異世界のオトコ、拾いました

雨宮茉莉

文字の大きさ
上 下
1 / 16
1巻

1-1

しおりを挟む




   ◆◆◆プロローグ◆◆◆


「はあ、はあ、はあ……」

 荒い息を吐きながら必死で走る。ヒールの高い靴は途中で脱ぎ捨てたため、裸足はだしの足裏に硬い小石が当たってひどく痛い。
 しかしそれでも、立ち止まる余裕はなかった。
 外は雪がちらついているにもかかわらず、季節感のないキャミソールドレス姿の私は、はたから見れば頭のおかしな女であろう。それに十数分前までは綺麗に巻いてセットされていた髪も、今は見る影もなく濡れてヘタってしまっている。
 もちろん薄いドレスもぐっしょりと濡れており、身体からどんどん熱を奪っていく。
 だがずっと感じているこの悪寒おかんは、きっとそれだけが理由じゃないだろう。
 のどに血の味が混じったところで、息苦しさに顔をゆがめて足を止めた。後ろを振り返るが、追っ手の姿はない。足も肺も限界だった。もうこれ以上は走れそうにない。
 そう思った途端、足はなまりのように重くなり、一歩たりとも動けなくなってしまう。

「どこに行きやがった」
「おい! あっちだ!」

 ドスのいた低い声と、靴音を響かせながら近づく複数の男たち。姿は見えないが、確実に私を追いつめていた。私には、もうあのように走ったり、大声を出すことなんてできそうもない……
 地の利を生かして裏道や迷路のような小路こみちを選んだつもりだが、女の足で屈強くっきょうな男たちをくことはできなかったようだ。逆に裏道を選んだことが、かえって裏目に出てしまったらしい。人気ひとけのない薄暗い道では、通りかかる人に助けを求めることも不可能だった。
 ――どうしよう。
 焦りが込み上げてくるものの、いい考えは浮かばない。むしろ頭に浮かぶのは、彼らに捕まった後の自分の未来。
 ……想像するまでもなく最悪な結末だった。知らず知らずのうちに唇を噛みしめてしまい、ピリッとした痛みが走る。だが、そんなことを気にする余裕すら今の私にはないのだった。


 今になって、やめておけば良かったと悔やんでももう遅い。お金だけを信じて生きてきた私が悪いのだろうか?
 自嘲じちょう気味に笑う私の顔に浮かぶのは、常日頃から男性客に『魅惑的だ』『花のようだ』とめられる微笑ほほえみではなく、ゆがんだ笑みだろう。
 どうせ近くにお客さんはいないのだから、こんなところで笑顔を作る必要はない。もうすぐそこまで迫った男の一団を、厳しい表情で見つめながら、これまでのことを思い返していた。



   ◆◆◆第一章 先の見えない暗闇の中で◆◆◆


「ユウナちゃん、お店替わるんだって?」
「そうなんです、社長。お耳が早いですね。もう社長のお話を聞けなくなると思うと残念です」

 そう言って寂しそうに笑ってみせると、私の横にどっしりと座る男性は嬉しそうに笑う。
 ここ『マリス・ステラ』はこの界隈かいわいでは名の通ったクラブであり、聖母マリアの名を冠する店らしからぬ、蠱惑的こわくてきな女性が多くいることで有名な人気店だ。
 私――久藤優奈くどうゆうなは大学に通いながら、このお店で働いている。大学の卒業まであと二年。それまでにもう少しお金を貯めておきたい。そんな思いから条件の良い引き抜き話を受けたのが、数日前のことだった。

「ユウナちゃんくらいだよ。こんなオヤジのつまらない話を面白そうに聞いてくれるは……」

 私が社長と呼んでいるこの男性客は、社員数三名――いわゆる家族経営の有限会社の社長をしている。小さな会社であっても稼ぎはそこそこあるようで、お店の中でもまずまず金払いの良いお客さんと言えた。
 家では奥さんと子供に相手にされず、家族経営なので愚痴ぐちりながら飲む相手もいない。そのため黙って話を聞いてあげるだけで、とても喜んでくれる良いお客さんだ。
 社長はしみじみとつぶやいたあと、覚悟を決めたような表情で私を見た。

「ユウナちゃん。本当はダメなんだけど、お店替えちゃおうかな。新しいお店が決まったら、メールよろしくな」
「本当に? ユウナ嬉しい!! ……でも大丈夫かなあ?」

 夜の世界は広いようで狭い。女の子がお店を替わるのは自由だが、お店の客を引っ張っていくのはタブーとされている。
 とはいえ、もう二年来の付き合いで、週に一度は必ず来てくれたお客さんを、『そういう決まりだから』の一言で見捨ててもいいのだろうか?
 自分の身を案じるなら、社長には連絡しないのが一番だ。だが、そうなると社長は新しい女の子に、身の上話を一からしなくてはならなくなる。私たちの間では『この間のアレがさあ』だけで通じていた話を、こんこんと説明する必要があるのだ。
 ……実は、お店を替えるよと言ってくれたお客さんは社長だけではなかった。他にも数名、そう言ってくれたお客さんがいる。
 しかも揃いも揃って、金払いの良い上客……だから私は悩んでいた。上客ばかりを連れて店を移ったら、なんだか面倒なことになりそうだからだ。


「じゃあね、ユウナちゃん。また来るから。まだしばらくはこっちにいるんでしょ?」
「うん、待ってる。でもお仕事大変なんだし、無理はしないで」

 疲れを隠せない社長の後ろ姿を見送って、外の澄んだ空気を大きく吸い込む。正直に言って、店内にただよう香水とお酒のにおいや、よどんだ空気には何年働いても慣れない。……とはいえ、私には稼がなければならない理由があるのだ。

「さ、戻るか」

 私がきびすを返そうとしたそのとき、店の正面に黒塗りの高級車が静かに停車する。
 ――お客さんかしら?
 そう思ったが、降り立った男性の顔を見て、私は電柱の陰に隠れた。
 車から出てきたのは、『マリス・ステラ』のオーナーだった。いや、正しくはママのパトロンである。
 ママはしっとりとしたつやのある年齢不詳の女性で、彼女目当てに来るお客さんも多い。
 そのママの恋人、出資者、愛人、友人――どれが正しいかなんて興味もないが、一番しっくりくるのは出資者兼愛人といったところか。
 オーナーは三十代なかばの、怜悧れいりな雰囲気の持ち主だ。サラリとした黒髪にシルバーフレームの眼鏡が、その雰囲気をより一層際立きわだたせている。弁護士や会計士のような堅い職業が似合いの風貌ふうぼうだが、実際に何をしているかは知らない。
 しかし、このお店の資本金をポンと出せるくらいには稼いでいるのだろう。それに、優しくて気前が良いことから、お店のスタッフには男女問わずとてもしたわれている。
 ……まあ、女の子に関してはそれだけが理由ではないと思う。なんといっても彼は、ここに来るお客さんの誰よりも遥かにイケメンなのだ。
 だが『ママの良い人』に色目を使おうなどという猛者もさは現れていない。
 オーナーはいつも一緒にいる秘書らしき男性と、ボディーガードのような肉体派の男性数名を引き連れて扉の中に消えていく。
 ちなみにあの肉体派の人たちは、店に揉め事があったときにも飛んで来てくれる。おそらく店の用心棒も兼ねているのだろう。
 そんな彼らを電柱の陰に隠れたまま、そっと息を殺して観察する。
 私はあのオーナーも秘書も苦手であった。紳士的な態度なのだがどこか近寄りがたい。なので、お店の女の子たちが嬉しそうにオーナーに駆け寄るのを、『よくやるなあ』と私は冷めた目で見ていた。
 オーナーが店に入って、きっかり十分。私はゆっくりと店の扉を開ける。今頃はきっとママとVIPルームへ移動しているはずだ、と狙った通り店内に彼の姿はない。
 そして私も自分に関係ないことはとっとと忘れるべく、次のお客さんへと意識を向けるのだった。


 私は中学生の頃、事故で両親と妹を亡くした。
 その日は平日だったが、普段仕事で忙しい父がたまたま休みだったこともあり、「たまには皆で一緒に外食したい」という妹の一言で、少し離れた場所にあるシーフードレストランに行く予定になっていた。
 専業主婦だった母、小学生だった妹と違い、中学校で運動部に所属していた私は夜まで部活がある。そのため三人が学校まで私を迎えに来る途中で起きた事故だった。
 相手は脇見運転――携帯電話を操作しながらの運転で対向車線から突っ込んできたという。
 大型トラックに正面から激突された車は見る影もなくぐしゃぐしゃで、運転していた父と助手席の母は即死。後部座席に座っていた妹は、かろうじて命のある状態で救助されたが、治療のかいなく数時間後に息を引き取った。
 連絡を受けた私は、顧問こもんと担任に連れられて病院に行ったものの、そのときの記憶はほとんどない。今思い出せるのは裁判で挙げられた事実のみで、三人の死に顔も、お葬式のことさえ記憶が曖昧あいまいだった。
 相手の過失が認められ、賠償金や生命保険が下りたのだが……そこからがまた大変だった。
 不景気なこのご時世、突如降って湧いた大金に、親戚の目の色が変わる。
 未成年だった私の後見人の座を求めて、いな、多額の生命保険金と慰謝料を求めて、親戚同士で小競こぜり合いが起こったのだ。
 ドロドロとした応酬おうしゅうの末、私の養育条件が一番整っていた伯母が後見人になった。

「よろしくね、優奈ちゃん。仲良くしましょうね」

 満面の笑みとともに差し出された、ふくよかな手。優しそうな伯母の笑みを見て、ひとりぼっちのような感覚におちいっていた私は少し安心した。


 しかし、伯母の笑顔はすぐに消えることになった。
 当たり前だが、家族が残してくれた財産は私のものであって、後見人と言えど不正に消費すれば民事、あるいは刑事責任に問われる。そのことを後から知った伯母は、手のひらを返したようによそよそしく冷たくなった。
 その頃から、他の親戚たちも私に近寄ってこなくなった。それまではうるさいほど過干渉だったのが、パッタリとんだのだ。
 伯母は私が邪魔であることを隠そうともせず、「貧乏くじを引いた」「厄介者」「当てが外れた」と声高に言い、「あんな大金、一人でどうしようって言うのかねえ」と恨みがましい目を私に向けるのであった。
 とはいえ伯母には感謝している。
 たとえ私を放り出さなかったのが世間体を気にしてのことであったとしても、服はきちんと洗濯してくれたし、ごはんも実子と変わらぬものを用意してくれた。
 もちろん、私も家族の遺産から毎月の生活費は入れていたけれど。
 ただ、実子である従兄妹いとことは扱いが違うこともあった。
 私の誕生日にはカットされたケーキに蝋燭ろうそくを一本。従兄妹いとこのときにはホールケーキに年齢の数の蝋燭ろうそくが揺らめいているのを見て、悔しさよりも、もうこんな風に心から祝ってくれる人がいないことの方がこたえた。
 親戚といても、友達といても、常に孤独感は襲ってくる。私の身の上を知る人からの同情や、哀れみの視線が重苦しい。れ物を扱うような教師の態度にも、嫌気がさした。
 そのため私は高校入学と同時にその地を離れて、一人暮らしを始めることにした。

「県外の高校に進学したい」

 理由も告げず、ただそう言った私に、伯母夫婦は反対することなく、むしろ嬉々ききとしてアパートの契約手続きをおこなってくれた。
 当然、高校への進学費用は言うに及ばず、家賃や生活費の支払いも自身でしていた。
 このような経験から、骨身にみて理解した。私には頼る人などいない。頼れるのは自分とお金だけなのだと。
 慰謝料や保険金が振り込まれたため遺産は多額だが、湯水のように使っていては、いつかなくなる。それに、お金に群がってくるハイエナのような人たちをこの目で見て、お金の怖さというものも知っていた。
 そのため一人暮らしを始めてすぐに倹約・節約生活に切り替え、できる限りバイトをして貯蓄に励むことにした。両親の残してくれたお金には、可能な限り手を付けないとも決めていた。
 だが十六歳の小娘にできる仕事は限られており、バイト代も日々の生活費に消えていく。
 一向に増えない通帳の残高を見つめ、眉をひそめた。

「お金を貯めるって、難しいなあ」

 預金通帳と、パソコン上でつけている家計簿を見比べては、漏れるため息。少し迷ったものの、大学に進学することを決め、バイトに勉強にと寝る間を惜しんで頑張った。
 晴れて希望の大学に合格し、十八歳を迎えた私が真っ先にしたことは、『割の良いバイト探し』である。
 人目や世間体を気にする必要もなかったので、夜の仕事にくことに抵抗はなかった。それに大学を休むことなく高額を稼げる仕事なので、むしろありがたいとさえ思っている。
 私は年齢を詐称さしょうせずに入ったため、アルコールは飲めないが、代わりにソフトドリンクやフードを頼めばいい。そこで嫌な顔をするお客さんは次第に足が遠くなり、必然的に人柄の良いお客さんだけが残った。
 さほど忙しくもなく、バイト代はそこそこもらえるこの状況に、特に不満は感じていなかった。
 だが、ここから二駅隣に新しいクラブが出店するらしく、ひと月ほど前から店の女の子たちに引き抜き話がかかり始めた。
 慣れ親しんだ店をわざわざ離れることに抵抗があったのだろう。ほとんどのは首を縦には振らなかった。
 だが私は他のたちとは状況が違う。遊ぶためのお小遣い稼ぎではなく、日々の生活費をほっしているため、家から近くて条件も良いスカウトに、少し迷ったもののうなずいたのだった。


 私が『マリス・ステラ』から移籍してひと月が経った。
 新しい店は開店イベントで毎日にぎわっている。結局メールはしなかったものの、新規出店ということで話題になっていたことから、バレてしまったらしい。社長をはじめとした前の店のお客さんが、初日に数名顔を出してくれた。
 しかも、なんと新しいお客さんを連れて来店してくれたのだ。本当にありがたい。
 おかげで私の売上も順調だったのだが、今日になって大変な事実が発覚した。

「ユウナさん、ちょっと」

 月に一度の全体ミーティングに参加するため、少し早めに出勤した私は、着替えてロッカーから出たところで黒服に呼び止められた。そのまますみの席へと座らされる。

「なんですか? 私、何か呼び出されるようなことしましたか?」

 学生アルバイトの私にはノルマこそないものの、同伴出勤はこの仕事をメインでしているお姉さんたちと同じ回数をこなしているし、遅刻も早退もない。お客さんもそこそこ呼んでいるし、店のやお客さんと揉めたこともない。
 呼び出しを受ける理由が見当たらない私は、厳しい表情の黒服に対し、自然と怪訝けげんな表情になる。

「いえ、そういうわけではないんですが……」

 歯切れの悪い黒服の言葉に、若干やきもきしてしまう。

「はっきり言ってください、余計不安になります」

 再度たずねれば、困った表情の黒服は小さな声で話し出した。

「ユウナさんのお客様である大江おおえ様からご紹介いただいた、山中やまなか様のことなんですが――」

 大江さんというのは社長のこと。そして社長がオープンのときに連れてきてくれた友人が、山中さんだ。それ以来、山中さんは何度か一人で来店してくれている。上品だし、お金の使い方もスマート。良いお客さんを紹介してくれたな、と社長に感謝していたのだが……

「飛びました?」
「いえ……お金に関してはきちんと振り込まれていますので、ユウナさんは安心してください」

 その言葉に、ホッと胸をで下ろす。
『飛ぶ』というのは、ツケを払わずに消えてしまうことだ。私はただのバイトなので、客のツケの立替えまでは強要されないものの、罰金としてバイト代からいくらか天引きされてしまう。それでは、なんのために働いているのかわからなくなるところだった。

「そうですか、安心しました。……でも、じゃあなんですか?」
「山中さん、『マリス・ステラ』に馴染なじみのホステスさんがいたみたいなんですけど、ユウナさん、知っていましたか?」
「え? 『マリス・ステラ』に?」

 記憶を探ってみるも、山中さんが通っていたかどうかすら思い出せない。いたような気もするが、いなかったような気もする。言っちゃ悪いが、山中さんは目立った特徴のない、地味な人なのだ。

「でも、そんなお客さんを社長が連れてくるかしら?」

 他のの客をよそに引っ張るなんて、タブー中のタブーである。そんなことをしたら揉めるだろうと、社長だってわかっているはずだ。

「他の店の黒服の間では、ユウナさんが移籍するときに、他のホステスの客まで引っ張って行ったとうわさになっているみたいで……」
「な、なんで? そんなことしてない!」
「しっ! 落ち着いてくださいユウナさん。私もそれは知ってます。……ですが『山中様がこちらの店に通っている』という事実だけを見ると、うわさが本当だと思われても仕方ないんです」
「そんな!」
「とりあえず、今後山中様にはあまり関わらない方がいいかもしれません」
「でもっ」
「店で働く女の子たちの中には知らない人も多いんですが、『マリス・ステラ』のオーナーはヤクザです」

 一段声を落として話す黒服の表情は真剣だ。その内容に、私は言葉を失う。
 オーナーと言えば、あの『シルバーフレームの紳士面しんしづら』。
 ――あの人が……ヤクザ?

「名義上はママが経営者ですが、事実上のオーナーである星辰会せいしんかい加賀見かがみ会長が出資している以上、ヤクザの金蔓フロントなのは明白。ユウナさんもあちらにお勤めのとき、会長の姿を見たことあるんじゃないですか?」
「ある……けど、ヤクザだとは知りませんでした」

 激しく動揺する私を見た黒服は、静かに話を続ける。

「この世界では、後ろバックにヤクザがついていることなど、珍しくありません。あの辺りは星辰会のシマですからね。『昔ながらの』というよりは『経済ヤクザ』の色が強いところなので、さすがにバイトのの移籍にまでは難癖なんくせ……いえ、口を挟んでは来ませんでしたが、店のの客をかすめ取ったら、大変なことになります。面子メンツを何よりも重んじる人種ですからね。ユウナさん、私の言っている意味がわかりますね?」
「……はい」

 自分ののどから出たとは思えない、ひどくかすれた声。

「できればしばらくの間、店は休んだ方がいいと思うんですが……どうしますか?」
「わ、かりまし、た。休み、ます」

 カラカラにかわいたのどから絞り出された声で、なんとか返事をするのが精いっぱいだった。
 ヤクザ、面子メンツかすめ取った、ママ、山中さんといった言葉が、頭の中でグルグルと渦巻く。身の潔白を訴えたいものの、信じてはもらえないだろう。
 ただ、自分の状況が最悪なことだけは理解できた。

「じゃあ、今日は帰っていいですよ。ママには私から言っ――」

 そこで黒服の口が止まる。
 店の扉が開く気配に、思わず振り返ろうとして、向かいに座る黒服に止められた。

「ユウナさん、ダメだ。振り向かないで、できるだけ姿勢を低くして」

 小声ながらも、ひどく焦ったような声。
 最悪の事態を裏づけるかのように、背後からやってくる複数の男の気配。テーブルやソファーを蹴る音に加え、花器の割れる音が店内に響く。それに店の女の子たちの悲鳴が重なった。

「この店にユウナというホステスがいるはずだが?」

 今の状況にそぐわない穏やかな声が、この場を支配する。おそらくママのパトロンの、あの男だろう。

「ああ? 何黙ってんだ! 隠すとためにならないぜっ」
「おらっ! いるのは知ってるんだよ! 早く出てこいっ」

 押し黙り、固まったままの従業員たちに苛立いらだったのか、チンピラそのものの口調で怒鳴り、店の器物を壊す男たち。それをたしなめるかのように、先程とは打って変わってドスのいた声が店に響く。

「やめろ」

 鋭くも短い、たった一言。それだけでチンピラたちは「すいません」「失礼しましたっ」と店を荒らすのをやめた。
 ママがまだ来ていないため、黒服のトップである専務が応対に出る。

「あいにく経営者は不在でして……一体どのようなご用件で?」

 皆の視線が専務に集まるそのすきを狙ったかのように、黒服がささやく。

「さあ、今のうちに裏口から」

 私はできるだけ小さく縮こまりながら、ソファーの陰に隠れる。そして震える手で自分の荷物を抱きしめ、裏口へと移動した。

「早く」

 グイグイと背中を押され、裏口を開けた先に、一人の男がいた。ジャケットの下に派手な柄シャツを着た、いかにもチンピラ風の男は、こちらに背を向けている。タバコを吸っているのか、大きく煙を吐き出しながらよそ見をしていた。
 黒服はそれに気付かず、私を外に出すと扉を閉めてしまう。
 近くで扉の閉まる音に気付かないはずがなく、男がこちらを振り向いた。
 ――二人、合いたくもない目が合った。
 男も相当驚いたのだろう。
 目を見開き、口もあんぐりと開けた拍子に、くわえていたタバコをポロリと落とす。

「熱っ! って、お前ちょっ、待て! 会長! いましたっ、女です!」

 大声で叫ぶが、防音のほどこされた建物の内部までは到底聞こえない。
 正面玄関前に配置されていたらしい男たちが走ってくるのが見えたが、裏口までは少し距離がある。
 目の前の柄シャツ男は、タバコが足に触れたとき、勢いで履いていたサンダルを飛ばしてしまっていた。
 そのためサンダルを拾うか、私を捕まえるか、逡巡しゅんじゅんして一瞬のすきができる。
 咄嗟とっさに私は全力で駆け出した。逃げるチャンスは今しかない。
 ――偶然、男が一人しかいなかった。
 ――偶然、男がよそ見していた。
 ――偶然、男がタバコを吸っており、それが男の足に落ちた。
 ――偶然、男が履いていたサンダルが脱げた。
 ――偶然、男の声を聞きつけた者たちは、離れた場所にいた。
 これは天のお告げで、もう逃げろと言わんばかり。
 ようやく私にも運が巡ってきたのかもしれない。できれば、家族を亡くす前……とまでは言わないから、ヤクザに追われる身になる前に巡ってきてほしかったなあ、などと馬鹿げたことを考えながら必死に走る。
 こんなことを考えてでもいなければ、恐怖で足がすくんでしまいそうだった。
 必死で逃げる私だが、出勤前だったのが災いした。
 ミーティング後そのまま勤務する予定だったので、ドレス姿にヒールの高い靴を履いている。走ることには全くもって不向きな服装だった。せめて大学の帰りならデニムにスニーカー、髪もポニーテールというシンプルな服装で、もう少しマシに動けただろうに。いくら悔やんでも服装は変わらない。
 駆け出して早々にヒールが折れたため、靴は脱ぎ捨ててしまった。外を裸足はだしで歩いたことなどないので、足の裏が悲鳴を上げるが、捕まればそれ以上に辛いことになる。
 だが、足の裏と言わず、ふくらはぎが、太ももが、肺が、同時に悲鳴を上げると、たまらず立ち止まってしまう。
 男たちの声と足音が徐々に近くなってくる。その方向を一人、すべもなくただ見つめることしかできなかった。
 ――今も、昔も、私は無力だった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。

くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」 「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」 いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。 「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と…… 私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。 「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」 「はい、お父様、お母様」 「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」 「……はい」 「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」 「はい、わかりました」 パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、 兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。 誰も私の言葉を聞いてくれない。 誰も私を見てくれない。 そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。 ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。 「……なんか、馬鹿みたいだわ!」 もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる! ふるゆわ設定です。 ※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい! ※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇‍♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ! 追加文 番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。

側妃は捨てられましたので

なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」 現王、ランドルフが呟いた言葉。 周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。 ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。 別の女性を正妃として迎え入れた。 裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。 あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。 だが、彼を止める事は誰にも出来ず。 廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。 王妃として教育を受けて、側妃にされ 廃妃となった彼女。 その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。 実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。 それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。 屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。 ただコソコソと身を隠すつまりはない。 私を軽んじて。 捨てた彼らに自身の価値を示すため。 捨てられたのは、どちらか……。 後悔するのはどちらかを示すために。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる

佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます 「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」 なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。 彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。 私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。 それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。 そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。 ただ。 婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。 切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。 彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。 「どうか、私と結婚してください」 「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」 私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。 彼のことはよく知っている。 彼もまた、私のことをよく知っている。 でも彼は『それ』が私だとは知らない。 まったくの別人に見えているはずなのだから。 なのに、何故私にプロポーズを? しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。 どういうこと? ============ 「番外編 相変わらずな日常」 いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。   ※転載・複写はお断りいたします。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。