡手段があったのに相手は今日まで放置している。どういう内容で訴えられようと、自分ばかりが悪人にされるとは考えにくい。
けれどこの、樹からのメールを見せたのはそのためじゃない。所属しているのだろう法律事務所の名義も入れた、連絡アプリでなくメールを使った上での堅苦しい文面。
「純也。……一回、帰ったらどうだ」
明良がイカれていることがハッキリしたあの日から彼が帰っていないことは、言葉にされずとも感じていた。寝室の片隅には必要最低限ながら純也の荷物が溜まっているし、学校以外で部屋を空けることもない。
純也は慌てたように振り返る。
「嘘だよ。こんなの。脅しだよ。……お、俺、迷惑になってる? 邪魔?」
「そんなことないよ」
不安がる肩を抱いて、なだめるようにゆっくり叩く。真意がそのまま伝わるように、明良はできるだけ柔らかく、丁寧に告げた。
「ただ、こんな連絡いとこひとりの判断でするものじゃない。メールには書いてないけど、もしかしたら純也の親御さんが依頼したのかもしれない。……心配、されてるんじゃないか?」
「まさか」
笑って捨てるように言ってから、純也は少し頬を硬くしてもう一度「まさか」と首を振った。言葉とは裏腹に、二度目の呟きにはほんの少しの期待がこもっている。
「そんなことない。これはきっと、樹兄さんひとりで……」
「純也」
もう傷つかないと身構える子どもの髪へ、明良は指先を潜らせた。頭を抱くように手ぐしを入れ、一切の誤解の余地がないよう密着しながら言葉を続ける。
「純也がここにいたいならいればいい。僕はこのメールなんて気にならない。けど、心配されてるなら、一度顔を見せてくるくらいいいんじゃないか? 話し合いをしてどういう結果になろうと、僕たちの関係は変わらないよ」
「……でも、でも明良さん」
夜、と純也は呟いた。明良は笑ってしまう。自分のことを心配しているならその必要はない。
「最近は落ち着いてるんだろ?」
「で、でも、何かあったら」
「誰もいなければ何もできないだろう。それに仕事も……締め切りは設定されてないからね。大丈夫だよ。僕のことは気にしないで、僕のこと抜きで考えて」
帰るか、どうか。会うかどうか。
純也はもう一度長いメールを上から下まで読んだ。所属事務所まで書かれた事務的なメールだ。感情的な表現は排されていて、真意も目的もわかりにくくなっている。
その中の、書かれていない情感まで読み取るように、純也は何度もスクロールしてから口を開いた。
「……樹兄さんがこんなこと……ひとりで先走るようなこと、するとは思えない」
「うん」
「本当に、もしかして、母さんたちが……」
期待のこもった呟きは明良の胸を少し焼いたが、表情には出さなかった。
夜中の明良の身勝手を、純也は愛でもって受け入れている。なら明良だって少しは許したかった。明良以外に愛されていることを許したかった。
「…………」
真面目な目で何度も読んで、ふたりで並ぶソファの上、純也は少しだけ体を起こした。
「……スマホ、借りていい? 俺が返事したい」
「いいけど、どうする?」
「会う。けど、外で会う。家には帰らない。あそこは……俺、好きじゃないから」
「…………」
「それに明良さんのところにいるとしても、俺の意思だって証拠を残さないと何かあったとき困るかもしれない。ちゃんと話して、それ録音する。そのためだ。そのために、会うだけ、会う」
硬いその言葉はふくらむ期待を必死に押さえるものだった。明良はゆっくり肩を叩き、両手でぽつぽつと返信を打つ手元を見るともなく眺める。
純也は明良に愛を見せてくれた。
嫉妬はある、ねたみもあるけど、彼も見ることができればいい、と思うのも本心だ。愛されているという安心を、喜びを、知る機会があれば知るといい。
憎悪は胸にくすぶっていたけど、明良はそれをそっと許した。愛されている人が羨ましい。その気持ちを無視しなければ自分はちゃんとやっていける。そう思った。
静寂の部屋に秒針の音だけが響く。明良は何杯目かのコーヒーを飲みながら、黙ってソファに座っていた。
純也と樹たちは駅前のファミリーレストランで、まさに今、会っている。純也は道を歩いていると、店についたと、席で待っていると何度も連絡をくれたけど、『きた』という一言を最後にそれも絶えた。
会って、何を話しているだろう。どういう結果になるだろう。
両親に説得され、彼は家に帰るだろうか。
「……っいいんだ」
明良は白いカップを握り締める。愛されるなら愛された方がいい。純也に言った通り、帰るとしても彼が望むならふたりの関係を変える気はない。
純也が望むなら。
家族からの愛を欲していた彼が、自分の判断で選ぶなら。
「いいんだ……」
何よりも家族の関心を求めていた純也。その彼は今、家族と会っているだろうか。長い不在に両親は何を語っているだろうか。
樹は純也を救うだろう。彼はやや独善的だが、明良に直談判するほど純也を心配している。彼の熱意に触れたなら、彼の仲介で家族と会ったなら、純也も目が覚めてしまう。
あんないかれたトラウマ男、と純也もようやっと我に返る。そうしたら明良など弁護士の相手にもならない。純也が家を選んだら、明良には手も足も出ない。
それでよかった。……それくらいがよかった。
そうなったらもう二度と、明良は彼を苦しめないのだ。幼い頃の屈辱を押し付けるような真似はしない。もう純也を苛まない。
「…………」
ジワリと舌先に鉄の味が広がる。噛み潰してしまった唇を舐め、明良は親指の腹に歯をたてた。唇はもう五ヶ所も噛み切ってしまっていて、これ以上噛める場所がなかった。
純也。
若い肉体と魂しか持たないただの若者。飢えて虫を食ったことも、六百度で肌を焼かれたことも、裸で道を歩かされたこともない幸福な子ども。関心を持たれていないなんてことで絶望できる安い人生。
明良のものだ。明良のものだった。その目を輝かせたのは明良だ。フィクションの中でも絶望しか受け付けなかった彼に、まやかしでも幸福を見せたのは明良だ。
――明良さん。
愛されていたのは明良だ。
まやかしでも幸福を見せてくれた。
「…………」
だからもう、もういいのだ。目覚めていい。我に返っていい。明良の手から逃げていい。
純也。帰れ。
間違いなく本心からそう思ったとき、玄関扉が聞き慣れた金具の音をたてた。びくりと肩が震えてしまう。それは外から鍵を開けるときの音、同居人が帰ってきたときの音に聞こえた。
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