正解かは分からないけれど

ちょこ

文字の大きさ
上 下
2 / 2

無意識回避

しおりを挟む
「お母さん」
 体感は今もっとも当てにならない。だから奈々子はゆっくりと動く時計の針を見つめて待った。おかげで千夏と千秋を待ってから2、3分で声がかかったと分かる。気まずそうな千夏の声は蚊の鳴くようで、息苦しい。いつものような力の抜けた返事は、どうしてもできそうになかった。
「どした」
「……お風呂、入ってからでいい?」
「あー。そうね、うん」
 確かにそれが先だ。初夏とはいえもう充分暑い。そういえば二人とも汗だくだったと先ほどの衝撃映像を思い出し、また気分が悪くなった。
 すぐ来れないなら、と立ち上がりケーキを冷蔵庫に移す。早く仕舞っておけば良かったのかもしれないが、今さら意味のない後悔だ。立ったついでに水道水で喉を潤す。台所の蛍光灯の妙にオレンジ色に近い色合いが無性に不快で仕方なかった。まだ気分は良くならない。
 寝よう。ダイニングテーブルを通り越してソファーを陣取る。理由もよく分からない苛立ちは我が子にぶつけるべきではない。風呂から上がれば、奈々子がソファーで寝ていることに気付くはずだ。起こされた頃にはこの気持ち悪い感覚も消えているだろう。

「……朝だな?」
 東側の窓から差す陽光に頭を抱える。壁掛け時計を見れば普段の目覚めより少し早い時間が示されていた。まさかあのままガッツリ寝てしまうとは思っていなかった。
「おはよう」
 急に聞こえた声に奈々子はびくりと体を揺らす。末っ子の千秋の声だった。バレー部の千秋は練習着に身を包んでおり、ランニングに向かうところなのだと知れる。父親譲りの体躯はバレーにはうってつけで、奈々子の遺伝子が大した働きを見せなかったことには感謝するほかない。しかしその体格に似合わず存在感が薄く、寝起きから心臓が飛び出るほど驚いた。
「おはよう。ところで昨日、私のこと起こしてくれた?」
「、うん」
「そっか、ごめんね。私が呼んだのに」
 一瞬詰まった千秋の言葉に引っ掛かりを覚えながらも謝罪を口にすると、千秋の顔は誰が見ても分かるほど歪んだ。
「……ごめんなさい。ほんとは起こさなかったです」
「あっそう。おかげで私の背中はバキバキだよ。ソファーで一晩寝たから」
 これほど簡単な嘘も吐けないのだろうか。生きていく上で心配だ。その呆れが声に出たようで、奈々子のちょっとした嫌味に千秋は可哀想なくらい萎縮してしまった。さすがに罪悪感が沸いた奈々子は、奈々子のために用意してくれたであろうタオルケットを手に笑ってみせる。我が家で行われるこの手の気遣いは千秋の専売特許だ。
「ウソだよ。これ、持ってきてくれてありがと」
 千秋は安堵したようで、肩の力を抜いて柔らかく口角を上げた。
「うん、それじゃいってきます」
「いってらー」
 千秋を見送った奈々子は立ち上がる。のそのそと台所に入り、米を磨いだ。そしていつものように水を張り、炊飯器のスイッチを入る。小腹が空いて、何かつまむものはないかと冷蔵庫を開けると、昨日買ってきたケーキのうちの一つが鎮座しており、ここでようやく思い出す。
「あ、昨日の話……」
 これほど重要なことを忘れるとは何事か。最近何かと物忘れが激しい気がしていたが、それにしても酷い。無意識に昨日の出来事を忘れたがった奈々子の脳みそが、記憶をシャットアウトしていたようだ。
「とりあえず早く話さなきゃ」
 千夏と千秋は昨日のうちに食べたのだろう。一つ残されたケーキを眺めて奈々子はそう誓った。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

お兄ちゃんが私にぐいぐいエッチな事を迫って来て困るんですけど!?

さいとう みさき
恋愛
私は琴吹(ことぶき)、高校生一年生。 私には再婚して血の繋がらない 二つ年上の兄がいる。 見た目は、まあ正直、好みなんだけど…… 「好きな人が出来た! すまんが琴吹、練習台になってくれ!!」 そう言ってお兄ちゃんは私に協力を要請するのだけど、何処で仕入れた知識だかエッチな事ばかりしてこようとする。 「お兄ちゃんのばかぁっ! 女の子にいきなりそんな事しちゃダメだってばッ!!」 はぁ、見た目は好みなのにこのバカ兄は目的の為に偏った知識で女の子に接して来ようとする。 こんなんじゃ絶対にフラれる! 仕方ない、この私がお兄ちゃんを教育してやろーじゃないの! 実はお兄ちゃん好きな義妹が奮闘する物語です。 

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

ドSな義兄ちゃんは、ドMな僕を調教する

天災
BL
 ドSな義兄ちゃんは僕を調教する。

放課後の生徒会室

志月さら
恋愛
春日知佳はある日の放課後、生徒会室で必死におしっこを我慢していた。幼馴染の三好司が書類の存在を忘れていて、生徒会長の楠木旭は殺気立っている。そんな状況でトイレに行きたいと言い出すことができない知佳は、ついに彼らの前でおもらしをしてしまい――。 ※この作品はpixiv、カクヨムにも掲載しています。

見知らぬ男に監禁されています

月鳴
恋愛
悪夢はある日突然訪れた。どこにでもいるような普通の女子大生だった私は、見知らぬ男に攫われ、その日から人生が一転する。 ――どうしてこんなことになったのだろう。その問いに答えるものは誰もいない。 メリバ風味のバッドエンドです。 2023.3.31 ifストーリー追加

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

処理中です...