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本編
6月7日
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初めてそれに遭遇したのは、3回目のデートだった。
フードコートで男が喚いていた。
あれはそういう男なのだろう。
横目に通り過ぎようとした所で、隣を歩いていた筈の恋人が着いて来ていない事に気付いた。
「八木?」
何か様子がおかしい
目があちこちに泳ぎ、明らかに何かに怯えている。
「か、ずみ」
「何、?」
「かずみにでんわ、して」
「あぁ、わかった」
通路の真ん中に居たら危ない。
肩を抱いて端へ寄せる間も、八木は体の前で手をギュッと握りしめている。
その手は何をしている、?
俺なら怒りを抑える為にそうするが…恐らく違う。
「代永、すまない今ーー」
八木のもう一人の恋人は、すぐに電話に出た。
現状、目の前のものだけを代永に説明しスマホを八木へ握らせようとしたが、何故か組んだ指を頑なに外そうとしない。
耳に当てると、代永の声に小さく返事をし始めた。
「ん、」
何度も頷いて、聞き逃しそうな程に小さく一瞬の声を俺は側で聞くだけだった。その内忙しなく泳いでいた目が、数回ゆっくりとした瞬きのあと、落ち着いた。
「ん。」
そうか。
これが
代永が言っていた八木の不安定さとは、これの事なのか。
だが何がきっかけになったのか分からない。
俺が何かしたのだろうか
「わかった。うん。ありがとう… …千田、」
「ん?」
「電話ありがとう、和己が代わってって」
「ああ…もういいのか?」
瞬きをしてうん、と頷いて見せた。
「もしもし、代永?」
電話口に出た代永は少し困った提案をした。
あまり良い提案だとは思えない、と答えたが、今も手を握り締めている八木を放っておく選択肢は無いーー無いが、他に良い案も思い付かない。
腹の底側からボコッと湧く不謹慎な感情。
俺はこんなに身勝手な自分を知らない。
「八木、家に戻ろう。」
「ん、」
大学で初めて出来た友人は恋人になり、その恋人には同棲する恋人が居て。
俺は今から二人が暮らす家に上がり込む。
「どっちだ?」
「こっち。」
「おっと」
初めて腕を組んでくれた。
飛びつく様な、体重がグッと腕に乗る感触に胸が鳴る。
「これ、安心する」
「そうか、」
マズイな。
代永に殺される、
ーーーーー
寝過ぎると夢見が悪いって本当だな。
俺は陸也とは違って、目覚まし時計が無いと起きられない。
けど、目覚まし時計の音もアラームの音も苦手だ。
鳴る度にビクッとして目覚める。
だからって音を小さくすると、今度は起きられるか不安で眠れなくなる。
それよりも不愉快なのは、意識が飛びそうな程の怒鳴り声で目を覚ます事。
夢、か。
間違いなく夢だ。
背景は真っ赤、全身で打ち鳴らされる除夜の鐘の真下に立たされて聞いた様な感じ。
爆音が只一言、馬鹿野郎と怒鳴ると心臓がドッと鳴り、頭の中までがぶん殴られ身体は横へと吹っ飛んだ。
ううん。これ夢だ。
そう言えば痛く無かった。
だから夢だ。
へんなの。
自分が今、思ったより冷静なのがわかる。
前なら泣いて吐き気を催して、最悪心臓がドンドン鳴ってた筈だけど。
「はぁー…っ、ふぅー…っ、すぅー…。」
ーーうん。なんかいい。
とりあえず、こうなったら仕方ない。諦めよ。
もう今日は何もしない事にする。
前、そうしたらなんでか落ち着いて、今度また嫌な夢見たらやってみようと思ってたんだ。
やってみよう、
とりあえずお湯を沸かして、暑いのに沸騰したお湯で並々ココアを淹れる。
最近、スーパーに入ってるのパン屋さんがバームクーヘンの切れ端を売り始めてハマった。
卵の風味がするし、バニラの香りが口の中いっぱいになって気に入った。
バームクーヘンの切れ端は、てっきり輪っかなんだと思ってたんだけど。
どう見ても一口サイズにカットされただけに見える。
端っこ何処だ。
全然、美味しいからこれで充分。気に入ってる。
態々トレーを出して、小皿に乗せて爪楊枝も刺す。
行く所は決まってる。
「和己、」
「はあい?」
「怖い夢見た」
「あれま。おいでー」
呼ばれるままにふらふら寄って、抱き締めてもらう。
トレーを持ったままだから、ちょっと気を付けてほしい。
ココア熱いんだぞ
「良い物持ってるね良悟?」
「おやつ。嫌な夢見たからごほうび」
「美味しい?」
「前食べた時は美味しかった… …1個あげる。」
「良いの?良悟が楽しみにしてた奴でしょ?」
「ん。俺の"楽しみ"1個だけ分けてあげるっ。」
美味しいから和己にもあげる。
これ食べれば嫌な夢も、うんざりする仕事も多分ちょっとだけマシになる。
爪楊枝がブスッと刺したバームクーヘンを…普通に渡すのはつまらないな。
チラッと和己を見る。
俺を見てた。
嬉しい。
その目が、かぱっと開けた唇に向くのが分かってまるで和己の唇にするように、バームクーヘンにキスをした。
「俺ねぇ、良悟のそのニヤッて上がる口角好きなんだよねぇ♡」
「んふっ。」
「食べさせてくれるハニー?」
「なんだソレっ」
ハニー?
じゃあダーリンって言えば良いのか。
でも、そんな馴染みのない呼び方されてもノらない。
「何時ものが良いっ。」
「俺の黒柴くん?」
「ん…それ好き。食わせてあげるから、あーんして和己。」
モグモグしてる。
俺は、飲み込む時に動くこの喉仏が好き。
「ソファ貸してほしい。」
「どうぞ?好きに使って良悟。」
「ん。」
バームクーヘンだけ和己にキスするのやっぱズルい。
俺も、2回唇に吸い付いて離れた。
柔らかくて薄い、和己の感触がした。
「良悟。」
「ん?」
「ご機嫌だね、可愛い。」
「ん。和己のお陰。ありがと。」
ーーーーー
意外と言えるほど、知ってる訳では無いが。
これは何と言うか意外だったな。
「そっちは俺のじゃない、」
「代永か?」
「ん」
誰かと暮らすという事がどういう風な物か俺には分からないが、2LDKのLがこれだけ散らかっていて、大丈夫なのか?
一部屋は寝室らしい。
もう一部屋は荷物が全部突っ込んであった。
そして問題のリビングは教科書やらノートが、いや…散乱してるのは代永の教科書であって、八木のは床に綺麗に積み上がっていた。
散らかってる様に見えて何が何処に有るのか把握してるタイプと、よく使う物は近くに積み上げて行くタイプか。
「転んだりしないか、?」
「和己はよく転んでる」
「だよな」
テーブルを挟んだ向こう側が代永のテリトリーらしい。
足の踏み場は、何処だ。
「見たい所が見える様になってるから、動かすと混乱するんだって」
「そうか。八木も、これ大変だろ。プリント折れてるぞ」
「それ、終わった奴だから大丈夫。」
終わった奴が何故そこに有るんだ。
恐らくだが捨てるのが面倒になったんだな。
ローテーブルの天板まで積み上げれば、そうだな。
「和己、なんて」
「手拭いで手首を縛り上げろ、と。」
「それしなくて良い」
「しなくて良いというのは、平気だからしなくて良いという意味で合ってるか。」
「うん」
「そうは見えない。」
なんだろうな。
叱られるのが怖い子供みたいに見える。
俺に叱られるのが嫌なのか。
それはつまり、俺は思ったより好かれてるのだろうか。
「膝に、乗ってみないか」
「ーーぇ?」
「ほら、」
俺はデカいから良く子供に登られる。
流石に同年代を膝に乗せた事は無いが、合宿で抱いた八木の重みを覚えている。
ずっしりと乗る身体の割によく跳ねる腰、整えられた爪がチクチク引っ掻く痛み、震える息。甘くのびる声。
「やったこと、ない」
「尚更だな。ほら、」
おずおずと寄ってきた八木は、明らかに困っていた。
「どうやって座ればいい、?」
「そうだな…前か横か、片方はどうだろうな。出来れば両膝にしてくれると安定して良いな。」
「前…両膝、横ーー?」
「代永の膝には乗らないのか」
「そんな風に乗った事は、無い」
「俺は慣れてる。」
言って後悔した。
俺は馬鹿だと、何時言い聞かせてもコレは予想出来なかった。
「や、ぎ」
「ん?」
「前、向いてくれないか」
「向いてる。ドキドキする」
俺もドキドキする…っ、態とじゃないのかコレは。
「反対向かないか、」
「ううん。」
息が止まりそうだ。
落ち着け。
眠くてグズる子供も同じだ。
向かい合わせに膝の上に乗せ、耳を心臓に付けるように抱き締めて背中をあやしてやれば眠る。それと同じーー筈だ。
「横でも良い、ん」
「これがいい」
「そうか」
八木は思いの外、この体勢を気に入ったらしく。
ずっと強張っていた身体から力がスッと抜けたのが分かった。
呼吸も深く、視線も落ち着いた。
これが、安心するのなら背中をトントン、とあやす事にした。
「こどもみたい」
「施設で、これだけは上手いと評判だったからな。八木にも効くならもっとやってやる。」
「ほんと?」
「嫌じゃなければ、だが。子供扱いしてるみたいで気に触るなら言ってくれ。俺はあまり気が利く方じゃ無い。」
眠くなるとグズる子供や、夜になると不安で眠れない子供は少なからず居た。
そんな子供に呼ばれてお願いされれば、いくらでもやった。
「嫌じゃ無い。その話もう少し聞きたい…評判だったってやつ。」
「デカくて頑丈なのは安心するらしい。」
本を読んであげるから代わりに抱っこして、と言う女の子。
おれが勉強みてやるよ、と膝に乗って来る男の子。
一緒に勉強すると言って片膝に座って、ひらがなだけを読む子。
「本当に新聞を読む子も居たな。」
「すごい、」
「読み辛くて2日で辞めた。」
「大きいから?」
「いや、今読んでいた文章が次どこに続くのかが分からないと言っていた。」
「へぇ。」
「慣れればそうでも無いだろうが、一生懸命文章を追いかけては見失ってたな。」
「千田は楽しかった?」
よく人から聞かれる事が有る。
大抵決まっていてこれもその一つだ。
やっぱ楽しい?
他にも、楽しそうだとか親が居ないだけ自由じゃん、とか。
だが、俺が楽しかったか聞かれたのはこれが初めてだ。
「楽しくない時も有る」
「うん」
「でも楽しい事も有った」
「そっか。」
「今思えばだがな。」
俺は今、なんでこんな話をしてるんだろうな。
代永の時もそうだった。
聞き上手だな二人とも。
そうでなければ、こんな風に振り返ってあれは楽しかった、これは楽しく無かったなんて考えもしなかったかも知れない。
「八木は、無いのか?」
「多分有ると思うけど」
「けど?」
「思い出せない。嫌な事はいっぱい覚えてるのに」
「聞いても良いか?」
「良いけど」
「八木は酷い事をされたのか。痣や怪我をしたりしたか、?」
この手の話を聞くのに、俺程慣れた人間も珍しいだろうな。
もっと聞きづらそうにするべきだったか。
「いや、してない。」
「じゃあ中身だな。」
「なかみ」
「俺には痛そうに見える。痣も付けず怪我もさせずに殴るのは難しい事じゃ無い。女でも子供でも出来る事だ。」
八木が、なんでと聞いてきた。
何でも何も。
「さっき、スマホを耳に当てた時首をすくめただろ。」
「そんなことで」
「そんな事、じゃない。」
拳骨を受け止める気合いと信頼関係が有る奴らなら、ああいう風にはならない。
何時も誠実な人がくれる一発と、納得出来ないまま一方的に殴られるのとでは訳が違う。
「首をすくめて顔を避けた。唇も噛んでるだろ。それは普通じゃない。」
「見えない様に噛んでたんだけど…そんなにわかるもの、」
「噛む瞬間はどうしたって顎が動く。」
「そっか…ぁ。ほんとだ」
気付きもしなかったのは分かるが、何で今試したんだ。
「分かんない顔してる方が良いと思って」
こう言う時、掛ける言葉が見つからない。
納得出来ないまま、嵐が過ぎるのを待つ。
何とかマシになる様、色々工夫して。
「俺にそんな気遣いは要らない。嫌なら嫌と言ってくれ。俺が抱きたいからって、無理に抱かれるのも駄目だ。八木の尊厳が揺らぐ。」
「尊厳が揺らぐ。」
「あぁ。」
「俺、尊いの?」
「可愛いだろ。」
「ん?」
「可愛いものが傷付くのは駄目だ。良いな。」
「わ、かった。俺はかわいい?」
「あぁ、可愛い。」
結局その日、代永はバイトを休んだ。
代わりに俺が出る事になったが、八木をきちんと引き継げた事に心底安心して肝心な事をひとつもふたつも忘れてしまった。
ーーーーー
「良悟。」
「ん?」
「3回目のデートでキスのひとつもしてないってまじ?」
「まじ♡」
「アイツの脳味噌どうなってんだよ、」
「俺が」
「うん?」
「俺が膝に乗っても、何もされなかった。」
「膝?膝に乗ったの良悟!?」
「うん。」
「騎乗位じゃん。」
「俺もそう思う。他に膝の乗り方分かんなくて。でもいっぱい話して、あやしてくれて…終わった。」
「アイツ本当は不能なんじゃねぇの、!?」
「ちょっと硬かった、多分。」
俺はその日、千田にメッセージを送っておいた。
俺に気を遣って良悟を抱かないなら、ぶっ飛ばすぞって。
それなのに、シフト明けで送ってきたであろう返事は只の脳味噌お花畑野郎だった。
ーーー
正直、気を遣う暇は無かった。
八木を見てたら1日が終わっていた。
すまない
手を出したいのは山々だが、眺めてるだけで1日が終わるのに俺は何時手を出せば良いんだ?
ーーーーー
「良悟ー。」
「なにー?」
「千田が、良悟眺めてたら1日が終わったって。」
「え、なんで?結構、色々したけど。」
「何したの?」
「本屋、バッティングセンター、モール。」
「アイツ運動何でも出来そうだよなぁ。」
ーーーーー
代永が返事を送ったあと、すぐに八木からもメッセージが来た。
宛先を見た時、余計な事を言ってすまん、と送るつもりでいた。
本当にそう思っていた。
ポン、と表示された吹き出しを見るまでは。
ーーホームランカッコ良かった。
変な声が出た。
自分でも聞いた事ない様な、悲鳴なのか呻き声なのか分からないが。
とにかく心臓に悪い。
それも、元野球少年に言われると破壊力が違う。
代永はどうやってコレを凌いでいるんだ。
返事はたった一言。
知るかバカ、だった。
フードコートで男が喚いていた。
あれはそういう男なのだろう。
横目に通り過ぎようとした所で、隣を歩いていた筈の恋人が着いて来ていない事に気付いた。
「八木?」
何か様子がおかしい
目があちこちに泳ぎ、明らかに何かに怯えている。
「か、ずみ」
「何、?」
「かずみにでんわ、して」
「あぁ、わかった」
通路の真ん中に居たら危ない。
肩を抱いて端へ寄せる間も、八木は体の前で手をギュッと握りしめている。
その手は何をしている、?
俺なら怒りを抑える為にそうするが…恐らく違う。
「代永、すまない今ーー」
八木のもう一人の恋人は、すぐに電話に出た。
現状、目の前のものだけを代永に説明しスマホを八木へ握らせようとしたが、何故か組んだ指を頑なに外そうとしない。
耳に当てると、代永の声に小さく返事をし始めた。
「ん、」
何度も頷いて、聞き逃しそうな程に小さく一瞬の声を俺は側で聞くだけだった。その内忙しなく泳いでいた目が、数回ゆっくりとした瞬きのあと、落ち着いた。
「ん。」
そうか。
これが
代永が言っていた八木の不安定さとは、これの事なのか。
だが何がきっかけになったのか分からない。
俺が何かしたのだろうか
「わかった。うん。ありがとう… …千田、」
「ん?」
「電話ありがとう、和己が代わってって」
「ああ…もういいのか?」
瞬きをしてうん、と頷いて見せた。
「もしもし、代永?」
電話口に出た代永は少し困った提案をした。
あまり良い提案だとは思えない、と答えたが、今も手を握り締めている八木を放っておく選択肢は無いーー無いが、他に良い案も思い付かない。
腹の底側からボコッと湧く不謹慎な感情。
俺はこんなに身勝手な自分を知らない。
「八木、家に戻ろう。」
「ん、」
大学で初めて出来た友人は恋人になり、その恋人には同棲する恋人が居て。
俺は今から二人が暮らす家に上がり込む。
「どっちだ?」
「こっち。」
「おっと」
初めて腕を組んでくれた。
飛びつく様な、体重がグッと腕に乗る感触に胸が鳴る。
「これ、安心する」
「そうか、」
マズイな。
代永に殺される、
ーーーーー
寝過ぎると夢見が悪いって本当だな。
俺は陸也とは違って、目覚まし時計が無いと起きられない。
けど、目覚まし時計の音もアラームの音も苦手だ。
鳴る度にビクッとして目覚める。
だからって音を小さくすると、今度は起きられるか不安で眠れなくなる。
それよりも不愉快なのは、意識が飛びそうな程の怒鳴り声で目を覚ます事。
夢、か。
間違いなく夢だ。
背景は真っ赤、全身で打ち鳴らされる除夜の鐘の真下に立たされて聞いた様な感じ。
爆音が只一言、馬鹿野郎と怒鳴ると心臓がドッと鳴り、頭の中までがぶん殴られ身体は横へと吹っ飛んだ。
ううん。これ夢だ。
そう言えば痛く無かった。
だから夢だ。
へんなの。
自分が今、思ったより冷静なのがわかる。
前なら泣いて吐き気を催して、最悪心臓がドンドン鳴ってた筈だけど。
「はぁー…っ、ふぅー…っ、すぅー…。」
ーーうん。なんかいい。
とりあえず、こうなったら仕方ない。諦めよ。
もう今日は何もしない事にする。
前、そうしたらなんでか落ち着いて、今度また嫌な夢見たらやってみようと思ってたんだ。
やってみよう、
とりあえずお湯を沸かして、暑いのに沸騰したお湯で並々ココアを淹れる。
最近、スーパーに入ってるのパン屋さんがバームクーヘンの切れ端を売り始めてハマった。
卵の風味がするし、バニラの香りが口の中いっぱいになって気に入った。
バームクーヘンの切れ端は、てっきり輪っかなんだと思ってたんだけど。
どう見ても一口サイズにカットされただけに見える。
端っこ何処だ。
全然、美味しいからこれで充分。気に入ってる。
態々トレーを出して、小皿に乗せて爪楊枝も刺す。
行く所は決まってる。
「和己、」
「はあい?」
「怖い夢見た」
「あれま。おいでー」
呼ばれるままにふらふら寄って、抱き締めてもらう。
トレーを持ったままだから、ちょっと気を付けてほしい。
ココア熱いんだぞ
「良い物持ってるね良悟?」
「おやつ。嫌な夢見たからごほうび」
「美味しい?」
「前食べた時は美味しかった… …1個あげる。」
「良いの?良悟が楽しみにしてた奴でしょ?」
「ん。俺の"楽しみ"1個だけ分けてあげるっ。」
美味しいから和己にもあげる。
これ食べれば嫌な夢も、うんざりする仕事も多分ちょっとだけマシになる。
爪楊枝がブスッと刺したバームクーヘンを…普通に渡すのはつまらないな。
チラッと和己を見る。
俺を見てた。
嬉しい。
その目が、かぱっと開けた唇に向くのが分かってまるで和己の唇にするように、バームクーヘンにキスをした。
「俺ねぇ、良悟のそのニヤッて上がる口角好きなんだよねぇ♡」
「んふっ。」
「食べさせてくれるハニー?」
「なんだソレっ」
ハニー?
じゃあダーリンって言えば良いのか。
でも、そんな馴染みのない呼び方されてもノらない。
「何時ものが良いっ。」
「俺の黒柴くん?」
「ん…それ好き。食わせてあげるから、あーんして和己。」
モグモグしてる。
俺は、飲み込む時に動くこの喉仏が好き。
「ソファ貸してほしい。」
「どうぞ?好きに使って良悟。」
「ん。」
バームクーヘンだけ和己にキスするのやっぱズルい。
俺も、2回唇に吸い付いて離れた。
柔らかくて薄い、和己の感触がした。
「良悟。」
「ん?」
「ご機嫌だね、可愛い。」
「ん。和己のお陰。ありがと。」
ーーーーー
意外と言えるほど、知ってる訳では無いが。
これは何と言うか意外だったな。
「そっちは俺のじゃない、」
「代永か?」
「ん」
誰かと暮らすという事がどういう風な物か俺には分からないが、2LDKのLがこれだけ散らかっていて、大丈夫なのか?
一部屋は寝室らしい。
もう一部屋は荷物が全部突っ込んであった。
そして問題のリビングは教科書やらノートが、いや…散乱してるのは代永の教科書であって、八木のは床に綺麗に積み上がっていた。
散らかってる様に見えて何が何処に有るのか把握してるタイプと、よく使う物は近くに積み上げて行くタイプか。
「転んだりしないか、?」
「和己はよく転んでる」
「だよな」
テーブルを挟んだ向こう側が代永のテリトリーらしい。
足の踏み場は、何処だ。
「見たい所が見える様になってるから、動かすと混乱するんだって」
「そうか。八木も、これ大変だろ。プリント折れてるぞ」
「それ、終わった奴だから大丈夫。」
終わった奴が何故そこに有るんだ。
恐らくだが捨てるのが面倒になったんだな。
ローテーブルの天板まで積み上げれば、そうだな。
「和己、なんて」
「手拭いで手首を縛り上げろ、と。」
「それしなくて良い」
「しなくて良いというのは、平気だからしなくて良いという意味で合ってるか。」
「うん」
「そうは見えない。」
なんだろうな。
叱られるのが怖い子供みたいに見える。
俺に叱られるのが嫌なのか。
それはつまり、俺は思ったより好かれてるのだろうか。
「膝に、乗ってみないか」
「ーーぇ?」
「ほら、」
俺はデカいから良く子供に登られる。
流石に同年代を膝に乗せた事は無いが、合宿で抱いた八木の重みを覚えている。
ずっしりと乗る身体の割によく跳ねる腰、整えられた爪がチクチク引っ掻く痛み、震える息。甘くのびる声。
「やったこと、ない」
「尚更だな。ほら、」
おずおずと寄ってきた八木は、明らかに困っていた。
「どうやって座ればいい、?」
「そうだな…前か横か、片方はどうだろうな。出来れば両膝にしてくれると安定して良いな。」
「前…両膝、横ーー?」
「代永の膝には乗らないのか」
「そんな風に乗った事は、無い」
「俺は慣れてる。」
言って後悔した。
俺は馬鹿だと、何時言い聞かせてもコレは予想出来なかった。
「や、ぎ」
「ん?」
「前、向いてくれないか」
「向いてる。ドキドキする」
俺もドキドキする…っ、態とじゃないのかコレは。
「反対向かないか、」
「ううん。」
息が止まりそうだ。
落ち着け。
眠くてグズる子供も同じだ。
向かい合わせに膝の上に乗せ、耳を心臓に付けるように抱き締めて背中をあやしてやれば眠る。それと同じーー筈だ。
「横でも良い、ん」
「これがいい」
「そうか」
八木は思いの外、この体勢を気に入ったらしく。
ずっと強張っていた身体から力がスッと抜けたのが分かった。
呼吸も深く、視線も落ち着いた。
これが、安心するのなら背中をトントン、とあやす事にした。
「こどもみたい」
「施設で、これだけは上手いと評判だったからな。八木にも効くならもっとやってやる。」
「ほんと?」
「嫌じゃなければ、だが。子供扱いしてるみたいで気に触るなら言ってくれ。俺はあまり気が利く方じゃ無い。」
眠くなるとグズる子供や、夜になると不安で眠れない子供は少なからず居た。
そんな子供に呼ばれてお願いされれば、いくらでもやった。
「嫌じゃ無い。その話もう少し聞きたい…評判だったってやつ。」
「デカくて頑丈なのは安心するらしい。」
本を読んであげるから代わりに抱っこして、と言う女の子。
おれが勉強みてやるよ、と膝に乗って来る男の子。
一緒に勉強すると言って片膝に座って、ひらがなだけを読む子。
「本当に新聞を読む子も居たな。」
「すごい、」
「読み辛くて2日で辞めた。」
「大きいから?」
「いや、今読んでいた文章が次どこに続くのかが分からないと言っていた。」
「へぇ。」
「慣れればそうでも無いだろうが、一生懸命文章を追いかけては見失ってたな。」
「千田は楽しかった?」
よく人から聞かれる事が有る。
大抵決まっていてこれもその一つだ。
やっぱ楽しい?
他にも、楽しそうだとか親が居ないだけ自由じゃん、とか。
だが、俺が楽しかったか聞かれたのはこれが初めてだ。
「楽しくない時も有る」
「うん」
「でも楽しい事も有った」
「そっか。」
「今思えばだがな。」
俺は今、なんでこんな話をしてるんだろうな。
代永の時もそうだった。
聞き上手だな二人とも。
そうでなければ、こんな風に振り返ってあれは楽しかった、これは楽しく無かったなんて考えもしなかったかも知れない。
「八木は、無いのか?」
「多分有ると思うけど」
「けど?」
「思い出せない。嫌な事はいっぱい覚えてるのに」
「聞いても良いか?」
「良いけど」
「八木は酷い事をされたのか。痣や怪我をしたりしたか、?」
この手の話を聞くのに、俺程慣れた人間も珍しいだろうな。
もっと聞きづらそうにするべきだったか。
「いや、してない。」
「じゃあ中身だな。」
「なかみ」
「俺には痛そうに見える。痣も付けず怪我もさせずに殴るのは難しい事じゃ無い。女でも子供でも出来る事だ。」
八木が、なんでと聞いてきた。
何でも何も。
「さっき、スマホを耳に当てた時首をすくめただろ。」
「そんなことで」
「そんな事、じゃない。」
拳骨を受け止める気合いと信頼関係が有る奴らなら、ああいう風にはならない。
何時も誠実な人がくれる一発と、納得出来ないまま一方的に殴られるのとでは訳が違う。
「首をすくめて顔を避けた。唇も噛んでるだろ。それは普通じゃない。」
「見えない様に噛んでたんだけど…そんなにわかるもの、」
「噛む瞬間はどうしたって顎が動く。」
「そっか…ぁ。ほんとだ」
気付きもしなかったのは分かるが、何で今試したんだ。
「分かんない顔してる方が良いと思って」
こう言う時、掛ける言葉が見つからない。
納得出来ないまま、嵐が過ぎるのを待つ。
何とかマシになる様、色々工夫して。
「俺にそんな気遣いは要らない。嫌なら嫌と言ってくれ。俺が抱きたいからって、無理に抱かれるのも駄目だ。八木の尊厳が揺らぐ。」
「尊厳が揺らぐ。」
「あぁ。」
「俺、尊いの?」
「可愛いだろ。」
「ん?」
「可愛いものが傷付くのは駄目だ。良いな。」
「わ、かった。俺はかわいい?」
「あぁ、可愛い。」
結局その日、代永はバイトを休んだ。
代わりに俺が出る事になったが、八木をきちんと引き継げた事に心底安心して肝心な事をひとつもふたつも忘れてしまった。
ーーーーー
「良悟。」
「ん?」
「3回目のデートでキスのひとつもしてないってまじ?」
「まじ♡」
「アイツの脳味噌どうなってんだよ、」
「俺が」
「うん?」
「俺が膝に乗っても、何もされなかった。」
「膝?膝に乗ったの良悟!?」
「うん。」
「騎乗位じゃん。」
「俺もそう思う。他に膝の乗り方分かんなくて。でもいっぱい話して、あやしてくれて…終わった。」
「アイツ本当は不能なんじゃねぇの、!?」
「ちょっと硬かった、多分。」
俺はその日、千田にメッセージを送っておいた。
俺に気を遣って良悟を抱かないなら、ぶっ飛ばすぞって。
それなのに、シフト明けで送ってきたであろう返事は只の脳味噌お花畑野郎だった。
ーーー
正直、気を遣う暇は無かった。
八木を見てたら1日が終わっていた。
すまない
手を出したいのは山々だが、眺めてるだけで1日が終わるのに俺は何時手を出せば良いんだ?
ーーーーー
「良悟ー。」
「なにー?」
「千田が、良悟眺めてたら1日が終わったって。」
「え、なんで?結構、色々したけど。」
「何したの?」
「本屋、バッティングセンター、モール。」
「アイツ運動何でも出来そうだよなぁ。」
ーーーーー
代永が返事を送ったあと、すぐに八木からもメッセージが来た。
宛先を見た時、余計な事を言ってすまん、と送るつもりでいた。
本当にそう思っていた。
ポン、と表示された吹き出しを見るまでは。
ーーホームランカッコ良かった。
変な声が出た。
自分でも聞いた事ない様な、悲鳴なのか呻き声なのか分からないが。
とにかく心臓に悪い。
それも、元野球少年に言われると破壊力が違う。
代永はどうやってコレを凌いでいるんだ。
返事はたった一言。
知るかバカ、だった。
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