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天敵(3)
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明良がアパートに戻ってきたとき、玄関扉の前の共用廊下にはキャラメル色の塊があった。冬用のコートを着た純也だ。
足音が聞こえていたのだろう。彼はゆっくり顔をあげる。
「明良さん……誰と会ってたの?」
「純くん。今日は用事ができたって連絡しなかった?」
「見た。けど……この間の今日だから。不安で」
知らない場所だから早めに出たし、まっすぐ帰ってきたとはいえ数十分はかかる。純也がいつも訪れる時間から、ゆうに数時間経っている。
その間ずっとここにいたのだろうか。丸まって、不安に耐えながら待っていたのだろうか。
「…………」
ぎこちなくなったが、別れようとは毛の先ほども考えてなかった。次に会ったときは今までにないほど優しくしようと思っていた。
けれど今日……樹と会った今日はできそうにない。
――彼が心配なんですよ。
「明良さん。誰と……」
案じる声が耳に残っている。明良は無表情に続けた。
「誰って、別に。誰でもないよ」
「…………」
「きみが気にする相手じゃない」
自分の声の冷たさを聞いて、誤魔化すように柔らかな髪を撫でる。
(学生時代、自分は毎日、運動部の顧問に頭を下げて学校のシャワーを借りていた)
ふと思い出してしまった過去に明良は手を引いた。こめかみを押さえながら鍵を取り出そうとすると、立ちあがった純也が必死の強さで肩を取る。
「なんで嘘つくの?」
「嘘じゃない。話すほどの人じゃないから……仕事の相手だから」
「でもタバコの臭いがした」
明良は逃げるように身を引いた。タバコ嫌いで店では絶対に禁煙席。歩きタバコを見れば回れ右をして逃げることは、もう知られている。
「仕事相手なら気を使われるよね。それ、嘘だよね」
「…………」
「明良さん。ねえ、明良さん……」
純也は笑もうとしたのだろう。笑う形に唇が歪んだ。けれど目元が泣いているから、鼻のあたりが怒っているから、整った顔が歪になる。
「つ――付き合うの?」
声だけは笑っていた。冗談めかした口調に問われる。
「それ、男の人? 付き合う? その人と、仲良く……明良さん、俺……」
支離滅裂な言葉は彼の精神状態を物語っている。また不安定になっていると気づいて、明良はむりやり笑顔を作った。
「そんなことない。だって僕には純くんがいる」
「…………」
「浮気なんてしないよ。ちゃんときみがいるんだから」
「……明良さんは、俺のこと、好き?」
再三の問いに重なるように、初期設定のままだろうアプリの着信音がした。
万感を込めた嘘の「好き」を用意していた明良の口は、勝手にそれを落としていた。
「誰から連絡?」
「え?」
「この間から急に連絡相手ができたね。それ、誰?」
冷えた、突き放すような明良の声に、純也は目に見えて慌てる。
「えっ……あ、明良さん、どうしたの? 怒った?」
「怒ってないよ」
笑顔で言うつつ、手を振り払う。けれど彼は負けずに取り縋った。
「ね、ねえ、怒ったなら謝る」
「謝ってもらうようなことは何もない。ちょっとひとりにしてもらえないかな」
「明良さん!」
腕を取られ、その強引さに驚き明良は振り返った。
何でも明良が許してきた。受容して、認めてやっていた。主導権はずっと明良にあったのだ。自分が帰れと言ったら純也は帰る。そして次の連絡を待つ。そういう関係だと思っていた。
必死の子供が、子供ではない力で明良の腕を握っている。
「ひとりにしてなんて言わないで。……ねえ俺、明良さんのことが知りたいんだ。好きだから、ちゃんと付き合いたい。……作り笑い以外も見たいんだ」
「…………」
「ずっと思ってた。明良さんは何を考えてるんだろうって。笑ってるけど、優しいけど、でもなんか……お、俺、迷惑だった? 邪魔だった?」
「……作り笑い?」
明良は笑う。きっといつもの笑顔だろう。明良の表情はこれしかない。
害のない、平凡な、地味で普通な男の笑顔。これ以外の表情は持っていない。
「作り笑いなんて、誰に聞いたの、純くん」
彼が気づくはずがない。人は見たいものしか見ない。
明良の笑顔が作られたものだと、優しさがそう装われたものだと、純也は気づくはずない。よしんば一瞬よぎっても彼は全身全霊で否定する。明良の愛情を信じたいからだ。愛されているかと、疑うことすらしたくないからだ。
「そんなのきみの発想じゃない。そんな人の悪いこと、考える子じゃないでしょう」
「…………」
「ねえ、誰にそんなこと吹きこまれたの」
「……樹兄さん」
純也は両手をこすりながら告げる。
「最近ちょっと相談しているんだ。名前は出してない。明良さんのことだって気づいてるはずない。ただちょっと、不安なんだって話しただけ。恋人みたいな人がいるんだけど、俺たちちゃんと付き合ってるのかなって……どう思うって、聞いただけ」
「相談したんだ。……頼ったんだ、彼のこと」
「た、頼る?」
「…………」
樹はその内容から明良との関係を察したのだろうか。本を読んで明良のことを理解した気になって、それで別れろなんて言ったのだろうか。
純也を心配しているのだろうか。気にして、案じて、愛してやっているのだろうか。
――希望のあるエンディング。
「…………」
そんなもの、書けるはずがない。
明良の体にはもう愛など残っていない。ただでさえ乏しかったものを、明良はみな目の前の若者に与えてしまった。絞り尽くし最後の一滴までそそいでしまった。
なぜなら、自分しかいないと思ったからだ。絶望にしかリアリティーを持てない彼に希望の色を教えるのは、自分しかいないと思ったからだ。
愛してやるのは自分だけだと思ったから、彼を愛した。心配した。気にかけた。
自分だけだと思ったから。
「……帰る」
「明良さん」
「帰る。離して」
「いやだ」
純也は明良から明良を奪うように必死で握った腕を引く。
「ひとりにしないで。ひとりにしてなんて言わないで。お願いだから俺を無視しないで」
「……一緒にいたら、ひどいものを見るよ?」
明良は笑った。はじめて彼の前で笑った。
本当の笑顔。楽しげでも、健全でも、美しくもない笑顔。それだけで明良の人生を語るから、ずっと隠してしまいこんでいた。
嘲るような、乞うような。野卑なような、卑屈なような。本当の笑顔。
「……見る」
バカじゃない純也は気づいただろうけど、頷いた。動揺にか恐怖にか、瞳はほとんど泣いていた。
「みっ、見るから、俺を無視しないで……!」
明良は笑った。笑う以外の表情は持っていなかった。
足音が聞こえていたのだろう。彼はゆっくり顔をあげる。
「明良さん……誰と会ってたの?」
「純くん。今日は用事ができたって連絡しなかった?」
「見た。けど……この間の今日だから。不安で」
知らない場所だから早めに出たし、まっすぐ帰ってきたとはいえ数十分はかかる。純也がいつも訪れる時間から、ゆうに数時間経っている。
その間ずっとここにいたのだろうか。丸まって、不安に耐えながら待っていたのだろうか。
「…………」
ぎこちなくなったが、別れようとは毛の先ほども考えてなかった。次に会ったときは今までにないほど優しくしようと思っていた。
けれど今日……樹と会った今日はできそうにない。
――彼が心配なんですよ。
「明良さん。誰と……」
案じる声が耳に残っている。明良は無表情に続けた。
「誰って、別に。誰でもないよ」
「…………」
「きみが気にする相手じゃない」
自分の声の冷たさを聞いて、誤魔化すように柔らかな髪を撫でる。
(学生時代、自分は毎日、運動部の顧問に頭を下げて学校のシャワーを借りていた)
ふと思い出してしまった過去に明良は手を引いた。こめかみを押さえながら鍵を取り出そうとすると、立ちあがった純也が必死の強さで肩を取る。
「なんで嘘つくの?」
「嘘じゃない。話すほどの人じゃないから……仕事の相手だから」
「でもタバコの臭いがした」
明良は逃げるように身を引いた。タバコ嫌いで店では絶対に禁煙席。歩きタバコを見れば回れ右をして逃げることは、もう知られている。
「仕事相手なら気を使われるよね。それ、嘘だよね」
「…………」
「明良さん。ねえ、明良さん……」
純也は笑もうとしたのだろう。笑う形に唇が歪んだ。けれど目元が泣いているから、鼻のあたりが怒っているから、整った顔が歪になる。
「つ――付き合うの?」
声だけは笑っていた。冗談めかした口調に問われる。
「それ、男の人? 付き合う? その人と、仲良く……明良さん、俺……」
支離滅裂な言葉は彼の精神状態を物語っている。また不安定になっていると気づいて、明良はむりやり笑顔を作った。
「そんなことない。だって僕には純くんがいる」
「…………」
「浮気なんてしないよ。ちゃんときみがいるんだから」
「……明良さんは、俺のこと、好き?」
再三の問いに重なるように、初期設定のままだろうアプリの着信音がした。
万感を込めた嘘の「好き」を用意していた明良の口は、勝手にそれを落としていた。
「誰から連絡?」
「え?」
「この間から急に連絡相手ができたね。それ、誰?」
冷えた、突き放すような明良の声に、純也は目に見えて慌てる。
「えっ……あ、明良さん、どうしたの? 怒った?」
「怒ってないよ」
笑顔で言うつつ、手を振り払う。けれど彼は負けずに取り縋った。
「ね、ねえ、怒ったなら謝る」
「謝ってもらうようなことは何もない。ちょっとひとりにしてもらえないかな」
「明良さん!」
腕を取られ、その強引さに驚き明良は振り返った。
何でも明良が許してきた。受容して、認めてやっていた。主導権はずっと明良にあったのだ。自分が帰れと言ったら純也は帰る。そして次の連絡を待つ。そういう関係だと思っていた。
必死の子供が、子供ではない力で明良の腕を握っている。
「ひとりにしてなんて言わないで。……ねえ俺、明良さんのことが知りたいんだ。好きだから、ちゃんと付き合いたい。……作り笑い以外も見たいんだ」
「…………」
「ずっと思ってた。明良さんは何を考えてるんだろうって。笑ってるけど、優しいけど、でもなんか……お、俺、迷惑だった? 邪魔だった?」
「……作り笑い?」
明良は笑う。きっといつもの笑顔だろう。明良の表情はこれしかない。
害のない、平凡な、地味で普通な男の笑顔。これ以外の表情は持っていない。
「作り笑いなんて、誰に聞いたの、純くん」
彼が気づくはずがない。人は見たいものしか見ない。
明良の笑顔が作られたものだと、優しさがそう装われたものだと、純也は気づくはずない。よしんば一瞬よぎっても彼は全身全霊で否定する。明良の愛情を信じたいからだ。愛されているかと、疑うことすらしたくないからだ。
「そんなのきみの発想じゃない。そんな人の悪いこと、考える子じゃないでしょう」
「…………」
「ねえ、誰にそんなこと吹きこまれたの」
「……樹兄さん」
純也は両手をこすりながら告げる。
「最近ちょっと相談しているんだ。名前は出してない。明良さんのことだって気づいてるはずない。ただちょっと、不安なんだって話しただけ。恋人みたいな人がいるんだけど、俺たちちゃんと付き合ってるのかなって……どう思うって、聞いただけ」
「相談したんだ。……頼ったんだ、彼のこと」
「た、頼る?」
「…………」
樹はその内容から明良との関係を察したのだろうか。本を読んで明良のことを理解した気になって、それで別れろなんて言ったのだろうか。
純也を心配しているのだろうか。気にして、案じて、愛してやっているのだろうか。
――希望のあるエンディング。
「…………」
そんなもの、書けるはずがない。
明良の体にはもう愛など残っていない。ただでさえ乏しかったものを、明良はみな目の前の若者に与えてしまった。絞り尽くし最後の一滴までそそいでしまった。
なぜなら、自分しかいないと思ったからだ。絶望にしかリアリティーを持てない彼に希望の色を教えるのは、自分しかいないと思ったからだ。
愛してやるのは自分だけだと思ったから、彼を愛した。心配した。気にかけた。
自分だけだと思ったから。
「……帰る」
「明良さん」
「帰る。離して」
「いやだ」
純也は明良から明良を奪うように必死で握った腕を引く。
「ひとりにしないで。ひとりにしてなんて言わないで。お願いだから俺を無視しないで」
「……一緒にいたら、ひどいものを見るよ?」
明良は笑った。はじめて彼の前で笑った。
本当の笑顔。楽しげでも、健全でも、美しくもない笑顔。それだけで明良の人生を語るから、ずっと隠してしまいこんでいた。
嘲るような、乞うような。野卑なような、卑屈なような。本当の笑顔。
「……見る」
バカじゃない純也は気づいただろうけど、頷いた。動揺にか恐怖にか、瞳はほとんど泣いていた。
「みっ、見るから、俺を無視しないで……!」
明良は笑った。笑う以外の表情は持っていなかった。
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