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付録

あるグンマー知識人のつぶやき

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 深き渓谷と連なる峰々に包まれしグンマーのわが家には、幽かな営みあり。その営みは、一人の女中と余を中心に、静謐にして情趣溢るる日々の姿なり。世間一般には「お前」などと呼ばれ、人格を剥ぎ取らるること多き使用人を、余は人間として名を以て呼ぶ。女中といふ名を呼びし折、女中の瞳はほのかに和み、その中に潜みし意志や尊厳は、仄かな光のごとく揺らめき始むる。

 女中は余の庇護と愛情のもとに、家事に奉ずるのみならず、異国の言語を学び、西洋の料理法をも修め始む。さらには西洋文学の文献を手に取り、文字を一つ一つ指でなぞり、その新奇なる概念と言語表現に瞠目す。余はかくて教へる立場に立ちて、女中の学ぶ姿に心和み、彼女が新たな地平を拓く様を見守るたび、胸底に穏やかな誇りと喜悦の波を覚ゆ。

 余は武芸を嗜み、早朝、澄み渡る空気を吸ひつつ庭先に木剣を振り、呼吸と重心の妙なる均衡を求む。午後には川辺に歩み寄りて釣糸を垂れ、悠久の流れを耳にしながら、小魚の影を窺ふ。夕暮れには書棚より古き名著や異国の書を抜き出で、燭火の下に女中に音読させる。女中が拙き発音にて言の葉を紡ぐ時、そのぎこちなき声は室内の隅々に響き渡り、やがて我らは微笑み合ふ。わが家庭には、制度上の上下は残れども、相互理解の糸がほぐれ、文化と精神の豊かさが密やかに息づくなり。ここに滔々たる信頼と愛情の流れありて、理屈を超えた潤ひの世界を育む。

 対照的に、帝国における家庭の様を余は耳にし、驚愕の念を禁じ得ず。そこにては、男女の分担は理路整然たる平等を追ふものの、その結果は互ひに相手の労苦を値踏みし、損得勘定を巡らし、徒に口論を重ねる惨状を生むといふ。文化的行為、たとへば書を読み詩を味はふなどの営みも、費用と成果との見合ひが悪しと疎まれ、つひには芸術を享受する喜びすら失はれたり。かくて「信頼」や「愛情」といふ、魂を潤すべき芳醇なる泉は、財なき時には露と消ゆるがごとし。

 ここに知識人たる余が冷静に思量すれば、帝国の示す極端なる平等は、理屈として人の権利と対等性を拡張せんと欲すれど、同時に人間関係の微妙なる張力と詩情を剝奪したるかのごとし。平等の理念は尊きものなれど、もしや対等性のみを標榜し、互ひをひたすらに勘定にかけ、効率と成果をもて是非を図るなば、関係性に息づく不合理なる情愛や、無償の慈しみはいづこへ消えるや。かくなりては、愛情とは交換条件にすぎず、資金底つく時には露ほども残らぬ淡き幻となるべし。その味気なさに余は戦慄を覚ゆ。

 一方、余の家は不完全なる非対称性を孕めり。女中はなお身分的には下り立つ立場にあれども、余は彼女を名を以て呼び、人として遇す。女中は献身を尽くしつつ成長し、余はその努力と創意を賞で、相伴ひの如く精神の糧を分かち合ふ。これ、形ばかり見れば不平等に似たる縮図なれど、内には損得勘定を超えた微光が灯り、ここより詩と情が芽生へるのである。

 帝国の平等化は、一つの未来像として価値あらむ。然れども、わが家庭に滲む繊細なる気配は、ただ現世的な計算や、対称性を極めた数理的均衡にて測るべからず。人間関係に必要なるは、必ずしも刻一刻の損得を勘定する乾いた観点に非ず。なべて人間とは、無用に見ゆる営み——詩を読み、音律を味はひ、異国の食を調へ、命名し呼び交はす——その心なきやうに見ゆる事どもにこそ、隠れたる幸ひの結晶を見出し得る。

 帝国の例より、余は学ぶ。平等は尊くも、それのみを掲げ、情を滅し、文化の芽を費用損得の計算台に載せるならば、命の詩情は失はれん。いま深き谷間の人家に住まふ余と女中との間には、未だ旧套の影潜むべし。されど、その影の中にもかすかなる光明はあり、損得勘定を超えて流れゆく豊饒な時がある。この世界は決して均衡ならずとも、ゆらめく不均衡にこそ人の情は凝集するものなり。

 世に対し、余は声を潜めて言はん。人の関係は、必ずしも剥き出しの平等に還元すべからず。愛と信頼は多く無為に見ゆる小さき行為より生まれ、非論理の領分に花を咲かす。わが家は微温き相互理解と、学び合ひ、育み合ふ日々を織り成す。そこには、単なる経済的価値や損得比較を超え、人を人として呼び合ふ尊き世界が在る。深き山の底より、余はこの光芒を静かに見定めるのである。
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