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第4章 4
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寒さにいつもより早く目が覚め雨戸を開けると、昨夜の吹雪は既に止んでいた。
余程昨夜は降ったらしく、庭の植え込みも達磨のように雪に埋もれている。
久々の雲一つない快晴だった。道理で今朝は寒かったはずだ。冬の朝は晴れた日の方が冷えが厳しい。
洗顔のため庭に降り、何気なく采女取山の方に目をやる。
……目を疑った。
山が、真っ赤な血を流していた。
履きなれぬカンジキにつんのめりそうになりながら山道を登る。この前カモシカを見かけたといってひどく興奮していた源三から、山中に罠を仕掛けたと聞かされていたから、注意して登らなければならない。
それに雪崩も怖い。早朝は恐ろしく冷えるとはいえ冬の快晴は日が昇れば急激に気温が上がる。去年は飢えを凌ぐため木の根を掘りに来た村人が雪崩に巻き込まれ、未だに見つかっていないと聞いた。そうでなくとも、木の枝の上で溶けては凍りを繰り返し根雪のようになった雪の塊が頭上から落ちてきたら只では済まない。
――冬の采女取山に近づいちゃいけない。嫌なものをみることになる
ひと月ほど前に言われた庵主の言葉が、ふと頭を過る。
暫く歩いたところで人影を見つけた。向こうもこちらに気づき吃驚したように立ち止まったが、すぐに安堵の様子を見せてこちらに駆け寄ってきた。
「佐保子」
白息を弾ませながら嬉しそうに笑う。何していたのか問うと、小さな麻袋から何粒かの団栗を取り出して見せた。
「掘り出して集めてたの?」
コクリと頷く。
――しいのきのねもとをほるの
今朝から山に入り、ずっと椎の木を探しては、その根元の雪を掻いて団栗を拾い集めていたらしい。
それでも見つかったのはほんの数粒だけ。もうあらかた採り尽くされた後なのだろう。
「すっかり身体が冷えてるじゃないか」
冷たくなった佐保子の手を握って擦る。ただでさえこの二三日身体の調子がおかしかった佐保子だ。時々えずく様子さえ見せていた。今身体を壊しても、医者のいる街まで山を越えていくことは出来ないのだ。
――あなたのて あたたかいわ
たまらず佐保子を抱きしめる。幸せそうに佐保子が顔を埋めてくる。
どうしようもなく、愛おしかった。
暫く二人で団栗を探してみたが、なかなか見つけられなかった。
既に日は少し西に傾き始めている。まだ日没まで何刻かあるとはいえ、冬の陽は足が速く、天気は移ろいやすい。それに、随分山頂近くまで分け入ってしまった。
山を下りる途中、突然空気が漏れるような悲鳴を上げて佐保子が足を滑らせ体勢を崩し、思わず繋いだ掌に力を込めた私も一緒に、山道脇の急な土手を転がり落ちてしまった。
雪の斜面は思いの外深く、谷の底まで転げ落ちようやく滑走が止まった。
「大丈夫?」
傍らでひっくり返ったまま目をぱちくりさせている佐保子がコクリと頷く。
随分高い処から落下したわりには、二人とも掠り傷一つ負わずに済み、少し安堵したが、見上げると、元いた山道は見上げるほど頭上にあり、とても此処から登って戻れるような高さではなかった。
「どこか登れるところを探そう」
佐保子を立ち上がらせ、付近を見回してみる。
「――っ!!」
突然、佐保子が腕にしがみついてきた。
何かを訴えるように、酷く怯えた顔で熊笹の茂みの向こうを指差している。
その指し示す先に目を向ける。
雪の中に紅い花が咲いていた。
一見、春を告げる福寿草のような、儚い風情の小さな花。だが、
(……なんだ、この気持ちの悪さは?)
その息を呑むほどに鮮やかな紅の花弁は、まるで真っ白な肉を喰い破り顔を覗かせた寄生虫のような怖気を催す不気味さを感じさせる。
更に、その少し先にも、同じように紅い花が、更にそのまた先にも不吉な花が、更に更に更に更に──。
辺り一面が、不気味な花の群生で真っ赤に染まっていた。
(これが、山を染めていたものの正体か)
花に手を伸ばそうとする私の腕を佐保子が掴んで首を振る。大丈夫だよと頷いて花の根元を探ろうと雪を払いのける。
今度は私が悲鳴を上げて飛び退いた。
人が死んでいた。……それも、まだ小さな子供だ。
俯せに身を横たえた、その小さな背中を食い破って花は咲いていたのだ。
「見るなっ!」
そう叫んだが既に遅く、背後でぺたりと腰を抜かす佐保子の気配が聞こえた。
(まさか、これが全部?)
一面に咲き乱れる悍ましい花畑を呆然と見渡した。
……いつからだろう。里の子供たちを誰一人見かけなくなったのは。
(……「間引き」か!)
恐ろしい直感が浮かんだ。
「っ!」
突然佐保子が立ち上がり、子供の亡骸に飛びついた。
一心不乱に雪を掻き分け、亡骸を掘り起こす。
「まさか……?」
雪を払い除け終えると、佐保子は亡骸に取り縋り、声にならない慟哭を上げて泣きじゃくった。
「……平太?」
──坊さん 坊さん どこ行くの
あたしはお山へ 餅つきに
(……あの歌は)
──あたしも一緒に連れしゃんせ
一緒に行こか ふたり手引ィて
(……子供を山へ連れて行くんだ)
──三叉の辻を三つ曲がり
五つ堤を 五度巡り
(……山道をひたすらぐるぐる歩いて)
──七つに足らぬ 六つ子を連れて
(……そうやって、小さな子供の方向感覚を狂わせて)
──吹雪吹きゃがる 九やコンコと
(……吹雪だから、引かれていた手を解かれたらすぐに後姿を見失う。足跡も、雪に埋もれて、いくら探しても見つけられなかった)
──峠越えリャず 紅い花コ咲いたと
平太の小さな亡骸を見下ろす。冷たくなった身体を、赤い寄生花が根を張り食い荒らし、肥やしにして食い破る。
──ハア 坊さん 坊さん
(……お坊様、お坊様と、何度も何度も呼んだんだ。……寂しくて不安で、泣き叫びながら呼んだんだ)
──坊、坊よ。
揺り起こされ、眠い目を擦り見上げると、いつも優しくしてくれる破れ寺の坊様が微笑んでいた。
なんでこんな夜中に俺ラの家さ坊様が?
──山さ餅を食いに行くべェ
でも、父ちゃんと母ちゃんが。
見回すと、傍らで寝ているはずの父と母と兄の姿が見えない。
──父ちゃんと母ちゃんは先に山さ行ってお前を待ってる。さあ、なンも支度すねで良いがら行くっぺし
……そう言って坊様は、あの吹雪の夜、私の手を引いて采女取山へ私を連れて行った。
思い出した。
あの年も酷い飢饉で、村に何も食べるものがなくなったのだ。
それで、私は山へ送られた。
しかし、私は生きて山から帰ってきた。本当ならあり得ないことだ。
だから、私は村の外へ預けられた。
そして、十数年後再び村へ帰った時は温かく迎えられた。村のためになる人手として成長して戻ってきたから。
だが兄は自ら志願して戦場へ向かった。そして死んだ。ひょっとしたらこの花を見てしまったからかもしれない。
思えば、小さい頃に一緒に遊んだはずの同世代の村人は誰一人見かけていない。
皆、この子達と同じように――。
半狂乱で怯え、泣きじゃくる佐保子を抱え下山した。
破れ寺の坊様はとうの昔に鬼籍に入った。
……今は跡目を継いだ尼僧がいる。
余程昨夜は降ったらしく、庭の植え込みも達磨のように雪に埋もれている。
久々の雲一つない快晴だった。道理で今朝は寒かったはずだ。冬の朝は晴れた日の方が冷えが厳しい。
洗顔のため庭に降り、何気なく采女取山の方に目をやる。
……目を疑った。
山が、真っ赤な血を流していた。
履きなれぬカンジキにつんのめりそうになりながら山道を登る。この前カモシカを見かけたといってひどく興奮していた源三から、山中に罠を仕掛けたと聞かされていたから、注意して登らなければならない。
それに雪崩も怖い。早朝は恐ろしく冷えるとはいえ冬の快晴は日が昇れば急激に気温が上がる。去年は飢えを凌ぐため木の根を掘りに来た村人が雪崩に巻き込まれ、未だに見つかっていないと聞いた。そうでなくとも、木の枝の上で溶けては凍りを繰り返し根雪のようになった雪の塊が頭上から落ちてきたら只では済まない。
――冬の采女取山に近づいちゃいけない。嫌なものをみることになる
ひと月ほど前に言われた庵主の言葉が、ふと頭を過る。
暫く歩いたところで人影を見つけた。向こうもこちらに気づき吃驚したように立ち止まったが、すぐに安堵の様子を見せてこちらに駆け寄ってきた。
「佐保子」
白息を弾ませながら嬉しそうに笑う。何していたのか問うと、小さな麻袋から何粒かの団栗を取り出して見せた。
「掘り出して集めてたの?」
コクリと頷く。
――しいのきのねもとをほるの
今朝から山に入り、ずっと椎の木を探しては、その根元の雪を掻いて団栗を拾い集めていたらしい。
それでも見つかったのはほんの数粒だけ。もうあらかた採り尽くされた後なのだろう。
「すっかり身体が冷えてるじゃないか」
冷たくなった佐保子の手を握って擦る。ただでさえこの二三日身体の調子がおかしかった佐保子だ。時々えずく様子さえ見せていた。今身体を壊しても、医者のいる街まで山を越えていくことは出来ないのだ。
――あなたのて あたたかいわ
たまらず佐保子を抱きしめる。幸せそうに佐保子が顔を埋めてくる。
どうしようもなく、愛おしかった。
暫く二人で団栗を探してみたが、なかなか見つけられなかった。
既に日は少し西に傾き始めている。まだ日没まで何刻かあるとはいえ、冬の陽は足が速く、天気は移ろいやすい。それに、随分山頂近くまで分け入ってしまった。
山を下りる途中、突然空気が漏れるような悲鳴を上げて佐保子が足を滑らせ体勢を崩し、思わず繋いだ掌に力を込めた私も一緒に、山道脇の急な土手を転がり落ちてしまった。
雪の斜面は思いの外深く、谷の底まで転げ落ちようやく滑走が止まった。
「大丈夫?」
傍らでひっくり返ったまま目をぱちくりさせている佐保子がコクリと頷く。
随分高い処から落下したわりには、二人とも掠り傷一つ負わずに済み、少し安堵したが、見上げると、元いた山道は見上げるほど頭上にあり、とても此処から登って戻れるような高さではなかった。
「どこか登れるところを探そう」
佐保子を立ち上がらせ、付近を見回してみる。
「――っ!!」
突然、佐保子が腕にしがみついてきた。
何かを訴えるように、酷く怯えた顔で熊笹の茂みの向こうを指差している。
その指し示す先に目を向ける。
雪の中に紅い花が咲いていた。
一見、春を告げる福寿草のような、儚い風情の小さな花。だが、
(……なんだ、この気持ちの悪さは?)
その息を呑むほどに鮮やかな紅の花弁は、まるで真っ白な肉を喰い破り顔を覗かせた寄生虫のような怖気を催す不気味さを感じさせる。
更に、その少し先にも、同じように紅い花が、更にそのまた先にも不吉な花が、更に更に更に更に──。
辺り一面が、不気味な花の群生で真っ赤に染まっていた。
(これが、山を染めていたものの正体か)
花に手を伸ばそうとする私の腕を佐保子が掴んで首を振る。大丈夫だよと頷いて花の根元を探ろうと雪を払いのける。
今度は私が悲鳴を上げて飛び退いた。
人が死んでいた。……それも、まだ小さな子供だ。
俯せに身を横たえた、その小さな背中を食い破って花は咲いていたのだ。
「見るなっ!」
そう叫んだが既に遅く、背後でぺたりと腰を抜かす佐保子の気配が聞こえた。
(まさか、これが全部?)
一面に咲き乱れる悍ましい花畑を呆然と見渡した。
……いつからだろう。里の子供たちを誰一人見かけなくなったのは。
(……「間引き」か!)
恐ろしい直感が浮かんだ。
「っ!」
突然佐保子が立ち上がり、子供の亡骸に飛びついた。
一心不乱に雪を掻き分け、亡骸を掘り起こす。
「まさか……?」
雪を払い除け終えると、佐保子は亡骸に取り縋り、声にならない慟哭を上げて泣きじゃくった。
「……平太?」
──坊さん 坊さん どこ行くの
あたしはお山へ 餅つきに
(……あの歌は)
──あたしも一緒に連れしゃんせ
一緒に行こか ふたり手引ィて
(……子供を山へ連れて行くんだ)
──三叉の辻を三つ曲がり
五つ堤を 五度巡り
(……山道をひたすらぐるぐる歩いて)
──七つに足らぬ 六つ子を連れて
(……そうやって、小さな子供の方向感覚を狂わせて)
──吹雪吹きゃがる 九やコンコと
(……吹雪だから、引かれていた手を解かれたらすぐに後姿を見失う。足跡も、雪に埋もれて、いくら探しても見つけられなかった)
──峠越えリャず 紅い花コ咲いたと
平太の小さな亡骸を見下ろす。冷たくなった身体を、赤い寄生花が根を張り食い荒らし、肥やしにして食い破る。
──ハア 坊さん 坊さん
(……お坊様、お坊様と、何度も何度も呼んだんだ。……寂しくて不安で、泣き叫びながら呼んだんだ)
──坊、坊よ。
揺り起こされ、眠い目を擦り見上げると、いつも優しくしてくれる破れ寺の坊様が微笑んでいた。
なんでこんな夜中に俺ラの家さ坊様が?
──山さ餅を食いに行くべェ
でも、父ちゃんと母ちゃんが。
見回すと、傍らで寝ているはずの父と母と兄の姿が見えない。
──父ちゃんと母ちゃんは先に山さ行ってお前を待ってる。さあ、なンも支度すねで良いがら行くっぺし
……そう言って坊様は、あの吹雪の夜、私の手を引いて采女取山へ私を連れて行った。
思い出した。
あの年も酷い飢饉で、村に何も食べるものがなくなったのだ。
それで、私は山へ送られた。
しかし、私は生きて山から帰ってきた。本当ならあり得ないことだ。
だから、私は村の外へ預けられた。
そして、十数年後再び村へ帰った時は温かく迎えられた。村のためになる人手として成長して戻ってきたから。
だが兄は自ら志願して戦場へ向かった。そして死んだ。ひょっとしたらこの花を見てしまったからかもしれない。
思えば、小さい頃に一緒に遊んだはずの同世代の村人は誰一人見かけていない。
皆、この子達と同じように――。
半狂乱で怯え、泣きじゃくる佐保子を抱え下山した。
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