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1巻
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しおりを挟む◆◆◆プロローグ◆◆◆
「はあ、はあ、はあ……」
荒い息を吐きながら必死で走る。ヒールの高い靴は途中で脱ぎ捨てたため、裸足の足裏に硬い小石が当たってひどく痛い。
しかしそれでも、立ち止まる余裕はなかった。
外は雪がちらついているにもかかわらず、季節感のないキャミソールドレス姿の私は、はたから見れば頭のおかしな女であろう。それに十数分前までは綺麗に巻いてセットされていた髪も、今は見る影もなく濡れてヘタってしまっている。
もちろん薄いドレスもぐっしょりと濡れており、身体からどんどん熱を奪っていく。
だがずっと感じているこの悪寒は、きっとそれだけが理由じゃないだろう。
喉に血の味が混じったところで、息苦しさに顔を歪めて足を止めた。後ろを振り返るが、追っ手の姿はない。足も肺も限界だった。もうこれ以上は走れそうにない。
そう思った途端、足は鉛のように重くなり、一歩たりとも動けなくなってしまう。
「どこに行きやがった」
「おい! あっちだ!」
ドスの利いた低い声と、靴音を響かせながら近づく複数の男たち。姿は見えないが、確実に私を追いつめていた。私には、もうあのように走ったり、大声を出すことなんてできそうもない……
地の利を生かして裏道や迷路のような小路を選んだつもりだが、女の足で屈強な男たちを撒くことはできなかったようだ。逆に裏道を選んだことが、かえって裏目に出てしまったらしい。人気のない薄暗い道では、通りかかる人に助けを求めることも不可能だった。
――どうしよう。
焦りが込み上げてくるものの、いい考えは浮かばない。むしろ頭に浮かぶのは、彼らに捕まった後の自分の未来。
……想像するまでもなく最悪な結末だった。知らず知らずのうちに唇を噛みしめてしまい、ピリッとした痛みが走る。だが、そんなことを気にする余裕すら今の私にはないのだった。
今になって、あんなことやめておけば良かったと悔やんでももう遅い。お金だけを信じて生きてきた私が悪いのだろうか?
自嘲気味に笑う私の顔に浮かぶのは、常日頃から男性客に『魅惑的だ』『花のようだ』と褒められる微笑みではなく、歪んだ笑みだろう。
どうせ近くにお客さんはいないのだから、こんなところで笑顔を作る必要はない。もうすぐそこまで迫った男の一団を、厳しい表情で見つめながら、これまでのことを思い返していた。
◆◆◆第一章 先の見えない暗闇の中で◆◆◆
「ユウナちゃん、お店替わるんだって?」
「そうなんです、社長。お耳が早いですね。もう社長のお話を聞けなくなると思うと残念です」
そう言って寂しそうに笑ってみせると、私の横にどっしりと座る男性は嬉しそうに笑う。
ここ『マリス・ステラ』はこの界隈では名の通ったクラブであり、聖母マリアの名を冠する店らしからぬ、蠱惑的な女性が多くいることで有名な人気店だ。
私――久藤優奈は大学に通いながら、このお店で働いている。大学の卒業まであと二年。それまでにもう少しお金を貯めておきたい。そんな思いから条件の良い引き抜き話を受けたのが、数日前のことだった。
「ユウナちゃんくらいだよ。こんなオヤジのつまらない話を面白そうに聞いてくれる娘は……」
私が社長と呼んでいるこの男性客は、社員数三名――いわゆる家族経営の有限会社の社長をしている。小さな会社であっても稼ぎはそこそこあるようで、お店の中でもまずまず金払いの良いお客さんと言えた。
家では奥さんと子供に相手にされず、家族経営なので愚痴りながら飲む相手もいない。そのため黙って話を聞いてあげるだけで、とても喜んでくれる良いお客さんだ。
社長はしみじみと呟いたあと、覚悟を決めたような表情で私を見た。
「ユウナちゃん。本当はダメなんだけど、お店替えちゃおうかな。新しいお店が決まったら、メールよろしくな」
「本当に? ユウナ嬉しい!! ……でも大丈夫かなあ?」
夜の世界は広いようで狭い。女の子がお店を替わるのは自由だが、お店の客を引っ張っていくのはタブーとされている。
とはいえ、もう二年来の付き合いで、週に一度は必ず来てくれたお客さんを、『そういう決まりだから』の一言で見捨ててもいいのだろうか?
自分の身を案じるなら、社長には連絡しないのが一番だ。だが、そうなると社長は新しい女の子に、身の上話を一からしなくてはならなくなる。私たちの間では『この間のアレがさあ』だけで通じていた話を、こんこんと説明する必要があるのだ。
……実は、お店を替えるよと言ってくれたお客さんは社長だけではなかった。他にも数名、そう言ってくれたお客さんがいる。
しかも揃いも揃って、金払いの良い上客……だから私は悩んでいた。上客ばかりを連れて店を移ったら、なんだか面倒なことになりそうだからだ。
「じゃあね、ユウナちゃん。また来るから。まだしばらくはこっちにいるんでしょ?」
「うん、待ってる。でもお仕事大変なんだし、無理はしないで」
疲れを隠せない社長の後ろ姿を見送って、外の澄んだ空気を大きく吸い込む。正直に言って、店内に漂う香水とお酒の臭いや、淀んだ空気には何年働いても慣れない。……とはいえ、私には稼がなければならない理由があるのだ。
「さ、戻るか」
私が踵を返そうとしたそのとき、店の正面に黒塗りの高級車が静かに停車する。
――お客さんかしら?
そう思ったが、降り立った男性の顔を見て、私は電柱の陰に隠れた。
車から出てきたのは、『マリス・ステラ』のオーナーだった。いや、正しくはママのパトロンである。
ママはしっとりとした艶のある年齢不詳の女性で、彼女目当てに来るお客さんも多い。
そのママの恋人、出資者、愛人、友人――どれが正しいかなんて興味もないが、一番しっくりくるのは出資者兼愛人といったところか。
オーナーは三十代半ばの、怜悧な雰囲気の持ち主だ。サラリとした黒髪にシルバーフレームの眼鏡が、その雰囲気をより一層際立たせている。弁護士や会計士のような堅い職業が似合いの風貌だが、実際に何をしているかは知らない。
しかし、このお店の資本金をポンと出せるくらいには稼いでいるのだろう。それに、優しくて気前が良いことから、お店のスタッフには男女問わずとても慕われている。
……まあ、女の子に関してはそれだけが理由ではないと思う。なんといっても彼は、ここに来るお客さんの誰よりも遥かにイケメンなのだ。
だが『ママの良い人』に色目を使おうなどという猛者は現れていない。
オーナーはいつも一緒にいる秘書らしき男性と、ボディーガードのような肉体派の男性数名を引き連れて扉の中に消えていく。
ちなみにあの肉体派の人たちは、店に揉め事があったときにも飛んで来てくれる。おそらく店の用心棒も兼ねているのだろう。
そんな彼らを電柱の陰に隠れたまま、そっと息を殺して観察する。
私はあのオーナーも秘書も苦手であった。紳士的な態度なのだがどこか近寄りがたい。なので、お店の女の子たちが嬉しそうにオーナーに駆け寄るのを、『よくやるなあ』と私は冷めた目で見ていた。
オーナーが店に入って、きっかり十分。私はゆっくりと店の扉を開ける。今頃はきっとママとVIPルームへ移動しているはずだ、と狙った通り店内に彼の姿はない。
そして私も自分に関係ないことはとっとと忘れるべく、次のお客さんへと意識を向けるのだった。
私は中学生の頃、事故で両親と妹を亡くした。
その日は平日だったが、普段仕事で忙しい父がたまたま休みだったこともあり、「たまには皆で一緒に外食したい」という妹の一言で、少し離れた場所にあるシーフードレストランに行く予定になっていた。
専業主婦だった母、小学生だった妹と違い、中学校で運動部に所属していた私は夜まで部活がある。そのため三人が学校まで私を迎えに来る途中で起きた事故だった。
相手は脇見運転――携帯電話を操作しながらの運転で対向車線から突っ込んできたという。
大型トラックに正面から激突された車は見る影もなくぐしゃぐしゃで、運転していた父と助手席の母は即死。後部座席に座っていた妹は、辛うじて命のある状態で救助されたが、治療のかいなく数時間後に息を引き取った。
連絡を受けた私は、顧問と担任に連れられて病院に行ったものの、そのときの記憶はほとんどない。今思い出せるのは裁判で挙げられた事実のみで、三人の死に顔も、お葬式のことさえ記憶が曖昧だった。
相手の過失が認められ、賠償金や生命保険が下りたのだが……そこからがまた大変だった。
不景気なこのご時世、突如降って湧いた大金に、親戚の目の色が変わる。
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ドロドロとした応酬の末、私の養育条件が一番整っていた伯母が後見人になった。
「よろしくね、優奈ちゃん。仲良くしましょうね」
満面の笑みとともに差し出された、ふくよかな手。優しそうな伯母の笑みを見て、独りぼっちのような感覚に陥っていた私は少し安心した。
しかし、伯母の笑顔はすぐに消えることになった。
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とはいえ伯母には感謝している。
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もちろん、私も家族の遺産から毎月の生活費は入れていたけれど。
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「県外の高校に進学したい」
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当然、高校への進学費用は言うに及ばず、家賃や生活費の支払いも自身でしていた。
このような経験から、骨身に染みて理解した。私には頼る人などいない。頼れるのは自分とお金だけなのだと。
慰謝料や保険金が振り込まれたため遺産は多額だが、湯水のように使っていては、いつかなくなる。それに、お金に群がってくるハイエナのような人たちをこの目で見て、お金の怖さというものも知っていた。
そのため一人暮らしを始めてすぐに倹約・節約生活に切り替え、できる限りバイトをして貯蓄に励むことにした。両親の残してくれたお金には、可能な限り手を付けないとも決めていた。
だが十六歳の小娘にできる仕事は限られており、バイト代も日々の生活費に消えていく。
一向に増えない通帳の残高を見つめ、眉を顰めた。
「お金を貯めるって、難しいなあ」
預金通帳と、パソコン上でつけている家計簿を見比べては、漏れるため息。少し迷ったものの、大学に進学することを決め、バイトに勉強にと寝る間を惜しんで頑張った。
晴れて希望の大学に合格し、十八歳を迎えた私が真っ先にしたことは、『割の良いバイト探し』である。
人目や世間体を気にする必要もなかったので、夜の仕事に就くことに抵抗はなかった。それに大学を休むことなく高額を稼げる仕事なので、むしろありがたいとさえ思っている。
私は年齢を詐称せずに入ったため、アルコールは飲めないが、代わりにソフトドリンクやフードを頼めばいい。そこで嫌な顔をするお客さんは次第に足が遠くなり、必然的に人柄の良いお客さんだけが残った。
さほど忙しくもなく、バイト代はそこそこもらえるこの状況に、特に不満は感じていなかった。
だが、ここから二駅隣に新しいクラブが出店するらしく、ひと月ほど前から店の女の子たちに引き抜き話がかかり始めた。
慣れ親しんだ店をわざわざ離れることに抵抗があったのだろう。ほとんどの娘は首を縦には振らなかった。
だが私は他の娘たちとは状況が違う。遊ぶためのお小遣い稼ぎではなく、日々の生活費を欲しているため、家から近くて条件も良いスカウトに、少し迷ったものの頷いたのだった。
私が『マリス・ステラ』から移籍してひと月が経った。
新しい店は開店イベントで毎日賑わっている。結局メールはしなかったものの、新規出店ということで話題になっていたことから、バレてしまったらしい。社長をはじめとした前の店のお客さんが、初日に数名顔を出してくれた。
しかも、なんと新しいお客さんを連れて来店してくれたのだ。本当にありがたい。
おかげで私の売上も順調だったのだが、今日になって大変な事実が発覚した。
「ユウナさん、ちょっと」
月に一度の全体ミーティングに参加するため、少し早めに出勤した私は、着替えてロッカーから出たところで黒服に呼び止められた。そのまま隅の席へと座らされる。
「なんですか? 私、何か呼び出されるようなことしましたか?」
学生アルバイトの私にはノルマこそないものの、同伴出勤はこの仕事をメインでしているお姉さんたちと同じ回数をこなしているし、遅刻も早退もない。お客さんもそこそこ呼んでいるし、店の娘やお客さんと揉めたこともない。
呼び出しを受ける理由が見当たらない私は、厳しい表情の黒服に対し、自然と怪訝な表情になる。
「いえ、そういうわけではないんですが……」
歯切れの悪い黒服の言葉に、若干やきもきしてしまう。
「はっきり言ってください、余計不安になります」
再度尋ねれば、困った表情の黒服は小さな声で話し出した。
「ユウナさんのお客様である大江様からご紹介いただいた、山中様のことなんですが――」
大江さんというのは社長のこと。そして社長がオープンのときに連れてきてくれた友人が、山中さんだ。それ以来、山中さんは何度か一人で来店してくれている。上品だし、お金の使い方もスマート。良いお客さんを紹介してくれたな、と社長に感謝していたのだが……
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「いえ……お金に関してはきちんと振り込まれていますので、ユウナさんは安心してください」
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『飛ぶ』というのは、ツケを払わずに消えてしまうことだ。私はただのバイトなので、客のツケの立替えまでは強要されないものの、罰金としてバイト代からいくらか天引きされてしまう。それでは、なんのために働いているのかわからなくなるところだった。
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「でも、そんなお客さんを社長が連れてくるかしら?」
他の娘の客をよそに引っ張るなんて、タブー中のタブーである。そんなことをしたら揉めるだろうと、社長だってわかっているはずだ。
「他の店の黒服の間では、ユウナさんが移籍するときに、他のホステスの客まで引っ張って行ったと噂になっているみたいで……」
「な、なんで? そんなことしてない!」
「しっ! 落ち着いてくださいユウナさん。私もそれは知ってます。……ですが『山中様がこちらの店に通っている』という事実だけを見ると、噂が本当だと思われても仕方ないんです」
「そんな!」
「とりあえず、今後山中様にはあまり関わらない方がいいかもしれません」
「でもっ」
「店で働く女の子たちの中には知らない人も多いんですが、『マリス・ステラ』のオーナーはヤクザです」
一段声を落として話す黒服の表情は真剣だ。その内容に、私は言葉を失う。
オーナーと言えば、あの『シルバーフレームの紳士面』。
――あの人が……ヤクザ?
「名義上はママが経営者ですが、事実上のオーナーである星辰会の加賀見会長が出資している以上、ヤクザの金蔓なのは明白。ユウナさんもあちらにお勤めのとき、会長の姿を見たことあるんじゃないですか?」
「ある……けど、ヤクザだとは知りませんでした」
激しく動揺する私を見た黒服は、静かに話を続ける。
「この世界では、後ろにヤクザがついていることなど、珍しくありません。あの辺りは星辰会のシマですからね。『昔ながらの』というよりは『経済ヤクザ』の色が強いところなので、さすがにバイトの娘の移籍にまでは難癖……いえ、口を挟んでは来ませんでしたが、店の娘の客を掠め取ったら、大変なことになります。面子を何よりも重んじる人種ですからね。ユウナさん、私の言っている意味がわかりますね?」
「……はい」
自分の喉から出たとは思えない、ひどく掠れた声。
「できればしばらくの間、店は休んだ方がいいと思うんですが……どうしますか?」
「わ、かりまし、た。休み、ます」
カラカラに渇いた喉から絞り出された声で、なんとか返事をするのが精いっぱいだった。
ヤクザ、面子、掠め取った、ママ、山中さんといった言葉が、頭の中でグルグルと渦巻く。身の潔白を訴えたいものの、信じてはもらえないだろう。
ただ、自分の状況が最悪なことだけは理解できた。
「じゃあ、今日は帰っていいですよ。ママには私から言っ――」
そこで黒服の口が止まる。
店の扉が開く気配に、思わず振り返ろうとして、向かいに座る黒服に止められた。
「ユウナさん、ダメだ。振り向かないで、できるだけ姿勢を低くして」
小声ながらも、ひどく焦ったような声。
最悪の事態を裏づけるかのように、背後からやってくる複数の男の気配。テーブルやソファーを蹴る音に加え、花器の割れる音が店内に響く。それに店の女の子たちの悲鳴が重なった。
「この店にユウナというホステスがいるはずだが?」
今の状況にそぐわない穏やかな声が、この場を支配する。おそらくママのパトロンの、あの男だろう。
「ああ? 何黙ってんだ! 隠すとためにならないぜっ」
「おらっ! いるのは知ってるんだよ! 早く出てこいっ」
押し黙り、固まったままの従業員たちに苛立ったのか、チンピラそのものの口調で怒鳴り、店の器物を壊す男たち。それを窘めるかのように、先程とは打って変わってドスの利いた声が店に響く。
「やめろ」
鋭くも短い、たった一言。それだけでチンピラたちは「すいません」「失礼しましたっ」と店を荒らすのをやめた。
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「あいにく経営者は不在でして……一体どのようなご用件で?」
皆の視線が専務に集まるその隙を狙ったかのように、黒服が囁く。
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だが、足の裏と言わず、ふくらはぎが、太ももが、肺が、同時に悲鳴を上げると、たまらず立ち止まってしまう。
男たちの声と足音が徐々に近くなってくる。その方向を一人、為す術もなくただ見つめることしかできなかった。
――今も、昔も、私は無力だった。
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